第二章「疑惑の関係」


 イアナが邸宅での生活を始めて一か月が経った。街でも有数の豪商であるスペンサー家の人間の結婚には相当な労力――金額の問題ではなく、そもそも親子揃ってそういった行事に裂く程の暇がない――が必要らしく、未だ結婚披露宴は行っていないが、少なくとも邸宅内での共通認識として、イアナは既にツヴァイの妻として受け入れられていた。

 肩書が使用人から妻に代わっても、イアナのやることはほとんど変わっていない。あまりにも表沙汰にできない“秘密”を抱えた生物達がうろついている邸宅のため、結局イアナ以降に新顔の使用人は迎え入れておらず、そもそも新たに採用せずともイアナが率先して炊事から掃除、洗濯に至るまで暇があれば手を出していたら人手不足は完全に解決していたのだった。

 この邸宅の使用人達は皆、元兵士の男達である。そのために効率的な家事の仕方も、そもそもの分担すらも知識不足だったことが否めない。これにはツヴァイも思い至っていたようだが、自分自身も元軍人という立場は変わらないために『そのうちに改善すれば……』と、長い目で見ようとしていたようだった。

 そこに家事全般はそれなりに自信のあるイアナが参上すれば、それはもう女神、天使、神様だと崇められるに決まっていて。やり方やコツ、注意する点を一度教えてしまえば、集中力も根気強さも凄まじい元兵士達は、みるみるうちに仕事の効率を上げていって、今ではイアナが手伝うことなんてほとんどないくらいになっている。それこそ、わざと『イアナにストレスが溜まらないようにやることを作ってくれている』ような状態だった。そしてその『わざと作られた仕事』を自然に行わせてくれるところは、イアナも見習いたい部分であった。

「イアナ様。食事の用意が出来ました。ツヴァイ様もお待ちです」

 数週間前まで訛り全開で親しみを込めて話してくれていた使用人の男――フィンレーが、穏やかな笑みを湛えてイアナにそう言った。

 イアナにとってこの邸宅で初めて話した相手であり、今ではちょっとした相談事などもできるくらいに信頼しているこの男は、イアナの肩書が使用人から妻へと変化するその一瞬前まで、“親しみを込めた”態度を貫いてくれた唯一の人間だった。彼以外の使用人達は、敬愛する邸宅の主の息子のおめでたい話を自分のことのように喜び、早々とその態度を“それ相応のもの”へと変化させていたのだ。

 おかげで邸宅内で気さくにイアナに離し掛けてくる者は限られてしまい、愛する夫以外で所謂『雑談』というものを気軽にできる相手はこのフィンレーしかいない状態だった。おそらく三十代であろう年上の男との会話など、最初は何を話せばいいものかとイアナの方が戸惑ったのだが、元より社交的で話上手なフィンレーは、その親しみやすい訛りも手伝い、常にイアナの良き相談相手でいてくれた。合成獣達とのふれあい方から邸宅内での生活の仕方など内部に関することはもちろんのこと、時折訪れる軍関係者や同業者達との接し方といった対外的な対応の仕方もイアナは彼から学んだのだった。

 身体が動かない主に代わってツヴァイが精力的に動いてはいるが、外から見れば彼は『豪商の息子』であり、その対応をイアナがそのまま真似をするわけにはいかない。また、反対に軍からすれば未だに『本部の軍人』という肩書を持った『同胞』である彼には、身分を伏せた軍からの監視が来客として通されることも多かったが、その対応も然りだった。

 今まで平凡な学生時代を送り、目上の人間との関わりなんて一切なかったイアナにとって、そういった席はまだ慣れないし失礼が無いように気を付けるだけで精一杯の現状だ。そんなイアナのことをサポートしてくれるのは、席についている時にはツヴァイが、そして“事前勉強”はフィンレーが担当してくれた。

 それはまるで教師のようでもあったが、イアナにとって一番近いと思えたものは、意外にも『父親』であった。

 まだ知り合って一か月程度しか経っていないこの年上の男を、素直にそう思えたことには理由がある。

 イアナには父親がいない。幼い頃に家を出たきりそのままだと母親からは聞いていて、イアナも敢えてその話題には触れないままに、結局嫁入りまでしてしまった。母親はまだまだ現役で、家を空けていることが多く、両家揃っての顔合わせもまだできていないのだが、イアナからすればそれは願ったり叶ったりで。

 ともかく、生まれて初めての年の離れた世話焼きな男性に父性を感じるのは、イアナにとってはなんら不思議なことではないのであった。

 そんな彼も今ではこのように、周りの目がある時はイアナのことを敬うように接してくれる。ちなみに今は、エントランスにて血で汚れた床を丁寧に磨いていたところだった。慌てて飛んできた使用人を制して熱中していたら、昼食の時間になっていたらしい。

「ええ。わかりました。これを片付けてから向かいます」

 にこりと笑って、手元の雑巾をひらひらとさせる。自分の仕事は最後までやり遂げたいので、雑巾の片付けまで譲ることはしない。そんなイアナのことをわかっているフィンレーは、穏やかに頷き「かしこまりました」と答えた。




 基本的にこの邸宅内のルールは、『自由』である。格式ばった決まりもなければ、他の邸宅にならありそうな面倒ごともほとんどない。その代わり、外には他言できない秘密を抱えているわけなのだが、それも慣れてしまえばむしろ過ごしやすいというもので。

 午前中に合成獣達の吐血による清掃を終えたイアナは、食後に行う彼等との遊びの時間をどうするか考えながら食事をしていた。

 その様子を面白そうに対面の席から眺めていたツヴァイは、その口元は緩んだままに、しかしその目だけは時折見せる鋭い視線で廊下へ繋がる扉の方を向いた。

「どうした? 用事があるなら入れ。そう扉越しに魔力を放たれたら、妻との時間を楽しめないだろう」

「……っ」

 軍人というものは、本当に気配に敏感な生き物だ。まるでイアナ達一般人とは、種族としても違うのではないかというような感覚を、夫は時折見せるのだった。

 イアナには、扉の向こうにあるであろう気配なんてものは感じられない。そこにいる存在が、いかに魔力を放とうとも、きっとイアナ一人ではわからなかっただろう。

――魔力ということは敵、ってことよね? でも、まさか……こんなところで戦うなんて、ないわよね?

 イアナはツヴァイの戦う姿を見たことはない。だが、彼がどう死闘を演じたかは毎日見上げている。大広間に残された彼と主の抜け殻には、何物にも勝る戦いの気配が残されていた。その時、その場にいなかったイアナでさえも、そこで流された血の匂いまでをも嗅ぎ取れるかのようだった。

 コンコンコン……

 遠慮を感じさせない音を立てて、扉が外側からノックされた。それから数秒の沈黙の後、扉が外から押し開けられる。

 ノックと同じく遠慮もなにも感じない態度で姿を見せたのは、イアナともほとんど年齢の変わらないであろう若い男だった。

「失礼いたします。本部より参りました『ケント』と言います。地下の……アレ等に関する件で、魔術的なバックアップをするようにと仰せつかってます」

 南部特有のイントネーションが目立つ男――ケントは、しかしその見た目からは南部の血を感じさせなかった。

 ここ南部地方は砂漠地帯を中心とした特異な気候で、古くからここらに住む者の多くが、茶髪に褐色の肌を有していた。イアナの茶髪もこの血からくるもので、色白の肌を持っているのはおそらく父親からの遺伝だろう。

 閉じられた扉の前に立つケントの肌はイアナと同じく透き通るような白さを持ち、肩まであろうかという長髪は眩しいまでの金色をしていた。今はその髪を後ろで束ねていて、先程自らが口にしていた魔術というよりは、どことなく兵士の空気に近いものを持った男だった。

 ケントは名乗り終え、しかし一礼することすらしない。口元に笑みこそ浮かべているが、その獣を彷彿とさせる深い青の瞳のせいか、顔の造り自体が粗暴な印象を与える。見た目の特徴だけなら東部や中央部のような雰囲気だが、その身を包む魔術師団共通の制服であるローブからは彼の出身地は読み取れなかった。

