元軍人の獣な夫に一目惚れから溺愛される話

けい

第一章「その出会いは運命か、それとも……」


 大陸南部にある中規模の街「デザキア」。魔力を遮断する砂嵐に護られたこの街は、大陸南部一帯の砂漠地帯を手中に収める砂漠の国の玄関口だ。

 南部一帯を吹き荒ぶ砂嵐のために、この地方での移動は陸路に限られる。魔力を動力源にした乗り物の類は、全て無意味な鉄の塊と化してしまうためだ。そのためこの街には、長い砂漠縦断に向けての準備のために、たくさんの商人や冒険者が立ち寄るのだった。

 砂漠の移動には危険が付きまとう。それは古からその地を闊歩する殺戮兵器然り、大型に進化した狂暴な野生モンスター然り。命を充分に脅かす存在が蠢く砂漠には、それこそ腕に覚えのある者達しか挑むことがなかった。物流が商人達頼みな砂漠の国にとって、そんな彼等はまさに英雄であり、生命線でもあるのだった。

 そんな商いの街に住む豪商宅にイアナは今、足を踏み入れようとしていた。デザキア生まれデザキア育ち。往来が危険な国の外になんて出たこともない。取柄と言えば家庭的な趣味が少しあるぐらいの、十八の誕生日を迎えたばかりのどこにでもいる少女だった。

 砂漠の国特有の柔らかな茶髪は、“仕事”の邪魔にならないように後ろに纏めて、反対にこの地方では珍しい白い肌は、吹き荒ぶ砂嵐の中で少し赤くなってしまっている。

 イアナの目の前には豪奢な門が立ちはだかっている。砂漠の国らしい白を基調とした厳めしい造りのその門は、見た限りまだ新しいように思える。砂嵐により見た目の劣化の凄まじい門をも新調するなんて、やはりこの邸宅の主『フリン・スペンサー』は相当なる豪商のようだ。

 門の横にある目立たない造りの扉が開き、使用人らしき男性が出てきた。どうやら使用人のための出入り口らしい。彼は明るい茶髪の体格の良い男性で、服装はやはり使用人のそれだ。しかしどうにも――佇まいが物々しい。

「……お名前は?」

 遠慮も配慮もない問い掛けに、どぎまぎしながらもイアナは答える。

「使用人のイアナ・コレスティです」

 イアナの返答に一瞬男は訝しげな視線をこちらに寄越す。まるで探るようなその視線に、イアナは居心地が悪くなる。

「……案内します」

 男は短くそう言うと、イアナを門の中へと招き入れ、そのまま邸宅へと向かって歩き始めた。

 こちらの返事等気にもせずに歩き始める男を追って、イアナも慌ててついていく。歩くペースが違い過ぎて早足になってしまう。

 美しく新調された門とは逆に、邸宅までの前庭は荒れ果てていた。草木は植えられてから永く手入れされていないのだろう、好き勝手に伸びきっており、雑草の目立つ地面には所々に穴まで開いている。高い塀に阻まれて外の人間にこの惨状が見えることはないが、それにしてもここまで放置しているというのは問題ではないのか。

――庭師の方はいらっしゃらないのかしら……?

 あまり失礼にならないように辺りを見渡しながら、イアナは心に不安が広がるのを感じていた。





 使用人の男に連れられてイアナが邸宅の扉を開けると、そこには外よりは幾分マシな光景が広がっていた。

 洗練された調度品が飾られたインテリアは、正しく豪邸に相応しい。しかし、いくら美しい家具が置かれていても、その空間は“外よりは幾分マシ”な空間というだけだった。

 煌びやかな調度品の裏――床や壁紙がいやに汚れているのだ。ある程度落そうと努力したような形跡があるが、この赤黒い汚れはもしかして……

――血……? な、訳ないわよね?

