第4話 灯火の温もり


 ざぁ、と揺れる船は波を掻き分けて進む。暗い海は周囲を見てもよく判らなかったけれど、空の星はとても綺麗に見えた。船乗りは星を頼りに進むのだとタビタは教えてくれる。


 混乱した私を外へ連れ出したのはタビタだった。外の空気を吸った方が良いッス、とまた私の手を引いて甲板へ出れば、嗅いだことのない香りと風に迎えられる。灯りはついていて歩くのに困ることはないけれど、遠くを見渡すまではいかない。それよりも頭上に広がる星空の方が明るいように見え、私は目を奪われて危うく転ぶところだった。


「ドルン領の領民は、皆、多かれ少なかれ呪われてるッス」


 甲板の端まで歩いて行って、先頭から右手の縁にもたれかかりながらタビタが言う。タビタの赤茶色の髪が風に靡いた。私の髪の毛も右へ流れていく。


「数百年前にかけられた魔女の呪いッス。西にある国の、呪われた茨の領地。傍目には呪われてるなんて見て分かんないッス。でも、キスをすれば──あるいはキスをされれば、ドルン領の人間は皆、死ぬッス。だからあたしたちは誰にもキスをしないし、誰のキスも許さないッス。相手がドルン領の領民なら、キスした方もされた方も死んじゃうッスからね」


 たは、とタビタは苦笑する。仕方がないと受け入れている様子で、ずっとそう在ってきたことが窺われた。別に良いんスけど、とタビタは遠くを見つめて言葉を続ける。


「“好き”の気持ちはキスがなくたって伝わるッスから。あたしたちはそうやって生きてきたッス。それに不便を感じることなんてないんス。本当ッスよ。伯爵がちょっと特殊なんス」


 昔は、とタビタは船の縁に両肘をついて両頬を支えた。遠くを見つめたまま、聞いた話を思い起こしているようだ。


「あたしたちの先祖も家族に好きを伝えるためにキスをしたって話ッス。まだ呪われる前の話ッスけど。他の人と同じように家族に好きを伝えて、恋人に好きを伝えて、当たり前に伝えていた好きを、キスなしで伝えるようになって。あたしはまだ十四歳で、だから分かんないんだって伯爵には言われるッスけど……キスがないと困るもんなんスかね」


 そんなのなくたって、伝える方法なんていくらでもあるッスよ、とタビタは言う。私はそれにどう返して良いのか判らず何も答えなかった。私は母からこれはキスと言うの、と教わっていたし、子どもの頃には沢山沢山もらっていた。くれる相手がいなくなってからは忘れていた。頬に、額に、次々と降ってきた母のキスは、私にはとても暖かくてくすぐったかったけれど、タビタたちはそれを知らない。


「だから、おひいさん。気負わなくて良いッス」


 タビタは急に遠くから視線を移して、私を向いた。私は驚いて目を丸くする。にぱ、と笑ったタビタは少女らしい笑顔を浮かべていた。同じ歳頃かと思ったら私よりも遥かに歳下の少女は随分と大人びて見えたけれど、そうして笑うと歳下だという印象が強まる。


「伯爵はどうせ呪いを解いてほしいとか言ったと思うッスけど、ドルン領に帰ってもそう言ってくる領民もいると思うッスけど、でもおひいさんの様子だと呪いを解く方法なんて知らないんじゃないッスか? でも別にそれはおひいさんのせいじゃないッス。誰にも解けなくて追いやられた魔女の一族ッスから、急に解けるようになることも多分ないッスよ。でも別に、今までそうやって生きてきたんスからこれからもそうやって生きてくだけッス。おひいさんが責任を背負いこむことないッスよ」


 あたしがおひいさんを守るッスからね、とタビタは自分の胸をとんと叩いた。胸を張って自信ありげに笑いながら、あたしだけじゃないッスから、とあたしの奥へ視線を向ける。にんまりと笑うタビタがギーフト、と楽しそうに呼び掛ければ私の後ろから靴音がした。驚いて振り向けばギフトがこちらに歩いてくるところだった。いつからいたのだろう。


「ギフトもおひいさんを守るってさっきの見てると思ったッスけど、間違ってないッスよね?」


「……そうだな」


 ギフトはタビタの言葉に頷くと、私の前まできた途端に片膝をついた。え、と驚く私にギフトは胸に片手を当ててチサ嬢、と呼んだ。私のこと、だろうか。名前はそうだから別人ということもないだろうと思いながら、どう答えるべきか判らなくて私はまたも答えられないままギフトを見つめた。