「……本部からは何も聞いていないが?」

 席から立ち上がったツヴァイが、訝しげにそう問う。その反応は当たり前だった。

 ツヴァイはこの男を警戒している。

 これまで、何人か本部からの客を招いているが、その誰もがツヴァイのことを『豪商の息子』として表面上は扱っていた。対外的に不自然にならないように、邸宅を訪れる客に扮し軍事的なやり取りを行っていたのだ。もちろんそれには、礼節も含まれる。

 規律に厳しい本部の軍人が、あんないい加減な態度でこの場に立つことは有り得ない。ましてや彼はフルネームを名乗ってもいない。本部において本名を名乗らない部隊は、レイルが所属する特務部隊のみだ。どちらにしても、胡散臭いことに変わりはなかった。

「極秘の企みにございまして」

 獣のような笑みを浮かべて、ケントはにぃと口元を吊り上げた。途端に彼から発せられる威圧感が強くなり、それに応ずるようにツヴァイからの気配も強くなる。これはきっと、殺気というやつなのだろう。

「……俺は言葉遊びは好まない。用件だけを聞こう。この邸宅に『本部』が絡んでいることは重々承知の上だろうが、お前は……何が目的だ?」

「この部屋にはツヴァイ様と奥様のみ、で間違いないんでしょうか?」

 南部の訛りがここまで耳障りに感じたのは初めてだ。

「ああ。聞いてやる。話せ」

 纏う気配はそのままに、ツヴァイが先を促す。ケントと静かに睨み合う夫の横で、イアナは二人の威圧感に心臓が圧し潰されそうだった。現にイアナは、今も席から立ち上がることができていない。ツヴァイがイアナを守るように傍にきてくれていなければ、不安で震えていただろう。

「地下のアレ等……俺の魔術で“元の形で”生き返らせれるんです、って言うたらどうですか?」

「……地下の者達は皆、死んでなどいないが?」

「あー、すんません。俺の言葉が悪かったですわ。“貴方と同じ”、人間おるでしょ? 地下に。その“人”、動かしたろか思たんです。もちろん、“貴方”のことも元に戻せますけど? 俺なら」

「……そんな技術は聞いていないな……」

 ツヴァイの声に、緊張が混じった。

 地下に人がいるのは本当だ。ただし、それは死体である。

 魔力は野生モンスターよりも人間の方が強い傾向があり、合成獣の強化のために数人の人間が犠牲になったらしい。魔力を生み出す源である心臓を抜かれたその人間達は、機械に繋がれて生命活動こそ続けてはいるが、その状態は『生きている』とは到底言えるものではなかった。特務部隊との戦闘での損傷もあり、まともに残ってる部分の方が少ないからと、イアナは実際に目にすることも許されていない。

 この事実を知る者は、この邸宅内以外では本部のごく一部の人間だけのはず。それならば、やはりこの胡散臭い男も本部の関係者ということになるが……

「本部でも極秘の企みにございまして」

 先程も聞いたセリフをもう一度、更に胡散臭さに輪をかけてケントが繰り返す。それに対してツヴァイもまた――

「――そんな技術は聞いていないな」

 と繰り返し、それを確認するために、背後に突然気配を現したレイルに目をやった。

「私も知らねえな。特務部隊にも極秘ってのは、いったいどういう計画なんだろうな?」

 闇が突然沸き上がったかのような彼女の気配に、目の前のケントが一瞬怯んだように生唾を呑んだ。扉も窓も、どこにも開いた気配はなかった。本当に、突然現れたレイルに、イアナも面食らってしまった。

――いったいどこから入って来たの? それより、いったいいつからいたの?

 彼女は常に漆黒のダークスーツを身に纏い、狂気に満ちた気配を放っている。体格こそ小柄だが、美しい赤髪にその美貌も合わさり、その場を支配するかのような存在感を常に纏っていた。

 だが、彼女は軍の裏側を担当する特務部隊だった。闇に寄り添うように気配を消して、獲物の隙にかぶりつく。イアナに見せる普段の姿からは真逆である、ある意味彼女にとっての“普段”の顔を、たった今、初めて見せられた気分だった。

 ニヤニヤと悪い笑みを浮かべて挑発的な返答をするレイルに、ツヴァイがその隣に並ぶ。これによりイアナは二人の背に守られる形になったが、なんだか心がモヤモヤしてしまった。

――私はツヴァイにとって守られる存在だけど……レイルはきっと、頼りになる戦友、なのよね……

 こんな時に何を考えているんだと、思い至って自分を恥じる。

 この感情は嫉妬だと、イアナはレイルとのこれまでのやり取りの中で自覚していた。

 レイルはこの一か月で二度、ツヴァイの薬を届けに来てくれていた。滞在時間は半日程だが、その間ツヴァイはずっと彼女と二人で執務室にこもってしまう。本部との重要なパイプラインであるレイルと密に情報のやり取りを行っているのだろうとわかってはいるのだが、それでもイアナの心には仄暗い疑惑も浮かんでしまって。

 扉も窓も閉め切られたその密室で、男女二人でいったい何をしているのか……

 要人の暗殺などの任務を担当する特務部隊に所属するレイルは、その見た目も武器にできる美貌をもっている。街を歩けば男の視線を釘付けにできるであろう美女の隣に立つ夫は、妻のイアナから見ても『お似合い』という言葉が浮かんでしまって。

 そんな彼女は単純な戦闘能力だけならば、どうやら夫以上の強さだという。ここまでくるとどちらが『獣』で『バケモノ』なのか問い質したくなる程だ。

「これはこれは……特務部隊のケダモノさん。噂通りお美しい……思った通りや。まあ、それ以外にも『仕事』は任されてるんで、しばらくよろしゅうお願いします。もちろん、さっき言うたことはツヴァイ様や奥様から依頼されたらすぐにでも取り掛かれますんで、どうかお気軽にー」

「答えないつもりか……ならば俺達からの願いはひとつだ。さっさと本部からの仕事を終わらせて帰ってくれ」

 ふざけた態度を崩さないケントに対し、ツヴァイはそう言い捨てた。その隣でレイルも続ける。

「さすがに定期報告を邪魔するわけにはいかねえからな。特務部隊からもあんたの上には“報告”させてもらうぜ」

 二人の尋常ではない圧を軽く受け流すように笑って、ケントは「そりゃどうもー」と最後までふざけた態度を貫いた。





 結局あの後、あまりの出来事に味がわからなくなった昼食をなんとか食べ終え、イアナは一人、夫の執務室の掃除に取り掛かっていた。

 ツヴァイとレイルはイアナが食事を終えるのを見届けてからさっさと姿を消してしまい、ケントは本部からの仕事――数週間おきに訪れる他の本部の人間が行っている、この邸宅内の定期報告のための訪問だ――を行うためにうろついている。先程も廊下の隅の血痕に向かって座り込んでいた。

 こんな時頼りになるはずのフィンレーは、ちょうど午後から買い出しのために街に出てしまっていた。そのためイアナはこの不安な状況を一人で過ごすことを余儀なくされ、その気持ちを少しでも紛らわすために、『普段通り仕事を行う』ことを選択したのだ。

 使用人達を下がらせて、愛する夫の執務室の掃除を行うイアナは、だが、そもそも日頃ツヴァイ自身があまり汚すような仕事の仕方をしていないため、目立った汚れはこの日も見当たらなかった。真面目な夫の仕事ぶりには感服だが、今この時ばかりは少しだけ恨めしい気分にさせられる。

――廊下に出てあの人に鉢合わせするのも嫌だし、少しだけ休憩でもしようかしら。

 休憩という名の時間つぶしを考えついて、イアナは夫の愛用する椅子へと腰を下ろす。執務机の上には触れないようにして、背後の窓を振り向く形に椅子を動かした。窓の外では砂嵐越しに陽の光が頭上に輝いており、まだまだ昼の時間は長いことを伝えて来る。

 ケントと名乗る男は、おそらく本部の人間で間違いないだろうということだった。だが、その目的が全く読めない。死者を生き返らせるような研究は、どこの地方でも研究こそはされているが、未だに完成したという事実はないとレイルも言っていた。それはイアナも間違いないと思う。そんなふざけた研究が完成していたら、すぐさま戦争状態に突入しているだろうからだ。

 だが、全くのハッタリと決めつけるには、あの男の魔力は異常だった。イアナには感じ取ることはできなかったが、ツヴァイもレイルも、『死体の身体程度なら物理的な意味で動かせるかもしれない』と彼の魔力の質を読んでいた。

 物体を動かすタイプの魔法にもいろいろあるが、その物体をわざわざ死体と指定することにイアナは嫌悪感を隠せない。死者への冒涜も甚だしいし、そもそも亡くなった人間の身体を動かして何が出来るというのか。しかも、地下にいる人間は、死体ですらない一応は生きている状態なのだ。

――それよりも……ツヴァイのことも元に戻すって言ってたけど……もしかして、ガーゴイルの呪いをなんとかできるの?

「俺のこと、考えてくれてます?」

 突然、今正に考えていた男の声が響いて、イアナは慌てて椅子から立ち上がった。いつの間にか執務室の扉が開いていて、そこからケントが部屋に入ってきている。彼は足音もさせずにイアナの目の前まで歩み寄ると、ぐっと片腕を伸ばして部屋の窓を開け放つ。砂嵐対策のフィルターがあるので砂が室内に舞い込むことはなかったが、外の音が耳に届くようになる。

「……貴方が言った言葉を考えていただけです。夫を元に戻すって……」

「ああ。奥様はまだ、知らへんのですね? ツヴァイ様の頭に何が入ってるか」

 窓に伸ばしていた手が戻されて、今度はそれがイアナの頬に伸ばされる。すっと頬に触れる感触にぞくりとして、イアナは一歩後ずさる。今のは異性への触れ方ではなかった。まるで実験動物の感触を確かめるような手つきだった。

「……私は、夫の頭に何が入っているか知っています。だから……それを元に戻すということの意味が、わかりません。夫にとって、今の状態こそが真だと、私は夫自身から聞いていますから」

 こんな胡散臭い人間にガーゴイルの呪いがどうにかできるなんて考えられない。いや、もしどうにかできるとしても、きっとツヴァイだって、こんな人間に対処を頼むようなことはしないだろう。そうでなければ今この時、ツヴァイがレイルと共に一緒にいるはずがない。

――そうよ。そうじゃなかったら、二人で今頃……今、頃? え、何? この……話し声……?

「やっと気ぃついたんですね? 奥様を放って、ツヴァイ様も大胆やわ。隣の部屋に女連れ込んでるんやもん」

 イアナの耳に届いた音には、男女の微かな声も混じっていた。男の声は愛しい夫で間違いなく、女の声もおそらくレイルだ。隣の部屋も窓が開いているのだろう。昼食後に執務室を掃除するとツヴァイには伝えていなかったので、もしかしたら油断したのかもしれない。普段ならこんな状況、絶対になるはずなんてないのに。

 イアナは自身の耳に魔力を集中した。イアナの持つ魔力は微かなものだが、感覚器に魔力を集中することで感覚を鋭敏にするにはむしろ向いていた。魔力が高いと逆に神経を破壊してしまう行為なので、軍の中でも特務部隊など裏側の人間しか使用しない『裏技』だと教えてくれたレイルが言っていたか。

 そんな当事者の彼女から教えてもらった技術を密かに使い、イアナは隣の部屋に接する壁に耳を当てて意識を集中する。

『おいリーダー。まさかとは思うが地下のアレ、お前も動かせるわけじゃねえよな?』

『それこそまさかだ。合成獣に魔力の中枢となる心臓を抜かれた死体を、他者の魔力で生き返らせられるわけがないだろう。それと同じで、いくら獣の頭が入った俺だったとしても、俺の魔力と獣の魔力は別物だ。同じ水流の魔力だとしても、他者の魔力に違いはない。俺にもあの男にも、地下の身体を動かすことはできない』

『そうじゃないと困るぜ。あの野郎、魔力だけは高そうだからな。地下の獣共の主導権なんて握られちまったら笑えねえよ』

「……さすがにバレてんのかー」

 ほとんど壁に張り付くようにして聞き耳を立てていたイアナの背後から、ケントが覆いかぶさるようにして壁に耳を当てて小声で言った。急な接近に驚いてしまって身体が動かないイアナのことなんてそっちのけで、ケントは小さく溜め息をひとつ。

 なんだかその力ない行動が彼らしくなくて、警戒すべき相手だというのはわかっていても、イアナは彼をやんわりと押しのけることしかできなかった。

――なんだか、哀しそう?

 イアナが少し押しのけた程度では、ケントとの距離にほとんど変化はない。まるで、所謂壁ドンのような姿勢になっただけの現状に唐突に気付き、イアナは熱くなる顔を伏せて彼に掛ける言葉を探した。魔術師と名乗る割にはケントの身体つきは筋肉質で、強面の顔つきも近くで見たらそれなりに整っていて驚いてしまったのだ。

「……あの、もしかして他に……目的があるんですか?」

 イアナがそう問い掛けたその時、隣の部屋からガタリと――どこか不吉な物音がした。しばらくの沈黙。そして……

『あの男の目的はそのうち向こうから明かすだろう。それより……お前とこうするのも、久しぶりだ。他の男の匂いをプンプンさせて、お前は本当に躾のなっていないメス犬だな』

 どこか甘い空気を孕んだ夫の声が、これまでイアナが聞いたこともないいやらしい言葉を発している。それに応える女の声が、返答の前に甘い吐息を挟んだ。

『……お前、嫁さん放って私とばかりこんなことしてたら駄目だろうが。そりゃ、私らとの経験が忘れられねえってのも、気持ちはわかるがよ……披露宴、もうすぐなんだろ?』

 ごそりと、布が擦れる音が声に重なる。いつになく不安そうな夫の声が、それに続く。

『ああ。今は考えたくないな。お前が目の前にいるだけで、俺はただの男になってしまう。そんな自分のことを抑えられない。情けないよ、本当に』

『リーダー……』

『俺はもう、リーダーじゃないだろ……今は、昔の俺で呼んでくれないか?』

『サク……本名教えてくれよ?』

『ふふっ……お前こそ』

 布が擦れ、床が軋む。そんな不吉な音をバックに、『昔の関係』性を疑うやり取りが続く。

「あー、やっば。めっちゃエロー」

 その言葉にハッとして顔を上げると、欲望を隠そうともしないケントの顔が、イアナの鼻先数センチの距離に迫っていた。咄嗟に顔を背けると、彼はははっと小さく笑い、「俺がキスしたいんは奥さんちゃうからー」と前置きをしてから、先程のイアナの問いに答えをくれた。

「俺の狙いは特務部隊の方なー。ちなみに死体を動かせるんはほんまな。ちょっと盛って生き返らせれるって言ってもたけど、まあ『死体が動く』んは合ってるし、同じようなもんやろ? 死体から生前の魔力全部ぶっこ抜いて、俺の魔力の器にしてまうんやわ。そうしたらその死体はもう、俺の身体パート2な訳」

「……それだと、夫の獣の方の魔力を抜いたら、私の夫も貴方パート2になりませんか?」

「あんたの旦那さんは獣の魔力だけやのおて自身の魔力も持っとるから、獣の魔力だけ“親切心”でぶっこ抜いてあげよう思てん。そうしたら旦那さんも本部<浮気相手>に頼らんと嫁さんのことだけ見れるし、俺の恋敵も減るし一石二鳥ってなー」

「……」

 にっと笑ってこちらを見るケントの表情に嘘はないように感じた。なにより彼の提案は、今のイアナにとってなによりも魅力的に聞こえてしまう。

 壁越しの情事はまだ続いている。相変わらずミシミシと床が鳴り、二人の息が少しあがっているようにも思えた。こんな音、もう聞きたくない。

 魔力の集中をやめたイアナのことを、ケントはさもおかしそうに笑った。その声にはもう、イアナの心が視抜かれているようだった。

「魔力を抜くのは夫のガーゴイルの呪いだけ、では駄目なんですよね? 地下まで案内すれば、夫のことを……」

「もちろんですとも。地下の人間の魔力を抜かせてくれたら、ツヴァイ様の呪いもぶっこ抜いてあげますて。なんせ合成獣の被害者なんて、なかなかサンプルで手に入らんのでねー」

