第9話
※
まさかその晩も、眠れぬ夜になるとは思わなかった。
浴場を後にして、俺は宛がわれた自室へ入る。少し涼んでからベッドに横たわった、まさにその直後のこと。
どっしゃあああああああああん!!
と、凄まじい金属音? 衝突音? が響き渡って、俺は頭からベッドに倒れ込んだ。
「いってぇ! な、ななな何事だ!?」
額を角に打たなかったのは幸運だ。――と、気づいたのは後のことで、その時の俺は半ばパニック状態だった。わたわたするだけで精一杯である。
昨日、今日と、本当に物騒なことが多すぎる。
俺がドアノブに触れようとした時、今度は勝手にドアが向こう側に引き開けられた。
「うおっ!?」
「大丈夫ですか、坊ちゃま!」
「げ、弦さん! 何があったんですか?」
「伏せて!」
これまで聞いたことのない、弦さんの怒声。それだけで、俺はすっかり竦み上がってしまった。
「ドアを閉めます。わたくしの指示があるまで出てはいけません。音も立てないように!」
「あ、あの!」
「伏せなさい!!」
弦さんの大きな手が、俺を頭頂部から真下に押しつけた。尋ねることすらままならない。いわゆる『知る権利』というものを訴えようとしたけれど、突然のことでまともに喋ることができない。
弦さんはさっと視線を逸らし、ばたん、と勢いよくドアを閉めた。
「ちょ、待って……」
俺はさっとドアノブを握ったが、無意味だった。まさか外側から施錠されるとは。
それでも、隣室(確かルリアの部屋だ)のドアが閉じられる音は聞こえてきた。察するに、そちらも施錠されてしまったらしい。
一抹の悲しさ、悔しさはあった。が、弦さんの怒声が思い返され、俺の意志はすぐさま木端微塵にされた。
弦さんだけに任せずに、何が起きているのかを把握していたい。
ぎゅっと拳を握り締める。
しかし、それは『弦さんの言葉』という正義の前には、あまりに無力だった。
「くそっ! 何が起こっていやがる……!」
俺は立ち上がり、額を揉んだり、壁を軽く殴ったり、枕を蹴っ飛ばしたりしてみたが、何も起こりはしない。俺のいかに脆弱なことか。
「どうにかならねえのか……」
あたかも、動物園の檻の中の熊のように、俺は肩をいからせて行ったり来たりした。
こうなったら。
「どうにでもなりやがれ、畜生!」
俺が取った行動はただ一つ。ドアノブガチャガチャである。
これで開錠できるとは思わないが、やってみなければ分からん。
「開け、この野郎! 開けってんだよ!」
頭のどこかでは分かっている。こんなことをしても、何の意味もない。
しかし、俺の手は止まらない。掌にドアノブの硬質さがめり込んでくるが、気にしない。気にしている余裕がない。
「昔の人が言ってんだよ、開けゴマ、ってなあ……!」
そのままガチャガチャすること、恐らく二十秒後。
がちゃん、と鋭利な音が室内に響いた。
「開いたのか?」
今度は慎重にドアノブを握り、空いた片手でドアの中央に触れてみた。
人差し指で、ちょん、と突いてみる。
はっと息をのんだ。確かに開いている。
「や、やった……」
と呟いたのも束の間。もし弦さんが戻ってきたら、きっとすぐ施錠されてしまう。そうしたらもう諦めざるを得まい。
だが、そんなことをグダグダ考えている場合でないことは、エントランスの方を覗いただけで分かってしまった。
エントランスには、あまりにも凄惨な光景が広がっていた。
真っ先に目に入ったのは、大型乗用車だ。ボンネットがぐしゃぐしゃに押し潰され、エンジンの部品が剥き出しになっている。人間の内臓を連想し、俺は吐きそうになった。
目を逸らし、ゆっくりと顔と視線を上げていく。
パンクして車体から外れたタイヤが横たわっている。大小様々な金属部品と、見慣れた色の破片が散在している。カーペットは無惨に引き裂かれ、その下の高級材質の床面を抉っている。
ようやく俺は理解した。この大型乗用車が、邸宅のエントランスに突っ込んできたのだと。
車内には誰もいない。窓には無数のひびが入っているから、完全に見通せたわけではないが。
僅かに点々と滴っているのは、人間の血、だろうか。慌てて目を逸らす。また吐き気を催すようなものを……。
だが、と俺は考える。
せっかく意地になって現場に馳せ参じたというのに、何もできずに、いや、何かをする勇気も持てずに、弦さんの言いつけに従っていろというのか?