「決めた。俺はあなたを守りたい。あなたを守るめいをくれないか」


 守る、と言われても、と私が驚きから二の句を告げずにいると、タビタが頷いて良いと思うッスよ、と私に囁いた。タビタに視線を向ければタビタは相変わらずにんまりと笑ったまま楽しそうな声で続けた。


「ギフトには必要なんスよ、自分が守るお姫様が。おひいさんはギフトの好みのタイプで、こんなに熱を上げてるッス。ギフトの本業は狩人ッス。その腕を買われて伯爵の護衛で従者をしてるッスけど、獲物を仕留める腕前なんて凄いッス。目にも止まらぬ早業ッス。おひいさんを守ってくれるって言ってるんスから、頷いて損はないッスよ」


「でも私、そんなことをしてもらえるような立場じゃ……」


 遠慮する私に、ギフトは背筋を伸ばしてずいっと近づいた。鳶色の目はこの暗がりだと色がよく判らない。でも真剣な色を湛えているのは見れば分かった。真っ直ぐに、射抜くように、縋るようにも見えるその目は冗談ではないことを示している。


「俺はあなたに恋慕しないしあなたに触れようとも思わない。ただ、あなたの死を求めるような者から守りたい。あなたに、忠誠を。どうか俺にあなたを守らせてほしい」


「ギフトはおひいさんの見た目が本当に好きなんスよ。求めてたんス。黒髪で、色の白い、綺麗なお姫様を」


 こそりとタビタが私に耳打ちした。確かに私は髪も黒いし薄暗い森の中で過ごしていたから日にも焼けてはいないだろう。でも、綺麗ではない。醜い傷跡を抱える魔女の一族の末裔だ。それでもギフトにはそんなことは関係がないのだろうか。


「おひいさん、あたし言ったッスよね。キスなんかなくたって、“好き”を伝える方法はいくらでもあるんス。ギフトのこれはその証明じゃないッスか」


 タビタが繰り返す。これはギフトの持つ“好き”なのだろうか。私がしてあげられることなんて何もない。そうしてもらう理由もない。ただ黒髪で、日に焼けていないというだけの理由でそうしてもらえるのだとしても。


「わ、私、あなたに何も返してあげられないわ」


「何も要らない。あなたが生きていてくれれば」


 ギフトはまだ真っ直ぐに私を見つめていた。そんな風に言ってもらえる人間ではないのに。そう思っても、死を願われ続けた私には恐ろしいほど抗えない魅力だ。


「俺があなたを守ることであなたが生きていてくれるなら、それ以上のことは何も」


「……」


 私が生きることを願って、そのために願われる死から守ってくれると言うこの人の申し出を退けるには、あまりにも甘美だった。


「チサ嬢」


 ギフトが胸に当てていた手を私に伸ばす。その手を取れということかもしれない。躊躇いながら私がその手を取ろうとした、その時。


「待て待て待てーい!」


 ばーん! と甲板に続く扉を開けてエンデが駆け込んできた。ち、とギフトが舌打ちをする音が私のところまで届いてくる。あ、伯爵、とタビタは驚いた声をあげた。


「人が動けない十五分を過ごしてる間に何をしてるんだ、ギフト! 全く、油断も隙もない!」


「求婚していた」


「きゅ……?」


 目を白黒させる私とギフトの間に割って入ってエンデは腰に両手を当てるとたちはだかった。丁度タビタがそうやって私とエンデとを遮ったように。


「そんなのは見れば分かる。だが聞こえてきたぞ、何だ『俺があなたを守ることであなたが生きていてくれるなら』って! そういうことはオレが先に言いたかった! 主人の先を越すな!」


 ギフトは呆れたような目をエンデに向けていたけれど、何も言わなかった。はぁ、と溜息を吐くと私に伸ばしていた手でひらひらとエンデをあしらう。先を譲ったようにも見えなくはないかもしれない。


「チサ!」


 エンデはギフトからくるりと振り向くと私を必死の形相で見た。弾みでふわふわとした羽毛が何枚か飛んだ。何処かで鳥と戯れてでもいたのだろうか。髪も心なしかボサボサだ。慌てて駆けつけたのが見ただけで分かった。


 星灯りに照らされるエンデの白い髪はそれでも輝いていた。私の夜のような髪とは違う、真昼の月と同じ色。僅かな星灯りでも眩しいくらいだ。あの森で会った時はニコニコと眩いばかりに笑っていたエンデは今は必死で私を見つめている。慌てて何かを言い募ろうと口を開いて、盛大に噛んだ。


「ぐぎっ」


 痛みに顔を顰めるエンデは頭を振ると気を取り直したように私の手を取る。両手を取られて真正面からエンデを見れば、エンデも私を真正面から見て、それから耳まで真っ赤になった。


「……どういう……何だそれ……隠されて逆にあらぬ想像が掻き立てられる……」


 パッと私の手を離して自分の顔を両手で覆ったエンデは何やらもごもごとそんなようなことを言っていたけれど、ずる、と両手を下げて目元を出すと再び私を見つめた。おほん、と咳払いをひとつしてエンデも胸に手を当てて私に微かに頭を下げた。それはドルン領とやらの国で使われる挨拶なのかもしれないと私は思った。母からはそういったことは習わなかったけれど。


「チサ、オレはキミを歓迎している。本当だ。先祖はキミの一族を追放した。それは当時の恐れや不安や憤り、そういったものをぶつける相手だと見做したからだろう。キミたち魔女の一族だって同じ犠牲者だったはずなのに。お詫びする。シュヴァーン家の過ちを赦してくれなくても良い。だが、こうして一緒に帰ることにしてくれたのは本当に感謝しているんだ。この旅の道中、キミが快適に過ごせるようにしたいしドルン領に帰ってからもキミが過ごしづらくないように心を砕きたい。キミのご両親にああいった形でしか挨拶できなかったことは心残りだが、チサ」


 エンデは顔を上げて姿勢を戻した。しゃんと立つエンデは背が高くて私は見上げなくてはならない。今は暗い夜の色を映す碧い視線は私を真っ直ぐに見ていた。それからふわり、と音がしそうなほど柔らかく、その目を細めてエンデは笑った。


「キミが生きていてくれて本当に良かった。あの島を出る時に石が当たった時もヒヤヒヤしたんだ。ご両親に顔向けできないと思った。傷もなく、元気そうで安心した。ギフトがキミを忠誠を尽くす相手として定めたなら安心だ。本当に彼の腕は良い。タビタもこれまでとは違う価値観を持つ女性だ。きっとキミの助けになってくれる」


 ギフトもタビタも何も言わないけれど息を零して笑ったのが空気の動きで分かった。この二人もエンデを信用しているのだと分かるやり取りだった。


「オレがキミを妻にしたいと思っていることとか、キミにキスをして死にたいと思っていることとか、それは本気だけれど今は置いておこう。それはオレの望みであってキミの願いではないからな。キミはまず今までの生活と違うことに慣れる必要がある。足りないものは何でも言ってくれ。そしてどうか」


 エンデは一旦其処で言葉を切り、息を吸った。言おうとして言い淀み、もう一度息を吸う。そうしてまた言い淀むことを三回繰り返して、思い切ったように勢い良く息を吸った。


「オレと、ほんの少しで良い、オレと、過ごす時間を作ってくれないか」


「……」


 目を丸くする私に、おー、とタビタが両手をぱちぱちと叩いた。言えたッスね〜伯爵〜! と喜んでいる様子だ。ギフトは今日だけで何度見たか判らない、やれやれといった様子で頭を振ってそれでも口元は綻んでいる。何、何で、と私は混乱しきりだけれどエンデの真剣な様子にただ頷いた。私と過ごしても何があるのかと思うけれど、エンデがそうしたいと言うものを拒むものでもなかった。


「……よしっ」


 エンデは頷いた私を見ると拳を握って喜んだ。そんなに言いづらいことだったのかと思うけれど、言えた今は安堵しているようだった。魔女の一族の末裔と何を話すのかと考えて、呪いのことだろうな、と私は見当をつける。呪いを解く方法は私も知らない。言葉の力持つ一族としての能力は私にはない。呪いをなかったことにはできない。そう伝えはしたけれど、もう一度説明が必要かもしれない。


 けれど。


 私は何故か喜ぶエンデとそのエンデと一緒になって喜ぶタビタ、その二人を遠巻きに眺めているギフトを順に見て胸に広がる温かさを自覚した。気づいている。知らない振りなんてできなかった。久々に灯ったこの温かさは。


 私が生きていても邪険にはしない人であることを、私が信じたから生じたのだろう。


 あの村人たちのように私が生きているだけで怯えず、危害を加えず、それどころか気遣ってくれて、守りたいと言ってくれて、生きていて良かったと、言ってくれて。


 両親以外には知らないその温かさは、もう二度と手に入らないと思っていた。永遠に喪ってしまったと思っていた。泣いて、泣いて、涙が涸れるほど泣いて。涙に溶かして手放し、そうして冷え切った体を引き摺って生きてきた私に再び与えられたもの。


 何も返せるものなんてないのに。そう思う心苦しさと、熱に触れて思い出した温かさとの間で私は波間に揺蕩う船のように、揺れた。


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