第2話 出航
「荷物はそれだけか? チサ、キミは欲がないな」
すぐにでも行ける、と言ったのは荷物が少ないからだ。それを欲がないと表現されるとは思わず、私は思わず苦笑していた。
森の中では家らしい家は持たず、雨風を凌げるような場所を探して身を隠した。木のうろに拾った枝を立てかけ、森の端で拾った飛ばされてきたのだろう人の衣服を繋いで寒さを凌いだ。父が生きていた頃はもっと家らしい家に家族三人住んでいたけれど、私に家を建てる技術はなかったし、家らしい家が残ることで人が住んでいると知らせるのも嫌だった。
森に魔女の一族が住んでいること、言葉の力持つ一族が住んでいることを、近隣の人たちは知っている。でも交流がなく普通の人間であれば死に絶えていると思うほどの年月が経っていることも事実だった。だからこの森は幽霊が出ると噂されている。まさか生きていて子どもがいたとは、と彼らが知ったのはもう十年以上前だ。今更まだその時の子どもが生きているとは思っていないだろう。
痕跡を残したくないから火を使うこともしなかった。ボロボロの着物で、継ぎ接ぎだらけでも誰に見られるわけでもないから構わなかった。病気にならない程度の汚れなら無視したし、不気味な容貌は幽霊話に拍車をかけるかもしれないと思って放置した。およそ人と関わらないようにと思って生きてきた私の荷物など高が知れている。
母が大切にしていた首飾りと父が大切にしていた小さな笛。それだけを二人から譲り受けて私は生きてきた。だからそれだけを持ってこの地を後にする。後は思い出と、愛情の気持ちだけ。
収穫したばかりの野菜は森に置いていった。鳥や獣たちが食べるか、また森に還るだろう。私が此処にいた痕跡は今度こそ消える。
森を抜ける頃には夕刻が迫っていた。明るさが残る内に森の外へ出るのは緊張した。けれど彼らが訪れて誰も何も言わないなら来た時よりも人数が増えていたとして誰か問題にするだろうか。判らない。誰を連れ出そうと、この森にいるのは魔女の幽霊だ。連れて行ってくれるなら清々するかもしれない。
「待て」
でも、そうではなかったらしい。薄暗い道を行く私たちの前に農具で武装した村人たちが立ちはだかった。やぁやぁこれは、とエンデはキラキラの笑顔のまま応えたけれど従者のギフトがサッと視線を周囲に走らせ人数を把握するのが見える。緊張が走り、空気がぴりりと張り詰めた。
「魔女だろう。森から連れ出して何処へ行くつもりだ」
屈強な体の男性が農具を握り締めて尋ねた。恐怖に顔が引き攣っている。怖いのに問うのは自分たちに危害が及ぶかもしれないと思うからだ。魔女の力を恐れ、言葉の力を恐れ、先に塞いでしまおうとするような。
どくん、と心臓が大きく跳ねた。忘れていた恐怖が私の中にもある。いや、忘れてなどいない。ずっと、ずっとある。
「彼女はオレの領民だ。連れて帰る。こんな場所に追いやっていて良い
エンデは穏やかな様子は崩さないまま答えた。異国の人でも彼らに伝わる言葉を話せるなら耳を貸してくれるだろうか。私の言葉には耳も貸さなかった彼らも。
「連れて帰る? この島からその魔女を出すことは禁じられている。その口が動く限り、俺たちの村に厄災が降りかかる!」
怯えた声は空気を震わせた。薄暮の夕闇迫る道で、背後の森から何かが這い出てくる想像でもしているのか彼らが喉をごくりと鳴らすのが見えた。そうか、と私は納得する。この森は、巨大な牢獄だったのだ。彼らは此処にふたつの血筋を閉じ込め、出てこないように見張っていた。あの日、私が迷い出てなどしまったばかりに彼らは牙を剥いたのだろう。
知らなかった私が、悪いのか。
かちゃ、と農具を握ることで金属が擦れる音がした。ギフトからもしたような気がしたのは空耳かもしれない。エンデは相変わらずキラキラと微笑み、怯える彼らに両腕を広げた。両掌を見せ、何も武器など持っていないと、こちらは丸腰だと見せるように。
「そうか──知るかよ」
「は」
