下
千年族は二十歳になると、全ての成長が止まってしまう。
百歳の僕は二十歳の精神と肉体で、ライカの死と向き合っていた。
僕は昔の記憶をずっと回想していた。やっぱり十分の一しか一緒にいられないのは悲しいことだよな、と昔の自分を嘲笑する。
二人で過ごした九十年間は感傷に変わり、僕の胸を刺した。冬とラムネが溶け合ったよくわからない概念も、九十年越しに僕の胸を満たしていく。昔と一つ違ったのは、それに悲しみが含まれていたことだった。去来した九十年の歴史の中に、明らかな異物が混ざっている。そして、溶けていく。
今感じている悲しみが過去の思い出に溶けていく感覚は、気持ち悪かった。
僕は何もかも投げ出したくなった。
寝室のクローゼットに入っていたライカの遺品を床に叩きつけた。耳をつんざく音が鳴り、僕の中の不快感を増幅させた。
しかし、やめられなかった。遺品を全て壊してしまえば、悲しみという呪縛から解放されると信じていたからだ。
指輪。
衣服。
二日でやめた煙草。
ライター。
ゲーム機。
スマホ。
大人になり写真家になったライカが撮った写真。
僕はあらゆるものをぶち壊した。
写真は、窓の外に出てライターで燃やした。
灰になった写真は、僕の知らないところに飛んでいった。でも、気持ちは晴れなかった。僕が信じたものが間違いだったことを、今更悟る。
悲しみから救われない理由は、すぐに思い浮かんだ。記憶だけはどうしても壊せないからだ。今しがた壊したものも、僕の記憶の中ではその形を保った状態で存在している。生きている。死んだライカも、生きている。あと九百年経って僕が死ねば、記憶も死ぬのだろうけど。
「そんなの長すぎるよ!」
絶え間ない嗚咽が静謐なクローゼットを汚す。空気の振動なんて無ければ、漏らした嗚咽を自分自身で聞かずに済んだのに。
僕は記憶と悲しみと優しすぎる思い出を抱えて、外に出た。
羽織ったコートが意味を為さないほどに寒かった。
九十年も経てば文明は発展する。僕が十歳だった二千二十三年と現在の二千百十三年とでは、街の景色が変わり果てている。
変わらないのは、思い出だけだ。
僕の横を通り過ぎた完全自動運転の車は、僕の抱えている全てを攫ってくれなかった。あまりにも重すぎたのだろうか。正直、僕も重みで歩きづらいと思っていたところだ。抱えるだけで精いっぱいだった。
「悲しみだけが人生なのは、あんまりだよ」
「そうだな」
僕の情けない独り言に反応した奴がいた。背後を振り向くと、ライカを仲立ちとして友達になったキキョウが立っていた。大柄な体格の、良い奴だ。写真家の彼は、被写体探しの散歩中にライカと出会い、そこから仲を深めたそうだ。
彼のカメラは、ライカと同じ〈ライカ〉だ。〈ライカ〉で撮った物はリアルよりもリアリティが表れ、滑らかでいて淡い色調をもって物を写す。
ライカは〈ライカ〉をよく持ち歩いては、街の写真を撮っていた。まあ、さっきの僕が燃やしてしまったが。
「よっ」
キキョウはいつもと変わらぬ調子だった。真冬なのに喪服のジャケットを脱ぎ、袖を捲っていた。おかしな奴だった。鍛え抜かれた筋肉で寒さを撃退しているのかもしれない。実際、彼の腕は驚くほど太かった。
「葬式、お疲れ」
彼は屈託のない笑みを浮かべる。冬の寒さには似合わない、暖かい表情だった。でも、今の僕にはそれを受容できるだけのメンタルが残されていなかった。
たぶん、これからもずっとそうだ。僕は無いに等しいメンタルでずっと生きていくだろう。そして冬が来るたびに今日の葬式を思い出し、凍てつく外を当てもなくふらつき、ふとした瞬間に涙を零して水たまりをつくるのだ。
それはやがて凍り、踏んだ人の足元を滑らせる凶器となる。
「キキョウは、悲しくないのかよ」
「悲しいさ。でも、思い出だけは消えないし、悲しくない。思い出に救われてるよ」
「僕はその逆だよ。今すぐにでも、思い出なんか捨ててしまいたい」
僕は正面に向き直り、歩き出す。キキョウの声をこれ以上聞きたくなかった。
「おい、待てよ」
肩を掴まれた。僕は振り返り、キキョウを睨みつける。しかし、彼の暖かい目を見ていると、殴る気が失せてしまった。情けない僕なんかと違って、彼は前を向いて生きている。そんな偉すぎる友人に反抗できるはずがない。
「……なんだよ」
「俺の家、寄ってくれよ。葬式終わった後に一時間ばかり人が来てたんだが、お前だけ一人で帰っちまったじゃないか」
「だからなんだよ。帰ったっていいだろ」
「そういう話をしてるんじゃなくてだな。お前に渡すもんもあるし、頼むから来てくれよ。散歩中の出会いは貴重だぜ?」
