千年先のライカ
筆入優
上
ライカと出会った日のことは、今でも鮮明に思い出せる。僕が近所の駄菓子屋で季節外れのラムネを買った帰りのことだ。夏よりも色濃く見える冬の青空の下で、ライカは無色透明の涙を流していた。それは水たまりを作って、広すぎる空のほんの一部を反射していた。顔を伏せたとて、晴れの日の水たまりはその行動を無効化していた。
「どうしたの?」
僕は玄関先でしゃがみ込むライカに尋ねる。目線を合わせたほうがいいかな、と思い、僕もしゃがんだ。
彼女は顔を上げ、腫れた目で僕を見つめた。
長い前髪から覗く蒼い目に、透明な雫が滲んでいる。きっと彼女は不憫な状況にあるのだろうけど、僕はその顔を美しいと思ってしまった。
純朴な泣き顔が、僕の胸を美しく貫く。
「話しかけないで!」
大人しかった彼女が突然叫び、小さな両手で僕を突き飛ばした。
「うわっ」
僕はのけ反った上体を倒れる寸前で戻した。
「ぼ、僕は帰るから。君もお母さんのとこに戻りなよ」
僕はぶっきらぼうに言い、立ち上がる。
隣の自分の家まで歩き出したところで、ライカは僕が着ていたコートの裾を掴んできた。
「話しかけないでほしいんじゃないのか」
僕は首だけ振り向く。彼女の意図が掴めなかった。
「喋りかけないでほしいけど、どこにも行かないでほしいの!」
彼女は恥ずかしそうに俯く。喋りかけないでほしいけどどこにも行ってほしくないなら、僕の仕事は〈ただ彼女の傍にいること〉に限定される。この推測は、当時十歳だった僕にしては達観していると思う。でも、彼女を不快にさせないための手段がそれしかなかったのだから、仕方のないことだ。
僕は彼女の隣に座り、ラムネを飲んだ。体の外側を刺激する冷気と内側を刺激する炭酸が淡く溶け合い、僕の胸を満たした。
「ねえ」
不意に、ライカが沈黙を破った。
飲み干したラムネの瓶を逆さにしてビー玉をゴロゴロさせる遊びを中断し、僕は彼女の続きを待った。
「あなた、名前は?」
ライカは言った。
「もう喋っていいの?」
僕は首を傾げる。
「もう落ち着いたからね。さっきは突き飛ばしてごめん」
「別に構わないよ」
「ありがとう」
数秒の沈黙。
「何の話だっけ?」
ライカが笑う。
「そうだ、名前を聞かれたんだった。僕はネリネだよ。反対から読んでも、ネリネだ」
「素敵な名前だね」
「君は?」
「ライカ」
「ライカ」
僕は彼女の名前を反復した。
ライカ。
たった三文字の響きが、冷気とラムネで飽和した胸に、ストンと優しく落ちた。
「いい名前だ」
それから、再び沈黙が僕たちを覆った。被った毛布から中々出たくないような感覚が、いつまでも僕たちを包んでいた。沈黙すらも心地よく感じられたのだ。
「私、百年しか生きられないの」
ライカが唐突にカミングアウトした。
「つまり、劣等種?」
僕は千年族として生まれてきた。千年族は、生まれた瞬間から千年後まで生き続ける。
一方、劣等種と呼ばれる者は、千年以下しか生きられない。小さい頃、母親が教えてくれた。
「うん。お母さんもお父さんも、劣等種の私を嫌ってる。だから、私が家に入れるのはみんなが寝た後なんだ」
思えば、彼女は今までもずっと外にいた。今までの僕は彼女のことを「いつも外にいるなあ」くらいにしか思っていなかった。もっと早く彼女に話しかけていれば、と後悔の念が押し寄せた。それは胸の中の飽和を押し出し、強引に侵入しようと暴れ回っている。
「……そっか」
僕はぽつりと言った。
「私のこと、嫌いにならないの?」
ライカは目をぱちくりとさせた。
「どうして?」
「だって、私は劣等種だよ? 両親からも嫌われるぐらい、醜い存在だよ?」
「むしろ、可哀想だと思ってる。僕がもっと早くライカに話しかけていれば、ライカが泣かない今日があったかもしれないのに、てさ」
その後悔が、〈可哀想〉という言葉が、どれだけ無責任なものなのか、達観していた十歳ネリネにも理解が及んでいなかった。こういうところは、達観していなかった。それはライカも同様だった。もしも僕の無責任さにライカが気づいていたら、きっと僕らは喧嘩別れと相成っただろう。出会ったのが子供時代でよかった。
