第3話 夕食の席


 食事は湯気を立て、どれも温かそうだ。両親がいた頃はこっそりと火を使って温かい食事を摂ったこともあった。ひとりになってからは水洗いした野菜を齧り、キノコを齧り、木の実を齧った。今目の前に広げられている食事はどれも見たことがなくて、私は途方に暮れる。


「どうした、チサ。食欲がないか? せめてスープはどうだ。船の上で水は貴重だがこれはミルクをふんだんに使っているものだし、先の上陸で船員が水を汲んでいて、しばらくは困らない。上陸はオレたちだけでするという話だったんだがな。綺麗な水は抗い難かったみたいだ。船旅の生命線だからな」


 エンデと同じような豪奢な服は着慣れないし、少し動くだけで色々と引っかけそうだ。加えて並べられた物に馴染みもなくて何が何だか分からない。パクパクとエンデが食べる時に使う道具は見たこともない。箸の類もないし、食べるにしたって口元を隠したままではいられないだろう。


 私はタビタに渡されたハンカチを口元に当てたまま頭を横に振った。


「伯爵ぅ……おひいさんは見たところ細いし、ろくすっぽ食べてなかったんじゃないッスか? それでいきなりこんなに食べろって言われても無理ッスよ……。あたしも覚えあるッスから」


 タビタが私の後ろでそう声をあげる。手を引いて食事が並べられた部屋まで連れて私を椅子に座らせた後、自分はずっと椅子の後ろで立ったままだ。む、とエンデはそうなのかと驚いた様子で目を丸くし、それからあぁいや、そうだな、と片手で目元を隠すように覆って頷いた。耳が赤いように見えたけれど揺れる頭上の灯りのせいかもしれない。


「悪い。チサに喜んでほしくて作りすぎた。でも考えてみればそうだよな、あの場所で満腹になるまで食べられる機会なんてそうないだろう。それに見ない植物が多かった。並んでるこれもチサには見慣れないかもしれない」


 エンデは食事の手を止め、椅子を引いて立ち上がると私のところまで歩いてくる。耐えず揺れる船の上で私はよろよろと歩いてこの部屋まできたのに、エンデは慣れているのか真っ直ぐでフラつくこともない。ハンカチで口元を押さえたままの私の顔を覗き込むようにしてエンデは顔を寄せた。


「こういった料理、見るのは初めてか?」


 優しく問われて私は頷いた。


「途中で降りた国で調達した食材もある。珍しい香辛料も買った。オレも初めて見るものばかりだ。こんなに東方まで足を伸ばしたのは初めてだからな。船ってのは結構体力がものを言うんだ。自然と精がつくようなものを出してやらないといけないから無意識にそういうのを作ってた。けど、チサはそうだな、あの森で肉を食べたか?」


 私は否定の意味でかぶりを振る。そうか、とエンデは優しい声で返した。


「最初はそうだな、果物が良いかな。毒も入っていないし、水分も摂った方が良い。湯に入って汗もかいただろう。食べられるものが増えたらスープ、次にパンだな。船旅で柔らかいパンは出してやれないから、スープに浸して柔らかくしてから食べた方が良い。カトラリーの使い方はおいおい教えるから。あぁ、それから言葉も……」


「言葉はその、分かります。母から聞いていたから」


 面がないから口元をハンカチで覆ったまま、目を伏せて私はエンデに返す。エンデは碧い目をぱちくりと瞬いたけれど、そうッスね、とタビタが私の言葉を肯定した。


「おひいさんとあたし、会話できてたッスから。伯爵が何で違う国の言葉話してるのかなって思ってたッスけど、おひいさんのためだったッスか」


 ははぁ、とタビタは腑に落ちたとばかりの声で言って、エンデはキラキラとした目で私を見つめた。何故早く言わないのかと詰られるかとばかり思っていた私は驚いて思わずエンデの目を見てしまった。キラキラとして、ひどく眩しい。


「そうか、キミは才媛か! 言葉が分からないと心細いだろうと思っていたが、そうでないようで安心した。タビタともどうか仲良くしてやってくれ。船に女性を乗せる例がほとんどなくてな。不便も多い。なるべく快適な旅になるよう心を尽くそうと思っているから、何でも言ってほしい」


 私は目を白黒させてエンデが此処まで良くしてくれる理由を考えた。ない。何も。


「先ほどはその、失礼した。乙女の裸体を拝むなど、あまりの美しさに天から鉄槌が下ったかと思ったほどだ。心配要らない。オレがしっかりキミを妻に貰い受ける」


「え」


 誰にでもそういうことを言っているはずでは、と思って私はギフトを探した。私の後ろにタビタが立っていたように、エンデが座っていた椅子の近くでギフトが立っている。けれどその目は私を凝視していた。あまりの迫真さに穴が開くのではないかと思うほどだ。