僕は渋々頷いた。
*
キキョウの部屋は、写真が散乱していた。
「相変わらずの散らかりようだ」
僕はため息を吐く。空気中の埃がフワッと吐息に吹かれた。
「来てもらったはいいものの、お前にはまだ渡すべきではないかもしれない。今のお前には、な」
「は?」
思わず攻撃的な口調で言ってしまった。
「でも、せっかく来てくれたんだから、コーヒー一杯、どうだ?」
「僕は来たくて来たんじゃない。用を済ませて、さっさと帰りたいんだ」
部屋中に舞う埃。
かつて清潔だった白い天井を蝕む茶色いシミ。
よくわからない茶色い何かがこびりついた椅子。
不潔の象徴と呼べそうな部屋を、一刻も早く立ち去りたかった。何より、写真を床に放置しているのがあり得ない。
「いや、燃やす奴よりはマシか」
「なんて?」
「なんでもない。とにかく、渡すもんとやらをさっさとくれ」
僕の話し方に棘があるのは明らかだった。いつもはこんなじゃない。それを指摘しないでいてくれるキキョウは、どこまでも暖かくて、優しい。
彼は奥の部屋に入り、数分後に戻ってきた。手には小さな木箱を持っている。僕はそれを受け取り、蓋を開けようとした。
「待て」
しかし、キキョウが犬を叱りつけるみたいに低い声でそう言うので、僕は手を止めた。
「今のお前にとって、それは特級呪物だ。まだ開けるべきじゃない。気分が落ち着いたら、開けてもいい」
その後も、彼が言葉を変えては『開けるな』という旨を繰り返すため、僕は彼の前では開けないことにした。
*
千年目が来ても、僕の気分は落ち込んだままだった。何も落ち着いちゃいない。
さすがに部屋の掃除くらいしてから死ぬか、と寝室に向かった。
そこには、いつかキキョウからもらった木箱があった。あの日の帰宅後も僕は虚無感に苛まれ続けて、次第に木箱を開く気力も失っていったことを思い出した。キキョウの目が無い所で開けようという悪だくみは、呆気なく失敗に終わっていた。
死ぬ前に見ておこう。そう思って、僕は木箱を一切の躊躇なく開いた。
果たして、中には向日葵畑の中で笑う長い黒髪の女の子の写真——ライカを写した写真が入っていた。黒髪は、僕の記憶の中のものよりも、はるかに艶やかに写っていた。記憶の中の彼女よりもずっと唇が赤い。顔も小さい。
白いワンピースと麦わら帽子がよく似合っていた。
鮮明に覚えていたはずの記憶は、歴史と共に薄れていたのだ。写真の中の彼女と記憶の中の彼女とでは、解像度が大きく違った。写真のほうが、何倍も、何千倍も、美しかった。
木箱の中には、もう一枚、紙切れが入っていた。
それを広げると、こう書かれていた。
『ネリネへ。
この写真は、キキョウくんに撮ってもらいました。寿命の十日前に彼に頼んで、撮ってもらいました。私が死んだらネリネに渡してね、って。向日葵、綺麗でしょ。
あ、今、ちょっと怒った?
ひまわり畑に僕と行ったことは一度もなかったじゃないか、って。
私は、それこそが狙いでした。
私が死んだ後もネリネと私に新しい思い出ができるように、あえて二人が行ったことのない場所を選んだんです。
ロマンチックだと思うけど、君はどうかな。
ライカより』
手紙は、それだけだった。
僕の目から大量の雫が溢れ出した。
僕は、どうしようもない後悔に襲われた。
ライカの遺品を壊したこと。燃やしたこと。
彼女は、死んだ後も思い出を大事にしようとしていたのに。
思い出に
もしも記憶の破壊が可能だったら、僕はそうしていただろう。ライカに合わせる顔がない。
「ごめん、ごめん、ライカ……!」
僕はまるで何かに突き動かされたみたいに、壊した遺品の全てをリュックサックの中に詰め込み、木箱の中の写真を握りしめ、外に出た。
空飛ぶ車の下を走り、人々の眼前に浮かぶホログラムを横切った。
彼女のお墓に、遺品の全てを捧げた。
時間がない。僕の寿命は後少しだ。千年族は千年目に死ぬ運命にあるのだ。それはもしかすると権利なのかもしれないし、義務なのかもしれない。
寿命が近づくにつれて、肺や心臓がずきずきと痛んだ。
それでも、走った。
着いたのは、卒業式の日に行き損ねた海だった。
僕は写真を握りしめたまま、海に飛び込んだ。凍るような温度の冷水が全身を冷やしていく。これで、僕の役目は終わりだ。
〈あの日行き損ねた海に行く〉という、新しい思い出を作れたのだから。
千年先のライカ 筆入優 @i_sunnyman
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