「ありがと」
ライカは前髪の毛先をいじった。僕も妙に照れ臭くなって「じゃあ、また」と足早に去った。
*
ライカは学校に行かせてもらえていなかった。学校にいるのは千年族だけではなく、ただの人間もいたからだ。彼女の両親は、人間を心底嫌っていた。過去に人間と千年族で戦争が起きたのがきっかけで今でも差別が残っているが、それを気にしているのはライカの両親などのほんの一部で、九割の千年族は人間を受け入れていた。同時に、人間も僕らを受け入れている。
ライカと話した次の日から、彼女の手を引いて学校に連れて行くようになった。教師も笑顔で彼女を出迎えてくれたし、何より、彼女の家庭事情の詳細が教師に伝わるようになったのが良かった。彼女を縛っていた両親による規制も次第に緩和され、ライカを家から閉め出すこと以外は良好になりつつあった。ライカもあの日以来泣くことは二度となく、彼女が外にいる間は僕が傍にいた。
「ライカ」
通学路のあぜ道。草の匂いと冬の柔らかい陽光が僕らを包み込んでいる。
「何? ネリネ」
「学校は楽しい?」
「うん。とても」
「ならよかった」
一言で返事をする仲になるまで、そう時間はかからなかった。出会った時点で沈黙すら心地よく感じられた僕らの関係は、チープな言葉で言い表すなら、きっと〈運命〉なんだと思う。僕はライカに恋心を抱くようになった。
中学、高校も僕らは同じ学校に進学した。
「ライカ」
高校の卒業式の日、十八の春。制服に安っぽいコサージュをつけた僕とライカは海へ向かっていた。僕が誘ったのだ。
「何?」
ライカが反応したのと同時に僕は立ち止まった。
車道を駆け抜ける車が、告白前の緊張感を攫ってくれた気がした。
「ライカのことが、ずっと、好きだったんだ。だから、その、えっと」
さっき僕の横を駆け抜けた車の対向車が緊張感をひったくり、僕の元へ返してきやがった。僕はあと少しのところで言葉が詰まる。海に着いたら告白する予定を、『海に着くまで我慢できない』という理由で変更して告白に踏み出したのに、言葉が出なかった。
「ごめん」
ライカは鈍感ではない。僕が続きを言うよりも先に、彼女は返事をした。僕は呆気にとられた。本音を言うと、僕は断られる気がしていなかったのだ。さっきまで期待に踊っていた胸が、振り付けを忘れたダンサーみたいに動揺する。
「私は、ネリネの寿命の十分の一しか生きられない」
ライカの髪が、風に揺れた。出会った時のような重たい前髪が、今では程よい長さに切りそろえられている。
「そんなの、関係ないよ」
僕は諦めない。
「私以外にも、良い人はたくさんいるよ? ネリネはイケメンだし身長高いし優しいし、絶対良い人が彼女になるよ」
腹の底で、赤い怒りが沸騰している。
徐々にせりあがってきたそれを、僕は一思いに吐き出した。
「それが、ライカなんだよ! 良い人は、君以外にいない」
「そんなことない! 私以外にも良い人がいる、絶対いるから!」
やり場のない、あふれ出る愛と恋心と怒りがアスファルトにぼとぼとと落ちていく。全部が落ち切る前に、ライカに押し付ける必要があった。
僕はライカに歩み寄り、彼女の肩に腕を回した。
コサージュが壁になり、彼女と僕の鼓動は共有されなかった。
「人生のたった十分の一の中に君がいないのといるのとでは、全く違うんだ」
僕は震える声で言った。
果たして、彼女は泣いた。今回は泣き顔が見えない。僕の首筋に落ちた水滴と小さな嗚咽だけが、彼女が泣いていることを示してくれる証だった。
「話しかけないで」
彼女は懐かしいセリフを吐いた。
でも、あの頃みたいに、僕を突き飛ばさなかった。
五分後、彼女は泣き止んだ。
「僕と、付き合ってほしい」
ライカは優しい声で「うん」と囁いた。
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