ぱし、と腕を掴まれて引っ張られた。強い力に私は絡まりそうな足を慌てて出す。呆ける彼らの隙間を縫うようにエンデが駆け抜けた。あっという間に村人たちの包囲網を抜けて、私はエンデに引っ張られながら真っ直ぐに続く道を走る。
「ギフト、頼むぞ!」
「え」
エンデが置き去りにしたギフトに向け、大声をあげる。その声音が楽しそうで私は混乱した。後ろを振り返る余裕はない。けれどパンパン、と続けて二度、聞き慣れない音が響いて村人の悲鳴が聞こえた。数名の足音が追ってくる。狭い視界で、薄暗い道を行くのは地の利がないと不利ではないかと思ったけれど、エンデはそんなこと気にせず駆けていく。
「走れるか、チサ! 足は痛くないか!」
「い、痛い、けど、それどころじゃ……っ」
剥いだ木の皮を足に巻きつけ丈夫な麻を
「ご、ごめんなさい、私のせいで……っ」
「なに、謝るのはオレの方さ! 痛がる女性を無理に走らせてる!」
「そんなこと……っ!」
謝るようなことじゃない。そう言いたくて口を開いたら目の前に開けた光景に言葉を失った。キラキラと、光る水面は橙に染まっている。大きな、大きな建物が水の中に浮いている。森を流れる小川に葉の小舟を作った父が、これは舟という乗り物だ、と教えてくれたことがあった。外にはもっと人が乗るような船があって、小川のように渡るのは難しい水が一面に広がっているのだと。
私はそれが見たくて、あの日あの森を抜け出した。
「船……?」
目を一杯に見開いても狭い視界の広さが変わるわけではない。それでもこの目に飛び込んできた光景は、知らない景色で。そうだ、とエンデが通る声で肯定した。
「あの船でオレたち、来たんだ! チサ、キミがこれから乗る船だ!」
エンデは楽しそうに朗らかに笑う。あれに、と私は驚いた。足は変わらず駆けながら、向かっている先があの船だと思うと心臓が弾け飛びそうだった。覚えた恐怖は何処かへ行ってしまい、今は驚きと湧き上がるわくわくに満たされている。
「あれに、乗れるの?」
そうさ、とエンデは再び肯定する。私を振り向いた顔は相変わらずキラキラと眩しくて、今は夕陽を浴びて更に眩しさを増していた。
「私、船に乗ってみたか──」
「エンデ!」
ギフトの鋭い声がして、私とエンデは思わず背後を振り返った。まだ遠いその道で、道端から拾った石をこちらに投げる村人がいる。拳ほどの大きさがあるその石は真っ直ぐに私を狙って飛んで。
「!」
「チサ!」
額に当たり、その衝撃で私は眩暈を覚えた。後ろにひっくり返る自分の体を止められない。石を投げた人は後ろからギフトに羽交い締めにされて、私はぐるぐると回る視界と足元に意識を失った。
* * *
ちゃぷ、と揺蕩う感覚に意識が浮上する。温かい。こんなに温かいのは両親と三人、寄り添いながら眠った時以来だろうか。私が真ん中で、両側から両親が包んでくれて。あぁでもこんなのは、ずっとずっと、幼い時の……。
「あ、起きたッスか」
「!」
見知らぬ声がして私は驚きからすぐに目を開けた。頭上で灯りが揺れている。そのゆらゆら揺れる灯りに陰影を変えながらも私を見ているのは同じ歳頃か、少し下の少女だ。灰色の目をした、異国の少女だ。
「驚いたッス。垢を落としたら綺麗なお姫様が出てきたッスから。髪はまだベトベトしてるッスけど、ちゃんとサラサラになるッスからね」
「ひ……っ」
見知らぬ少女に腕を取られ、擦られている。私は一糸纏わぬ姿で湯が張られた浴槽に浸かっているらしい。空いている片手で思わず顔に触れて更に驚いた。視界が広いと思ったら、ない。
「面……!」
顔を覆っていた木の面がない。これでは私の顔を隠せない。この僅かな灯りでもこの少女の前には晒されている。私の醜い顔が。
「面? あー、何かあの、割れちゃってた不気味な仮面のことッスか? あんなのない方がおひいさんは綺麗……」
「いや……いやー!」
「わー! 何スか! 急にデカい声出すなッスー!」