 豪商の華やかな生活に、そんな不穏な気配は想像するのも不釣り合いだ。きっと何か……何か理由があるに違いない。

――そうよ! 確かスペンサー家は動物好きだと噂があったわ。血……だったとしても人とは限らないし、それに……病気や突然のケガだったのかもしれないじゃない。

 無理矢理自分を納得させて、イアナはその汚れ達から目を逸らした。その時、前に立っていた男がこちらに視線を向け、小声で言った。

「旦那様であるフリン様とそのご子息であるツヴァイ様がこれからいらっしゃいます。どうか失礼のないように」

「はい」

 暫しの時間を空けて、イアナの目の前の大扉が音を立てて開いた。木製のその扉には、細部に至るまで美しい装飾が彫られている。

 扉が完全に開いて、三人の人間が出てきた。車椅子に座った壮年の男性がおそらくここの主であるフリンだろう。そしてその横に若い美しい赤髪の女性。そして――

――っ!

 イアナの目は最後の一人に釘付けになった。鋭さすら感じさせる短い銀髪に、精悍な顔立ちの若い男だ。二十歳くらいだろうか。平均的な身長だがその身体は鍛えられていることが服の上からでもわかる。

 砂漠の商人らしい白をベースにしたラフな格好をしているが、闇を宿したようなその深紅の瞳は、むしろ軍人に近い印象があった。この国には珍しい白い肌に、違和感を覚える。

「……その娘は?」

 男がこちらを見て言った。低い声にイアナは耳が、頭が埋め尽くされるようだった。まるで瞳が魘されるような熱を持ったかのように、熱く、強く彼を見詰める。

 こんな感情は初めてだった。強烈な一目惚れだ。心が、身体の細胞が、彼を初めて見た瞬間に、熱く脈動を始めた。生まれ変わるような強烈な衝撃。

「……」

 あまりの感情の強さに何も言えずにいるイアナの横で、使用人に慌てて紹介されているのが聞こえたが、その中身はほとんど頭に入ってこない。

 説明を受けている間もずっと、彼から目を離せなかったし、彼もまた、イアナから目を離すことをしなかった。

「イアナ……」

 どうやら名前を伝えられたらしい。彼の口から自分の名前が出るだけで、途端にスイッチが入ったように耳から周囲の音が聞こえてくるようになった。

――心臓の音、煩い……

「俺の名前はツヴァイ。お前のことが気に入った。お前にはこの邸宅の地下を担当してもらう」

 精悍な顔立ちに笑みが広がるのを見た途端、イアナの頭は沸騰するかと思う程熱を帯びた。全く心臓を抑えられないまま「は、はい」と頼りない返事をするイアナに、ツヴァイの笑みは――酷く野生的に見えた。

 その光景を見てフリンは特に反応を示すこともなく。だが、その隣に控えていた来客であろう女性が、呆れたようにツヴァイの手をするりと握った。

 そのまま彼に微笑むと、ツヴァイも笑みを浮かべたまま彼女に耳を貸す。彼の耳元で囁かれる言葉がイアナに聞こえることはなく、女性のエメラルドグリーンの瞳がイアナの心をやけにざわつかせた。

「イアナ」

 彼がまたイアナの名を呼んだ。彼はフリンの車椅子を押しながら、新しい使用人であるイアナに初めての指示を出す。

「こいつを……レイルを門まで送ってやってくれ。美しい女性は軍人上がりの使用人達には毒になるからな」

 くくっと喉の奥で笑いながらそう言われ、イアナは複雑な心境のまま、言われた通りに赤髪の女性――レイルに向かってぺこりと頭を下げた。






 門への道は石造りの補正された一本道だ。前庭の中で唯一補修されていると言って良い。メイド服を着ているイアナと違い、レイルはどうやら軍用の強化ブーツを履いているのか、足音に金属の響きが混ざる。

