第19話
俺は『自分が希美を引っ叩いた』という現実を捉えきれず、ぽっかりと顎が外れた状態で立ち尽くしていた。希美も希美で、張られた左頬にさっと手を翳したものの、それは反射的な動作に過ぎなかった。するり、と頬から腕が落ちて、だらん、と床に垂れ下がる。
そのまま、俺たちは言葉を交わすこともできずに、意識と無意識の境目を漂った。この数秒間の自分たちの言動について、実感が湧かなかったのだ。
その沈黙を破ったのは、希美の方だった。さっと両手を床につく。その微かな揺れのためか、形のいい頬を涙の粒が滑り落ちていく。これはマズい。俺は慌てて腕を引っ込めた。
「あっ、ごめん希美! あの、俺は……」
「くっ……うぅ……」
だが、希美は両手で顔を覆い、泣き止もうとしない。その泣き声に、俺の反省は吹っ飛んだ。熱い感情がますます高まっていく。
なんとか自制しつつ、俺は希美に声をかけた。
「おい希美、覚えておいてくれ。世の中の人間には誰しも、知られたくない、思い出したくない過去ってのがあるんだ。それを思い出して泣くだとか、他人を困らせるとか、そういった理由を翳す連中もいるが、俺はそれが適切だとは思えない」
とは言いつつも、俺はどうだっただろうか? 他人様に言えたことか?
ああ、早速失格だ。遺体安置所で、春香の遺体と顔を合わせた時。俺は腰を抜かした。
理由は定かではない。だが、脳で思考することを完全に放棄してしまったのは事実だ。
わけの分からない文言を発しつつ、安置所の設備を壊そうとした。そうでもなければ、自分の暴力衝動を抑えきれない。自傷行為、いや、自死行為にまで及んでしまいそうだった。
結局は、遺体の確認に同行していた親父の手刀が俺のうなじを直撃し、強制的に意識を刈り取られたのだが。
それはさておき。
今は希美の心理状態に配慮して言葉を選ばなければ。泣かせてしまった原因、俺だし。そもそも通常の人間からすれば、学業と芸能活動を両立させるのは不可能に思えてしまう。
それを何とか為し遂げ、母親に自分の姿をアピールしたい。成長した姿を見てもらいたい。
これは、意外と率直で分かりやすい問題なのかもな。
「なあ希美、さっきは俺が悪かったよ。女子に暴力なんて、最低だからな。すまな――」
と言いかけるや否や、俺の頬に柔らかな温もりが当たった。
自分が希美の方へ振り向く途中だったので、自分が何をさせられたのかは分かる。
だがそれは、恋愛感情から生まれたものではあるまい。喩えるのが難しいが、きっと信頼とか、仲間意識といったものから生じたのだと思う。
希美の身体をそっと押しやりながら、俺はまた立ち上がった。
「そろそろ交代だ。少し何か食おう」
希美は一言も発することなく、しかし確かな笑みを浮かべて、俺の手を取りながら腰を上げた。
※
俺たちは会議室を出て、衛生的なカーペットの敷かれたリビングに戻って来た。
「むにゃむにゃ……」
「おい寛、お前のターンだ。情報収集に当たってくれ」
寝ぼけたままごろごろしている寛に、俺は軽く蹴りを入れた。
「ぐはっ!」
「大袈裟なリアクションはいらん」
「ブ、ブルータス、貴様もか!」
「はいはい、昔の名言乙々。八時間は画面とにらめっこしていたからな、俺も希美も疲れてるんだ。お前も少しは働け」
げしげしと、攻撃とはとても見えない態度で寛を蹴りつける。俺が本気を出す前に起床してもらいたいものだが。今の精神の不安定さから考えるに、俺はそういう暴走の危険性がないとは言い切れなかった。
マジでさっさと起きてくれよ、寛……。
と思った矢先、この状況を打開する女神が現れた。
「寛さん! ついに最終局面でーすよ!」
「んあ……?」
突然ルリアの声が響き、皆がそちらを向いた。
しかし寛は違う。彼の瞳を見る見るうちに開かれて、精確にルリアを真正面に捉えた。
「うおおおお! ルリアちゃん! 久しぶり!」
「おおっ、河東寛さんじゃあないでーすか! どうしてここに?」
「どうしてって……。俺っちは皆を助けるためについてきたんだ!」
するとルリアは身体の向きを変えた。そのままぱたぱたとこちらに駆けてくる。
「どうしたんだ、ルリア?」
「あの人、名前は覚えてまーす。でも、どこのどなたでしたっけ?」
「お、おい! そりゃあないよ、ルリアちゃん!」
喚く寛に、俺は殺気を込めて一瞥した。すごすごと引っ込む寛。ざまあねえな。
「そんなことより、どうしたんだ? 最終局面って、何の話だ?」