耐えられなくて悲鳴をあげれば少女は驚いて私の腕から手を離した。肩を跳ねさせて耳を塞ぐように濡れた両手を上げる。ドタバタと駆ける音がして扉が開く音がした。右手側から涼しい風が吹いて、湯気が晴れていく。姿を現したのはエンデで、焦ったような表情を浮かべていた。
「どうした、タビタ! チサに何かあったか……」
エンデの視線が少女と、それから私に向いた。湯気は急速に薄れていく。私は慌てて両手で口元を覆った。エンデは目を丸くすると、わ、いや、その、としどろもどろに何かを口にし、慌ててくるりと振り返る。彼も口元を覆い、うわ、と焦った声をあげる。手が真っ赤に濡れているのが見えた。
「エンデ、見慣れてるだろう。此処にいろ」
「あぁ、悪い、ギフト。お前も見るなよ! タビタに任せろ!」
エンデはギフトを引っ張って行ってしまった。何だったんだと思うけど、少女が慌てて開き放しの扉を閉めた。
「入浴中のおひいさんを見るとか何考えてんだ伯爵! えっち! すけべ!」
閉める直前に怒鳴り声をあげ、ごめんって、と謝罪の声が途中にも関わらず、少女はバタンと音をさせて扉を閉めた。両手をパンパンと払いながら、全く、と眉根を寄せる。私は怯えたまま少女を浴槽から見上げた。
「おひいさんも急にデカい声出して何なんスか! 口とか隠して、他に隠すとこあるでしょうが! まだ途中なんスから、洗うッスよ!」
少女は元いた場所に戻るとまた私の手を有無を言わさずに引っ掴み、ゴシゴシと擦り出す。何が何だか分からなくて私は片手で口を抑えたまま、誰、と尋ねた。震えた声だった。
「あー、自己紹介まだだったッスね。あたしはタビタ。おひいさんのお世話係として伯爵たちに着いてきたッス。男所帯にお嫁さん候補を乗せての長旅なんて絶対ダメって伯爵が言うもんッスから。あたしも同意見ッス。船旅なら多少慣れてるッスから、どんと頼ってくださいッス」
おひいさんの名前は、と彼女は真っ直ぐに私を見る。その目に不快感は見られない。けれど私は面もなしに相手の顔を見るなんてできなくて、目を伏せた。
「わ、私は、チサ……」
「チサ様! 変わった名前ッスねー。東方の国ともなると名前もちょっと違うッスか」
ゴシゴシ、と洗い続けながらタビタは色々な話をした。私の返答がなくても話し続けるようで、それはそれで気が楽だったけれど。
「あ、あの、何か顔を隠すもの、ないかしら」
「せっかくの綺麗な顔を隠すッスか⁉︎」
ざぶざぶゴシゴシと洗われて最後に泡を流されたからもう終わりだと思って尋ねれば、タビタは驚いた声をあげた。綺麗なはずがない。私は醜いのだから。隠さないととてもじゃないけれど平静ではいられない。
「せめてその、口元だけでも……」
体の水滴を拭かれ慣れない服に袖を通しながら頼めば、うーん、とタビタは悩んだ様子で薄い布を畳んだものを私にくれた。
「ハンカチッス。これで口元を隠すか、扇が良ければそれは伯爵に強請ってくださいッス。おひいさんが運ばれた時の面はその、……これッスから」
タビタは浴槽の近くの籠に入れられた面を手に取った。額のところからパックリと割れている。それで私は自分がこの浴槽で目を覚ます前に船を目指して走っていたこと、石を投げられ額に当たったことを思い出した。額を撫でてみるけれど痛みはない。この面が防いでくれたらしい。
「おひいさん、そんなに綺麗な顔なのに自信ないッスか? それとも綺麗すぎて隠してるッスか?」
タビタは疑問だとばかりに首を傾げたけれど、私は目を伏せた。綺麗なわけがない。醜い傷跡を誰にも見せたくなかった。
「何はともあれ、お腹空いてないッスか。沢山走ってきたッスからね。もうあの島からは出航して誰も追ってこないッスよ。安全な海の上で、伯爵とディナーといくッス。お腹一杯になったらそんな不安そうな顔しなくても良くなるッスよ」
タビタにテキパキと見慣れない服を着せられ、沢山の布を使った豪奢な服装に一歩も動けない私はただ立ち尽くした。そんな私の手を取り先導してくれるタビタの手は、小さくて柔らかかった。
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