「冗談じゃねえぞ……!」
俺はぐっと顎を噛み締め、顔を逸らした。自分の心臓の鼓動を感じながら、ゆっくり瞼を上げる。後は、目線を水平にするだけだ。それで大まかな状況は把握できる。
俺は一気に顔を上げようとして、しかし途中で止めてしまった。
「きゃあああああああっ!」
「んあ!?」
思いっきり腹部を押され、後頭部を床に打ちつけた。最近、俺の頭は不遇な目に遭っているな。それはともかく状況的に、俺は何者かに跳びかかられ、押し倒されたようだ。
そしてその『何者か』は、依然俺の胃袋あたりに載っかっている。悲鳴を聞いた限りでは、『何者か』は人間であるらしい。
俺が状況を把握するまでの僅かな間を置いて、再び『何者か』は叫び声を上げ、手足をぶんぶん振り回した。
「うわっ! ちょ、俺を殴るな!」
「やめて! お金ならパパがいくらでも払うから! 条例違反の件なら揉み消してあげるから! だから叩いたり蹴ったりせんで! 殺さんといてな!」
おいおい、随分とシビアな状況だな。
「だから待てって! 俺はあんたを傷つけるつもりはない! あんたが乗ってた車が事故ったんだ! 大人しくして……あいてっ!」
その人物がかの有名な夜桜希美であると気づくのに、しばしの時間を要した。つまりそれだけ俺は殴られまくったということだ。
「こらあ、いい加減落ち着け! 落ち着けって言ってんだろうが!」
俺は思いっきり頭部を押し上げ、上方へヘッドバットを繰り出した。うむ。反動で痛い。
だが、それ以外に対抗策を思いつくことができなかったのだ。人間の身体において、一番固いのは頭蓋骨。そう言われてるんだから、使わない手はない。
思わぬ反撃に、相手も驚いたらしい。
「あ、あれ? あたしどうして? 無事なのかな……? って違う! 違う違う違う!」
ぶんぶんかぶりを振る希美。
「だから違うって! あたしは……じゃない! ウチは関西人って設定やんけ! ちゃうちゃう、東京生まれちゃうがな!」
「……」
彼女の姿は、テレビでよく見ている。だが、特別な関心があったわけではない。こういうのはむしろ、寛の領分だろう。今の俺の状況を羨ましがったりするかもな。まあどっちみち、俺の置かれた状況はとても褒められたものだとは言えまい。
念のために身を屈めながら、俺は希美の下に駆け寄った。彼女の正面で止まり、片膝をつく。
「あんた、夜桜希美さん、だよな? おい、頭を低くしろ!」
「ひっ! こっち来んといて! 怖いんや!」
なんだ、この無理やり感溢れる似非関西弁は。聞いてるこっちの頭が痛くなりそうだぞ。
「話は後だ、取り敢えずあんたも頭を下げろ!」
誠に不本意であるが、俺は希美に抱き着く要領で――いや、実際に抱き着いて押し倒した。
この状況下で、弦さんだったら間違いなくこうする。そんな気がしただけだ。下心があったわけじゃない。
幸運にも、ちょうどエントランス中央のソファの陰に入ることができた。ここからなら、一階で何が起きているのか掴めるかもしれない。
そう思った矢先、俺の鼓膜が鈍い打撃音を捉えた。
ドン、という音色。だが硬質な感じはしない。何と何がぶつかったんだ?
ゆっくりと頭を上げていくと、そこにあったのは二人の男性の姿。二人共、服の上からでも鍛えているのが分かる。
って、事故に遭いながら何をやってるんだ、この人らは? 死ぬ気なのか?
腕を振りかぶった格好の、左の男性。対する右の男性は、相手の腹部に潜り込んで腕をめり込ませている。
「って、え?」
間抜けな擦過音が俺の喉から飛び出した。右の人、弦さんじゃん。
もしかしてさっきの音は、弦さんの拳が相手の腹部にクリティカルヒットした音なのだろうか。
「弦さん!!」
俺の声は、広いエントランスに響き渡った。何のつもりで彼の名を叫んだのかは判然としない。
それでも事態は進行した。俺の声に押されるようにして、弦さんの相手がゆっくりと倒れ込んだのだ。……弦さん、こんなに強かったの? マジぱねえっす。
などと感覚麻痺状態で言葉をこねくり回す俺だった。それを正気に戻したのは、意外なことに希美だった。
「うち、大阪から出てきてまだ二、三日しか経っとらんねん! あんちゃん、この状態、どう説明してくれるんや?」
ぐわん、ぐわんと身体の軸が揺さぶられる。こんな状態で説明も何もあったもんじゃない。
「弦さんに訊いてくれ。俺はもう、何が何だか……」
それから、しばし俺の記憶は途絶えることになる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます