第21話

 この戦いにおける最大の功労者は誰か。

 決まっている。まさにこのガスマスクだ。これがなければ、煙幕で相手を翻弄して人質を奪還する、という作戦は早々に瓦解していただろう。

 そのガスマスクを始め、いろんな武器や機材を運んできてくれたのは寛だ。今度ラーメンでも奢ってやるか。


 かくいう俺たちは、煙の立っているところを見計らって、積極的に突っ込んだ。視覚と聴覚を奪ってやったのだ。突き飛ばされれば、大の大人でも重心がふらつく。

 ガスマスクを装備していない警官隊、機動隊員たちには気の毒だが、あんまり俺たちの邪魔をしない方がいい。


「虎穴に入らずんば虎子を得ず、ってな」


 相手を定め、そのまま腕を振り回して吹っ飛ばす。それを繰り返しながら、俺はこの煙幕の中で何をすべきか考えた。そして至った結論は、ずばり待機だ。


 俺はやや薄くなってきた煙幕の間を駆け抜け、数名の大人を叩き倒した。硬度の高い盾を有する機動隊員に突っ込む形にならずに済んだのは、これこそまさに僥倖というべきか。

 あんな硬い武器に、隊員たち自身によって磨かれてきた格闘術を合わせて喰らったら。

 ……うむ、間違いなく気を失うな。


 俺は細いアスファルトを横切り、寛から見える位置に姿を現した。

 寛と視線が合ったのを確認し、大きく腕を振る。寛もそれに応じる。

 これは前もって決めておいたサインなのだ。ありったけの催涙弾を投げつけろ、と。


 だが、その命令が実行されることはなかった。まさかの、新たな敵の奇襲によって。

 俺たちが立っている地面を揺るがしながら、重量級の高級車が突っ込んでくる。


「避けろ、柊翔!」

「お、おう!?」


 奇声を上げながら、俺はバックステップしつつ、その高級車を睨みつけた。

 すると意外なことに、その高級車は俺たちの間にするり、と滑り込んできて停車した。


「何のつもりだ……?」


 俺が思ったのは、敵愾心というよりもっと単純な感情。警戒心だ。

 俺が対処法を編み出さんと頭を抱えていると、高級車の向こう側の扉が開いた。降りてきたのは、やはり黒服。警官隊とはまったく異質な、きな臭い雰囲気を漂わせている。

 彼がこちら側に回り込み、左側前方のドアを開ける。特殊加工で耐爆仕様のなされた窓の陰から、スタッ、と革靴が降り立つ。男性のようだ。


 こちらも、いや、こちらこそ只者でないことを、俺は徐々に理解させられていく。

短いポニーテール、暗くてもあたりを見回せるようなサングラス、品よく整えられた口髭。

 その目は青色で、それだけでも異国の人間だという実感を与えてくる。


 唐突に、高級車の屋根に備え付けられたスピーカーが音を跳ね上げた。


《総員に次ぐ! 直ちに攻撃をやめろ! 繰り返す、攻撃をやめろ!》


 武器を捨て、後頭部で腕を組め。そういった指示が続く。それをもう一セット繰り返してから、ボイスチェンジャー越しに黒服は次の指示に移る。

 ちょうど喉が温まってきたのか、黒服はこんなことを言い出した。


「風見柊翔、ルリア・フォスター、夜桜希美。この現場にいるな?」

「あっ、あんたは? 何をやれって言うんだ? 大体あんた、何者なんだよ?」


 我ながらよくあの場所、あの空気の中で、これだけのことが言えたものだ。

 だが、それもこの男の正体が明かされるまでのことだった。


「柊翔くん、待ちたまえ。いくら変声機を使っているからといって、勝手に私を赤の他人だと決めつけるのは早計だぞ」


 さっと両腕の拳を握り、軽く肘を折って、俺はすぐさま戦闘体勢に入る。


「ほう、確か君が得意だったのはボクシング、だな? では私もそのルールに則るとしよう」

「ふん、何が『ルールに則る』だよ。お前らこそ、摩耶と美耶を誘拐したんだろ? こっちは全部分かってるんだ!」

「然り。だが、我々が月野姉妹を誘拐した目的まではご存じか?」

「も、目的?」

「左様。そこまで答えてもらわなければな……。互いの信用も信頼も、全てがチャラになる」


 信用? 信頼? 何を言っていやがるんだ、このひょろいジジイは。

 ああもう、どうとでもなれ。


「んなもん最初から、い・ら・ね・え・よ!」


 一語一語を区切りながら、俺は思いっきり膝の伸縮力を駆使して相手に殴りかかった。対する弦さんは仁王立ちの姿勢。しかも、俺の拳から逃れられる距離ではない。

 このジジイ、避けないのか? 今更減速なんてできないぞ?


「ふっ!」


 俺は思いっきり、右腕のブローで相手の左脇腹を穿った。内臓がよじれる不快な感覚が腕の先から伝わって……こない。

 相手に回避の余地がないというのは、俺の判断ミスに過ぎなかった。事実、俺が狙った腕の射程内から、相手は脱している。


 何なんだ、この動きは?

 焦りが脳内に充満したところで、今度は相手の右腕が迫ってきた。


「ッ!」


 咄嗟に左腕を上げ、頭部側面への直撃を防ぐ。しかし、それでもなお相手の拳は効いた。

 直撃した箇所だけでなく、骨や筋肉を通って全身が痺れるような痛みが走る。


 俺は咄嗟にバックステップ。相手の攻撃の癖を見抜かなければ。

 相手の方が俺よりも、一枚も二枚も上手なのだ。だが、隙のない人間はいない。

 どこだ? 俺の腕の射程で直撃をかますことのできる、相手の部位は?


 それが敗因だった。考え込んでしまったのだ。

 もう一丁とばかりに、相手が左腕のストレートを放つ。俺はさっと身を引いたが、打ち込まれる瞬間に目を閉じてしまった。恐怖が勝ったのだ。


「甘い!」


 すると、相手はその場でぎゅるり、と一回転。回し蹴りを繰り出した。

 馬鹿な。ボクシングのルールに回し蹴りなんて入ってないぞ。

 それでも俺は、両腕で頭側面を守りながらしゃがみ込んでしまった。これでは、相手の有効範囲内に自分の首を持って入ったようなものじゃないか。


 再びの激痛が、俺の全身を貫く――かと思いきや。


「おおっと、失敬。いろんな敵を相手にしていると、時折戦い方が混ざってしまうようでね。誠に申し訳ない」


 相手の言葉を聞いて、たっぷり十秒は経っただろうか。俺はゆっくりと目を開け、すっと後退した相手を見上げた。太陽の逆光になって、真っ黒な影としか認識できない。


「では、これではどうですかな」


 がらっと雰囲気を変えて、相手は温和な雰囲気を纏い始めた。今の声、まさか……!


「何やってんだよ、弦さん!」


 相手のさらに背中側、田んぼの方から寛の声がする。その声に、俺は自分の耳が正常に機能していることを確認した。

 って、いやいや。それはいいとしても、たった今聞き捨てならない言葉を聞いてしまったような気がする。


「弦……さん……? あんた、弦さんなのか?」

「これはこれは、随分と怖がらせてしまいましたな。ご無礼」


 サングラスとカラーコンタクトを外し、深々とこうべを垂れる。その姿は、小さい頃から慣れ親しんできた上村弦次郎のお辞儀そのものだった。


 すっと顔を上げた弦さんは、真っ直ぐに俺を見つめて軽い深呼吸を一つ。


「まずは坊ちゃま――風見柊翔様、あなた様をこんな危険な場にお連れすることになり、また、殺傷が目的でないとはいえ暴力行為に走らざるを得なくなった旨、衷心よりお詫び申し上げます。また、河東寛様、ルリア・フォスター様、夜桜希美様に対しましても、危険が及んでしまいましたこと、謝罪いたします」


 それを聞いている間に、俺の口内でギリッ、という音がした。奥歯を強く噛み締めすぎたらしい。


「弦さん、何がお詫びですか? 何が謝罪ですか? 子供を焚きつけて大人と戦わせただけでしょう? 俺たちに何をさせたいんですか?」


 弦さんは、僅かにのけ反った。これほど早く言い返されると思ってはいなかったのだろうか。


「わたくしは今、暴力行為・危険行為に関して、学生の皆様を巻き込んでしまったことを反省しております。ただそれだけです。わたくしが、あるいは皆様方が何をなさるかどうかは、お互いに歩み寄るしかありません」


 なっ、何だ? 弦さんは何を言っているんだ?

 俺の顔に疑問が浮かんだのだろう。幼子を見るような、慈愛の心すら感じられるような視線を寄越す弦さん。

 俺はもう、完全に戦意を喪失していた。あんなに俺を助けてくれた人間が、今更裏切りを謀るなんて。それも、掌を返すように軽々と。


「我々は月野美耶の身を確保しております」

「なっ!」


 息が詰まって、胸がばくばくと嫌な脈を打つ。唇が震え、手足は中途半端な姿勢のまま。


「……だ」

「はッ、今何と?」

「お前らは悪人だッ!!」


 俺は手足を振り回し、目頭に熱いものを感じながら、弦さんに歩み寄った。


「俺は今までずっと、あんたに育ててもらってきた。文句を言える筋合いじゃねえ。だけどな、弦さん。あいつらは、摩耶も美耶も、俺にとっては大切な存在なんだ。それを軽んじているとしたら、あんたは俺の親代わり失格だ! オーナーとして、今すぐ執事としてのお前を解雇してやる!!」

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