 流れるような赤髪は軽くウェーブがかったセミロング。透き通るような白い肌に、人形のようにフェミニンな顔立ち。おそらく年齢はイアナとそう変わらないだろう。

 イアナは最初、これだけ美しい女性なのだから、とレイルのことを貴族のお嬢様かと思っていた。しかし、どうやら違うらしい。彼女は漆黒のダークスーツに身を包んでいた。

 軍本部――各地方を取り纏める軍の本部という意味合いで、軍に属する人間はシンプルに『本部』と呼んでいるらしい――の特殊な部隊での制服だと、レイルは門への道すがら教えてくれた。ついでに自分はツヴァイと任務を共にしたことがある戦友で、恋敵じゃないという説明まで受けた。

「ツヴァイが女をこんなに気に入るなんて珍しいんだぜ? こりゃ相当本気だ。結婚までしちまうんじゃないか?」

 へらへらと笑う彼女はまるで男のようで。細身のスーツの下はきっと、相当鍛えられているに違いない。そこでイアナは納得した。ツヴァイも元軍人だから、あれだけ逞しい体格をしているのだ。

 彼のことを思い出し、そしてレイルの言葉も相まってまた顔に熱が燈る。そんなイアナにレイルはまた笑った。

「この邸宅の地下があいつの寝床だ。あいつのことをイアナさんも気に入ったんなら、どうか受け入れてやって欲しい。それがかつての戦友からのお願いだ」






 その夜、イアナは使用人の仕事を全てやり終え、ツヴァイの待つ地下へと階段を降りた。

 煌びやかだった地上階とは違い、邸宅の地下は独特の気配を感じさせていた。人を拒むようなその気配に、イアナは生唾を呑む。ひやりとした風が吹き、その中にどこか悲しげな声を聞いた気がした。

 階段を降りきり、廊下の両側を照らすための台座に灯りを“ともし”、それを頼りに指定された部屋を目指す。夕食の席――イアナにとっては初めての食事の用意だった――にてツヴァイに伝えられた扉が、目の前となった。

 薄暗い廊下の突き当り。その扉は酷く頑丈な造りだった。所々に傷が走り、例の赤黒い染みが飛び散っているのももう慣れた。結局動物好きという噂のフリンの口から、ペットの話題――それどころか彼はほとんど口を開かなかった――が出ることはなかった。

 両開きの扉に手を掛け、決意が恐怖に負けないうちに開け放った。

 扉の向こうは、たくさんの水槽のような装置が並ぶ無機質な空間だった。あまりの薄暗さから恐怖すら感じる。実験場、という言葉が自然と頭に浮かぶ。

「イアナ!」

 昼間は静かだった彼の声が、この時ばかりは大きく響いた。期待に胸を躍らせたようなその響きに、イアナは予想外のことに戸惑う。まるで好意という感情に直接殴られたような感覚だ。その衝撃に先程まで抱いていた恐怖等、木っ端微塵に吹き飛んだ。

 ツヴァイが空の水槽の奥から顔を出し、そのままイアナの元へと歩み寄る。

――っ!?

 だがイアナは彼の姿に目を丸くして返事が出来ない。彼は下半身こそ食事の時と同じ服だが、上半身はなにも纏っていなかった。鍛え上げられた逞しい胸元から目が離せなくなる。いかにも軍人らしい無駄のない実用的な身体に、イアナの脳がくらくらと惹き付けられる。

 イアナの返事等気にもせずに、ツヴァイはそのまま抱き締めてくる。硬い筋肉質な腕に抱かれて、その熱く滾る胸元に頭を埋める。まるでそれが自然で、納まるべきところに納まった、そんな不思議な安心感がイアナの心を満たす。甘い言葉等何もなくとも、心が、身体が彼に溶かされるようだった。