「……今すぐ地下に向かいましょう。今は使用人達も他の仕事をしています。夫も……本部も今は、私達に気がいかないでしょうし……」

 言っていて自分が一番悔しかった。それでも愛する夫のことを完全に突き放すことなど、イアナにはできないのだった。





 地下へは何事もなく辿り着いた。

 たくさんの水槽のような培養槽が並ぶこの空間が、今日はやけに薄気味悪く感じた。ツヴァイがよく利用しているベッドが視界に入り、イアナの心がざわつく。まるでこれから犯す罪を咎めるように、幾度も愛を交わしたその空間が、寒々しい空気をイアナに落とすのだった。

「へー。ここが奥さんの愛の巣なん? やらしー」

「……目的の培養槽はこの部屋の奥です。だけど、この扉の鍵が私には……」

 背後で響くいやらしい笑い声には気がつかないふりをして、イアナは夫に禁じられた部屋へ繋がる扉を指差す。この扉には幾重にも錠が掛けられており、その鍵を持っているのはこの邸宅ではツヴァイのみだ。以前はフリンが管理していたらしいが、今の彼では鍵を奪われた際に抵抗する術がないため、信頼する息子へと預けたのだった。

「見たところこの扉、対魔合金でもない普通の扉みたいやし、俺の魔力通せそうやから大丈夫ですよー。だからそんな顔せんといてえや。可愛いお顔が台無しやでー」

「……触れずに魔力を……っ! 待って! それって!!」

「昼間、あの空間でもツヴァイの頭をぶっこ抜けた訳だ。わざわざここまで案内させたのは、“私ら”をここにおびき寄せたかったんだろ?」

 昼食の席と同じく、突然背後からレイルの声が響いた。その声に振り返ると、ケントの更に後ろ、この空間への出入り口となる扉の前に、今は一番見たくなかった二人――レイルとツヴァイの姿があった。

「ツヴァイ……レイルも……」

「イアナ。お前を不安にさせてしまったことは謝る。だが、“ここ”に汚らわしい男を連れ込むのは感心しないな」

「っ!」

「イアナ。お前が連れ込んだこの男は、死体どころかそれを足掛かりにお前の旦那のことも操るつもりだぜ? いいのか? さっさとこっちに来い」

「ど、どういうこと?」

 思いがけないレイルの言葉に、イアナは思わずケントを見詰める。ケントはさも気にしていないという顔でこちらを見返してくるが、その瞳にはどこか逡巡の光があって。

「こいつが操るのは己の魔力が込められた身体だ。その扉の向こうの身体にこいつの魔力を入れちまえば、『元の魔力が獣と繋がっている』お前の旦那も同時に操られちまうんだよ」

「っ! そんな!?」

「ついでに私のことも操るつもりだろ? だからわざわざ『任務対象全員』をここまでおびき寄せたんだよな? 本部の改修によって魔力の通りがよくなったこの空間を、計画に最大限利用するために。本部から私の“片腕”持って来てんのはわかってんだよ」

 そう言った瞬間、レイルの身体がイアナとケントの間に割って入ってきた。赤髪の向こうで、強面ながらも整った顔立ちが狂気に歪む様を見せつけられる。その背後に立つ愛する夫の表情は――今のイアナには恐ろしくて見ることができなかった。

「特務部隊の獣が二匹は、さすがに俺には分が悪いわ。わかったわかった。今回はここでお暇するから、そんな怖い顔せんといてえや」

「……本部に報告あげたらどうなるか、わかってんだろうな?」

「へー、逃がしてはくれるんや? やっぱあれ? その奥さんへの罪悪感的な?」

「てめえが思ってるような関係じゃねえよ。私らはな。イアナの前でしっかり誓ってやる。お前が本部からの使者なのは事実で、今回の『調査』が個人的なものなのもわかってる。だったらお互い、『今回は何もなかった』で通すのが、賢い大人のやり方じゃねえのか? お前もちゃんと、『実験』出来たんだからよ」

「……あの空間で魔力発動して不発やったん、あんたわかってたんかよ……ますますエエ女やって興味湧いたわ。せやねん。やっぱりどんだけ魔力磨いても、俺の魔力は死体にしか効果がないみたいでな。嫁はんの前で愛する夫の切腹ショーなり無理心中なりさせてみたかったんやけど、『生きた獣』には全然あかんかってん」

 残念やわーと悪い笑みを浮かべるケントに、イアナは腰が抜けそうになる。その気配を察してレイルがすぐさま身体を支えてくれた。不思議なことに、今ではもう、彼女に対する負の感情は消えていて。

「さっさと失せろ。お前の悪巧みのせいで、私は危うく大切な友人を失うところだったんだぜ?」

「……え?」

「やっぱ気付いてねえのか。おい、お前の嫁だろ? ちゃんとお前の口から説明しろよ、ツヴァイ」

 きょとんとするイアナに微笑み、ツヴァイがこちらに歩み寄ってくる。その途中でケントの尻を蹴り上げ、その一撃に笑いながら彼はすっと道を開ける。

「イアナ。重ねて言うが、すまなかった。お前を不安に……させなければ、コイツが目的を吐かないと思ってな。おかげでコイツの口から狙いはレイルだと聞き出せた。やはり魔力による肉体の制御を狙っていたようだな」

 ぎゅっと強く抱き締められて、自分ばかりが熱くなっていたことを自覚し恥ずかしくなった。

「まさかここまでコイツのことを案内するとは思わなかったがな。ここは俺達の大切な寝室のひとつでもあるし、何より……」

――この二人の関係を疑うなんて、私……どうかしてた……

 こんなにも自分のことを愛してくれている夫のことを、どうして疑ったりしたのだろう。「ここから先は、この場では言えないな」と照れ隠しに咳払いなんてしている夫に抱き締められて、イアナは自然に流れた涙もそのままに、「ごめんなさい」と素直に謝罪を伝えた。

「お前は何も悪くねえよ。疑われるように仕組んだのは私だけど、本当に……疑われたままこれっきりにならなくて良かった。コイツは私が責任持って本部に連れ帰る。だからよ……続きは私らが出ていってから始めてくれ」

 最後には馬鹿笑いになっていたレイルの言葉に夫婦二人で赤面したのも、きっと彼女にとっては本部への良い土産話になるのだろう。そんなことを思いながらも、イアナの心は既に熱を帯び始めたツヴァイの指先に意識を絡め取られようとしているのだった。





 そんなこんな大小様々な事件を乗り越え、イアナは今、夫の執務室にて披露宴の招待状の製作に奮闘している。普段は荷物置き場と化している壁際に追いやっていたもうひとつの机に向かい、イアナも苦手な書きものに勤しむ。

 イアナの分の招待客なんてたかが知れている。今イアナが宛名を記入している分は、夫の招待客の名前だった。目の前の机に向かって同じ作業を行っているツヴァイが、ふとその手を止めてイアナに目を向ける。

「結局レイルの本名を聞きそびれた。こんな時くらいは軍を通さずにプライベートの客として呼びたかったのだが……」

 どうやら先日の彼女とのやり取りは、このためのものだったらしい。ちなみに意味深に聞こえてきた床の軋みは、舞踏会のための練習だったらしい。軍出身の自分のエスコートに自信がなかったツヴァイが、イアナに恥をかかせないために事前に練習を申し込んでいたというのが真相だ。

――それくらい、私と一緒に練習すればいいのに……

 そう考えてしまったイアナは、少しだけ夫に意地悪をしてやることにする。ほんの些細な、仕返しだ。

「レイルには私が招待状を、“個人的に”送っておきますね」

「……なに? まさか、俺を差し置いてアイツの連絡先を聞いてるのか?」

 その言葉とは裏腹に、ツヴァイの表情は嬉しそうで。

 穏やかに細められたその目に微笑み返し、イアナは初めてできた違う地方の『友人』宛てに、招待状を送るのだった。

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元軍人の獣な夫に一目惚れから溺愛される話 けい @kei-tunagari

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