「あぁ、ギフトのことは気にしなくて良い。キミの美しさにどうして良いんだか判らないだけだ。東方の国にこんな美しい人を追いやっていたなんて先祖はなんて見る目がないんだろう! 黒猫が人の姿を得たかのようだ。チサ、キミの琥珀の目、もっとよく見せてほしい。キミが美しい人だと知ってはいたけど、まさかこんな、予想以上だ。仮面のおかげで日焼けはしていないし、肌も綺麗だ。唇は赤いのか? さながらスネーヴィットヒェン! あぁ、キミはまさにギフトの好みだろうね」


 だけどダメだよギフト、とエンデは佇むギフトへ視線を向けた。ギフトはハッとした様子で顔を背ける。


「キミに彼女を守る名誉はあげられるけど、其処までだ。彼女にキスをして死にたい気持ちは痛いほど解るけどね!」


 エンデは私がハンカチを持っていない方の手を取った。急に触れられて私は驚きからエンデを真っ直ぐに見ていた。エンデは嬉しそうに目を細め、熱に浮かされたように私を見つめている。


「死ぬ時はチサ、キミのような美しい人にキスをして死にたいものだ」


「あー、ハイハイ、ハイ、伯爵、其処まで、其処までッス。おひいさんが意味分からないって顔してるッス」


 タビタが物理的に私とエンデの間に入って手刀を繰り出した。私の手を取っていたエンデの手は離れ、やぁ悪い悪い、とエンデはにこやかに笑った。離れた手にはまだ熱が残っている。


「おひいさんは国を傾けるくらいの綺麗な顔してるッスから。顔を隠したい気持ち、何だか解った気がするッスよ……何か作れないか考えとくッス」


 タビタは私を振り向いて苦笑した。私は目を伏せる。タビタやエンデは美しいと言うけれど、とてもそんな風には思えなかった。醜い醜い、私の顔。今も傷跡がきりりと痛む。話す度に引き攣れるようだった。


 沈黙を守らない私への戒め。警告。今にきっとまた、この口は災いを呼ぶ。出てはいけないと言われたあの森を私は再び自分の意志で出たのだから。


「伯爵たちにそんな風に見られてたらおひいさんも食べたくっても食べられないッスよ。この果物はもらってくッス。あたしが食べる分もちゃんと残しといてくださいッスよ!」


「解ったよ、タビタ。チサをよろしく頼む」


 エンデは言い訳も引き止めもせず、タビタの言うことを呑んだ。私は再びタビタに手を引かれ、船内を歩いた。何処をどう歩いたか全く分からない。此処ッス、と案内された部屋の扉をタビタが開く。見慣れない船室はそれでも綺麗で、ふかふかと柔らかい。


「おひいさん、こっちに座るッス。果物なら食べられるッスかね。その間にあたしはおひいさんのその顔を隠すヴェールをちゃちゃっと縫うッス」


 ちょっとだけ失礼するッスよ〜、と言ってタビタは部屋を出て行った。私は果物が入った籠と部屋に取り残され、座らされた椅子の上から籠に手を伸ばす。喉は乾いていた。お腹も正直に言って空いている。良い匂いが充満していたあの部屋はつらかった。でも食べ方も判らないし、この果物なら森の中でも見て食べていたから馴染みもある。


 赤くて、艶々の林檎を手に取って私は口に運んだ。瑞々しくて爽やかな香りが鼻腔をくすぐる。ハンカチを少しだけ離して、しゃり、と齧る。口の中に広がる味と水分が美味しかった。


「戻ったッス〜」


 コンコン、と扉を叩いてタビタが戻ってくる。私は慌てて口元をハンカチで隠した。私が林檎を齧っているのを見てタビタは安心したように微笑む。


「食べ終わったらそのハンカチで手を拭いて良いッスからね。それまでにこのタビタがおひいさんに合うようなフェイスヴェール、縫っちゃうッス〜。おひいさんはこれとこれの生地、どっちが好きッスか? 顔に触れるなら柔らかい素材が良いッスけど、軽すぎてもおひいさんの顔が隠れないッスからね〜。これなんてどうッスか? かつて砂の道を行き来した交易の目玉、絹織物ッスよ〜」


 タビタは私の顔に持った布を交互に当て、んー、こっちッスかね、と真剣な眼差しで選別し椅子を引いて座ると針と糸を取り出した。ちくちく、と手元に集中して縫い始めるタビタは私のことなど見もしない。タビタが私を気にする素振りを見せないことを確かめてから、手に持ったままだった林檎の続きを齧った。


「うひゃー、おひいさん、綺麗に食べるッスね〜! 食べられないところだけちゃんと残して、他は綺麗にぺろり! 少しはお腹膨れたッスか? 林檎一個でも結構な量ッスからね。明日は他の果物行ってみるッス。この桃とかいうの、珍しい果物なんスよ。伯爵は出し惜しみしないッスからあたしも食べさせてもらったッスけど、これも瑞々しくて水分だらけで水の心配が付き纏う船旅にはもってこいッス! 難点は足が速いことッスけどね! すぐ食べないと腐るッス!」


 私が林檎を食べ終わった頃、タビタも完成したのか顔を上げ、私が残した芯を見て其処まで一気に喋った。あ、でもこれは皮ごといけないッスからあたしが剥くッスよ、とタビタは笑う。明るくて真っ直ぐな笑顔を向けられるとどうして良いか判らなくて私は何も答えられない。でもタビタが気にした様子はなかった。


「おひいさんのフェイスヴェール、できたッスよ。ちょっと失礼するッス」


 タビタは立ち上がると私の背後に回った。鼻から下を覆うように肌触りの良い布が垂れ、通した紐を頭の後ろで結ぶ。きゅ、と結んだタビタが私を正面から見るために移動して、うん、と満足そうに頷いた。


「良いッスね。おひいさん顔が小さいからちょっと耳元まで行ってるッスけど、変な感触とかするッスか? あ、鏡見るッスか?」


 テキパキと動いてタビタは部屋の隅の置物から何かを持って戻ってくる。鏡だとタビタが言うそれは向こうに人間がいて驚いたけれど、小川の水に映った私がよりはっきり見えていて思わず凝視してしまった。おぉ、自分の顔に見惚れることなんてあるッスか、とタビタは驚いた声を出したけれど、どうッスかね、と私を窺う。


「あの不気味な仮面みたいにはちょっとできないッスけど、おひいさんが隠したがってた場所は隠せてると思うッス。絹織物だから透けるようなこともないッス。息はしづらいかもしれないッスけど、あの仮面の方が苦しかったと思うッスから少しは良くなってるはずッス。東方の不思議な雰囲気が際立っておひいさんの美貌を隠してるどころか印象を強めてるようにも見えるッスけど……でもまぁ、 気に入ってもらえたみたいッスね」


 私が隠したかったのは口元だ。それが手を使わなくても隠れていて私はホッと胸を撫で下ろした。タビタは私が言わなくても私の様子から何処を隠したかったのか察していたらしい。醜い傷跡が隠せて本当に良かった。


「あの、ありがとう」


 そう言えばタビタは嬉しそうに笑った。お役に立てたなら何よりッス、と顔一杯で笑って答えるタビタに私も安堵の息を吐いた。


「伯爵のことッスけど……さっきのあれは伯爵の悲願ッスから、赦してあげて欲しいッス。ちょっと、いやかなり大分、気持ち悪かったッスけど……」


 タビタが目を泳がせながらもじもじと指先を弄って口にする。私は手を取られた時のことを思い出した。掌に触れた手袋越しのエンデの熱もまだ思い出せた。彼の悲願とは、一体何なのだろう。


「おひいさんはその、魔女の一族、なんスよね……?」


 訊きづらそうにするタビタに私の方が緊張した。あぁあの、とタビタは言い訳するように言葉を重ねる。


「あたしは別に、魔女の呪いとかは関係ないって言うか、むしろ魔女に会うことで良い方向に進んだって言うか……恨んでるとか呪いがとかはないッス。でも伯爵もギフトも、後は他の呪いが色濃く出てる人たちとかはその、困ってるッスから」


 エンデも、ギフトも。呪いを解いてほしいと言ったのは彼ら自身も魔女の呪いにかかっているからなのだと知らされて私は息を呑んだ。そしてその呪いに今も苦しみ、困っている。そういえば、と私は気づいた。魔女の呪いがどんなものか、私は知らない。母からも昔々に悪い悪い魔女が呪いをかけて回ったとだけ聞いた。そのせいで魔女の一族が追われたことも。


 でもその呪いの中身は、知らない。


「呪い、って……?」


 尋ねた私にタビタは視線を私に戻した。面はないけれど隠したい箇所を隠した私が避ける理由はなくて、怯みながらも私はタビタの視線を受け止める。タビタの方が先に視線を逸らす。


「色々あるッスけど、ドルン領の住人が等しく抱える呪いは──キスをすると死に至る呪いッス」


 そして、とタビタは再び私に視線を戻した。


「伯爵は妻になる女性にキスをして死にたいと、子どもの頃から願って……その願いを叶えるために生きていると、聞いてるッス」


 ──彼女にキスをして死にたい気持ちは痛いほど解るけどね!


 ──死ぬ時はチサ、キミのような美しい人にキスをして死にたいものだ。


 耳の奥でエンデが口にした言葉が蘇る。どういうことか判らず、私は何も返せなかった。


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