「ツヴァイ、様……」

 使用人として拒否しようとしても、口も身体も拒絶をしない。理性の片隅でそう思ったところで、心が、本能が、身体が求めるものを取り上げることは不可能で。

「愛しいヒトよ……どうか俺のことはツヴァイと呼んでくれ。そんな他人行儀な呼び方をするな」

 鋭い深紅の瞳でそう言われ、イアナは頷くことしか出来ない。貫くような言葉は麻薬のように染み渡り、心臓に直接楔をされたように、彼に全てを掌握される。

「はい……ツヴァイ」

「俺の名を呼ぶ声すら美しい。お前こそ運命の相手だ。お前の全てを俺のものにする。そう決めた。お前は俺の全てを手に入れる覚悟はあるか?」

 魘されるような熱の中、イアナの頭に理性なんてものはもうなかった。立場の違いや今日出会ったばかりなんて物事は、もうどうでも良かった。心が、本能が告げているのだ。この男こそが運命の相手だと。

「はい。私に貴方の、全てをください」

 イアナの言葉がトリガーになった。ツヴァイは熱い吐息を吐くと、軽々とイアナを抱き上げる。足がすっと地面から離れても安定感しかないのは、彼の腕に守られている証のようで。

 暫く抱き上げられたまま運ばれて、イアナの背中が寝具の感触を捉える。水槽の陰に隠れるように置かれたベッドに、イアナは押し倒される形になる。

「ツ、ツヴァイ……」

 なんの心の準備もなく突然過ぎる、と恥じらう言葉が、滾る心に遮られる。そんな言葉に何の意味もないことを、イアナ自身がわかっていた。

「イアナ、愛している。俺のために愛しい声で啼いてくれ」

 そう言いながらツヴァイに口づけを落とされる。最初は感覚を確かめるようなそれが、どんどん深くなっていく。最後には艶めかしい水音を響かせながら交わされたそれに、イアナは頭の芯まで蕩けるような快感を感じた。

 初めてのキスに、初めての欲望だった。一心不乱に目の前の男を求める。雌の本能に支配された自分のことが、怖いどころか愛しかった。

――まるでこうなることが決まっていたみたい。運命の相手……

 夢に浸るようなイアナの身体に、ツヴァイは丹念にキスを落とす。目元、唇、首筋と降りて、そのまま露出した鎖骨にむしゃぶりつく。その間に我慢ならない骨ばった大きな手により、邪魔な衣服が剥ぎ取られていく。

 自然とびくりと反応するイアナの頭を、もう片方の手が優しく撫でた。舌先を肌に這わせたまま、彼の鋭い深紅の瞳がこちらを見ている。愛しいと求める女の痴態に、彼の口元には悪い笑みが浮かんでいる。そのあまりのいやらしさに、イアナはぎゅっと目を瞑った。

 そんなイアナの態度を反抗と取ったのか、彼の舌先が悪戯に動く。そのたびに甘い声をあげるイアナに、ツヴァイの動きは更に激しく刺激を、そして深い愛情を与えてくる。

「っ……ツヴァ……イっ……ダメ!」

 迫りくる初めての快楽の波に、イアナは思わず目を見開いて懇願する。だが、イアナの甘き渦は、突然目に飛び込んできた彼の姿に一気に掻き消された。

「……ツ、ツヴァイ……?」

 目の前の出来事がまるで、絵空事のようだった。タチの悪い冗談のような彼の姿に、イアナは彼の名前をたどたどしく呼ぶことしか出来ない。

 彼の背から、岩で出来た蝙蝠のような翼が生えていた。それだけではなく、腰からは悪魔の尻尾のような尖ったものも見える。

 イアナは恐る恐る彼の背に手を回し、その翼が錯覚ではないことを確認する。硬い岩のような感触が、やけに冷たく感じられた。

「……こ、これは?」

「驚かせてすまない。これは……ガーゴイルの呪いだ」

 途端に冷えた彼の言葉に思わず震えると、ツヴァイは慌ててイアナの頭を撫でてくれた。欲望のままに、という空気はとうに霧散してしまったが、彼の心にあるイアナへの愛情は今も本物のようだ。