「やっぱりこのセーフハウス、弦さんが用意してくれただけあって、かなり通信機材が優秀でーす! これで、犯人たちの居所が分かりまーす!」
「それ、すげえじゃんか!」
俺は驚きと歓喜の声を上げた。
しかし、だ。
「どうやったんだ? 街中の通信妨害装置はぶっ壊しちまったのに」
「寛さんに託したUSBメモリ……。あれはただの敵の工作機械を破壊するためだけの道具ではありませーん」
「ど、どゆこと?」
寛、黙って聞いてろよ。俺は軽く彼の上腕部に肘鉄を打った。
「USBメモリは、最初に起動した時――街中に置かれていたね――、その瞬間からフェーズ二に移行、通信妨害装置の修繕作業にかかるんでーす」
「修繕って……。その妨害装置、そんなことしたら、電波妨害が再開されちまうじゃねえか!」
「そう。それが今後の問題点。でも、今の時点でおおよその相手の位置が分かる。誰がブラックボックスを壊そうとしたんか、その解析に時間を使ってしまいましたが、後はここにいる皆で決めるしかない模様でーすね」
そんな無責任な。
という言葉が俺の喉から出かかった。だが、今のルリアの情報がなければ、再び街は電力を失ってしまうところだった。ルリアの情報こそが、俺たちの戦いを皮一枚のところで繋ぎ留めたのだ。
「いやあ、ビビったぜ……。ありがとうな、ルリア」
するとルリアはびくっ! と肩を震わせ、何の予備動作もなく跳び上がった。
「ど、どした?」
「なっ、ななな何でもないでーす! もう一つ説明したいことが……」
ケホケホと空咳を繰り返しながら、ルリアは言葉を繋ぐ。
「この通信妨害電波の発生源は、合計五ヶ所ありまーした。それは、ブラックボックスのロケーションと一致しまーす。つまり、ただ通信妨害装置を設置するだけでなく、敵はこの五ヶ所のどこかにいるということが言えまーす。厳密にはあと四ヶ所でーすね」
「四ヶ所?」
俺が首を捻ると、ルリアは、今日俺と寛が発見したブラックボックスのことを告げた。
「一つは潰しましたから、あと四つでーす」
「ああ、そうか。サンキュな、ルリア」
「いえいえ~」
しかしこの期に及ぶまで、俺は決定的なことを忘れていた。四ヶ所のうちのどこかに敵の拠点があるとすれば、そこで摩耶と美耶は人質になっているのではあるまいか。
「こんな時、弦さんがいてくれたらな……」
重要ポジションの欠員を嘆いても仕方がない。この場はなんとか俺たち四人でどうにかせねばなるまい。
俺が項垂れながら思索を巡らせていると、唐突に耳をつんざくような悲鳴がセーフハウスを震わせた。
「うわっ! ……会議室? ルリア、希美、ついて来てくれ! 寛は待機して、玄関に異変があったらすぐに知らせろ! 皆、いいな!」
「いやちょっと待てよ、柊翔!」
「何だよ寛!」
「どうして俺っちだけ一人きりなんだ!?」
俺はずいっと腕を伸ばし、寛の肩に載せた。
「頼れるからだ」
「……はぁ」
すぐに振り返って、会議室へと向かう。途中で、頼られたくなんてないぜ! という悲鳴が聞こえたような、聞こえなかったような……。無視するか、うん。
「おい、何があった!?」
「柊翔くん! ああ、驚いた……」
床にぺたりと座り込んでいるのはルリアだ。その目はテレビに釘付け。
俺たちも、ルリアの横から覗き込む格好で画面に見入る。
《……繰り返します。本日未明、午前四時三十七分頃、えー、誘拐、誘拐事件が発生しました。現在県警と、警視庁特殊捜査班SITが、犯人の邸宅を包囲して、犯人との接触を試みています! 現在、人質は少なくとも三名。市内在住の月野摩耶さん、妹の美耶さん、それと……え? これは保護者? あっ、失礼致しました、未成年二人の保護者とみられる男性、上村弦次郎さん、計三名です!》
これには、全員が我を忘れて驚愕した。目玉を真ん丸にして、そのまま全身ごと画面に引きずり込まれていきそうだ。
最初に正気に戻ったのは、どうやら俺だったらしい。
「ルリア、この建物の場所は分かるか? 住宅街の、えっと……」
「ここでーすね!」
ルリアがパッド状の端末をこちらに押しつける。確かに、ニュース番組のヘリからの映像とほぼ一致している。
そこまで認識した俺は、大股で扉に向かい、勢いよく引き開けた。
――戦闘準備だな。
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