「ガーゴイルの……呪い……?」

 イアナは街の外のことは知らない。だが、一般常識として岩の魔獣ガーゴイルのことは知っていた。

 岩石のような表皮を持つ魔獣であり、悪魔のような見た目と強さを持つことで有名だ。鋭く硬いその爪は、軍用の武器としても幅広く利用されていると聞く。爆炎の魔法を操るガーゴイルの昔話は、イアナも幼い頃に母親から聞かされて、その日の夜は眠れなかった記憶がある。

「……気付いているかもしれないが、俺はフリンの実の息子ではない」

「……っ」

 ツヴァイの告白に、イアナは曖昧に頷くことしか出来なかった。この地方では珍しいその肌を見て、そう考えない人間の方が珍しいだろう。しかし彼は、豪商の“息子”だ。それをわざわざ指摘するような愚か者はいない。

「俺は東部生まれの軍人だった。前線での戦闘中に“ここ”で造られた合成獣の攻撃を受けて一度死んだ人間だ」

「え……し、死ん……だ?」

 彼は頷きイアナの上から身を離すと、暗闇が沈み込んだような水槽の一つに歩み寄る。彼の骨ばったゴツゴツした指先が、水槽を撫でた。

「俺は本部の研究所に運ばれた。本部の研究員からしたら俺は、『敵のバイオウェポンの攻撃を食らった研究対象』だった。そして相打ちで持ち帰られた合成獣の頭を、研究員達は俺に“合成”した」

「……!?」

 本部のことを、イアナは詳しいわけではない。志の高い男の子達は国を守るために軍隊への憧れを語っていたが、イアナは戦いの技術を学んだことすらなかった。

 この身に爆炎系の魔力の素質があることは学校にて指摘されていたが、それもせいぜいここの廊下の台座に灯をともす程度のものだ。

 だがそんなイアナにも、本部の研究員達の黒い噂は伝わってきていた。

「フリンは豪商でありながら、バイオウェポンの作成にも携わっていた。簡単に言えば武器商人だな。あいつは作品を更に強化するために、ガーゴイルの呪いを仕込んだ」

 ツヴァイは憎々しい目で一瞬頭上を見上げると、その背の翼をぐっと広げる。

「身体が硬質化するこの呪いは、身体を文字通り岩石のような凶器に変える。その代わり常に渇きに苦しむ俺のことなんて、あいつも本部の研究員達も考えもしなかったんだろうがな」

 ツヴァイが身体をこちらに向けて、改めてイアナに向き直る。その表情には先程の悪い笑みは消えていて、イアナのことを心配する優しい男の表情が浮かんでいる。

「さっきは、説明も無しに受け入れさせてすまなかった。憎々しいこの翼のせいで、俺にはおそらく“人間”の子供は望めない。身体の渇きを満たすための薬も、本部頼みだ」

 ツヴァイは苦し気にそう言うと、イアナの肩にその手を置いた。端正な顔には似合わない、弱弱しい表情。

「俺は一生本部の“獣”だ。戦線からは離れたが、それでも今も『南部に商人の息子として潜入している』という肩書になっている。この肩書はさすがに形だけのものだが、それでもお前は……俺の傍にいてくれるのか?」





 翌日。イアナは使用人の仕事を早々にこなすと一人、フリンの部屋へと向かった。

 この邸宅は広いわりにこまめな清掃が必要なかった。その理由は昨夜聞いた、地下の実験場の作品のためだ。

『昨夜ツヴァイ様より全てを聞きました』

 そうイアナが朝食の席でフリンにそう告げると、彼は特に顔色を変えることもなく『そうか』と答えた。そして昼の仕事が片付いてから部屋に来るように伝え、昨日門からイアナを案内してくれた男に『餌やりの仕方を教えてやれ』と言った。

 その席にはもちろんツヴァイも同席していたが、彼は沈黙を通したままだった。

 厨房に戻ると使用人の男は、この邸宅は偽装された実験施設であったこと、そして実験により生み出された獣達が、今も生きてこの邸宅内を歩き回っていることを教えてくれた。

 煌びやかな空間に走る血の跡は、獣達の命の叫びだったのだ。非人道的な実験によって生まれた、哀しき生物達。

 ぞわりと背筋が凍るイアナに、男は安心させるように付け加える。その言葉は南部特有の訛りを含んだ、親しみを込められたものだった。

『戦闘用の獣達はもう死んでもうたわ。少し前にこの邸宅は、本部の特務部隊からの襲撃にあってな。昨日見た美人さんとツヴァイ様もその部隊にいたんやわ。俺はその時の生き残りなんやけど、ツヴァイ様の生い立ちを聞かされて、憎しみなんて吹き飛んでもて……俺は一生、あの方をお守りしようと決めたんやわ』

 荒れ果てた前庭はそういう事情があったのか。無数に開いた穴は銃撃の跡。そして新調された門は、特務部隊の突入口になったのだろう。どうやらレイルが本部からたまに来ているらしいが、呪いを抑える薬を任せるには彼女は適任だと思われる。

『今は小型の害のない……研究結果的には失敗作なんやろうけど、そんな獣達がうろうろしてる。彼等に自由を与えたのはツヴァイ様や。合成された不安定な存在やから、所々で血ぃ吐くけど、それでも皆、強く生きてる。可愛い奴らやわ、まったく』

 初めて見せる男の笑みに、イアナも微笑みを返していた。この男だけでなく、この邸宅で働く全ての使用人が、彼と同じ理由――つまり本部からの襲撃の生き残りだった。

『ツヴァイ様に見初められて、旦那様からも“餌やり”の許可が出た。あんたにこんな先輩面出来るんも、婚姻が決まるまでの短い間だけやろうな。この邸宅の秘密を知ったんや。もう逃げられへんで?』

 そう言った男の瞳は笑ったまま。彼はイアナの表情から答えを既にわかっていたのだろう。

――逃げ出すわけないじゃない。

 本当に愛する運命の相手を見つけたのだ。それがどれだけ茨の道でも、イアナは添い遂げる気持ちであった。

 そして添い遂げると決めたからこそ、イアナは主人に問いたいことがあったのだ。

 深呼吸を一つして、意を決して扉をノックする。

「……入れ」

 感情の感じられない男の声が響いて、イアナは扉に手をかける。

 主の部屋は豪奢でいて、それでいて殺風景だった。異様に家具が少ないと感じ、そして目の前にいる彼の身体を見て納得する。短い茶髪に褐色の肌――

――特務部隊から強襲を受けて、五体満足でいられる方が有り得ない、か。

 本部が誇る最強の部隊。それが『特務部隊』と言われる少数精鋭の集団だ。使用人の話では、彼等は突入の際たった三人で、この邸宅を制圧したらしい。警護にあたる兵士や合成獣達もなぎ倒し、そして――邸宅の主の首から下を不随になるまで追い込んだ。

 主の部屋には机とベッドがあるのみ。それ以外の家具を、彼は扱うことが出来ないからだ。必要ないものは一切排除する。フリンという男の性格が浮き彫りになっているような部屋だった。

「私に聞きたいことがあるのだろう?」

 抑揚のない声で、フリンが問う。自由になるのは首から上だけだというのに、相当なプレッシャーだった。人の命を平然と弄ぶ、狂気の男の圧力だ。

 そんな男を前にして、イアナは震え出しそうな足に力を入れ直す。拳に力を入れて、腹から声を出せ、と自分自身を叱咤する。

「……どうして私を使用人に選んだのですか?」

 イアナはその疑問だけが聞ければ良かった。何故ツヴァイが自分を選んだのか。それはもうどうでも良かった。これは運命だから、と心が、身体が叫んでいた。

 しかし、この邸宅に使用人として呼ばれたのは、きっとこの目の前の男の意思である。邸宅の雑務を頼むのだ。そこに介在する意思は主の他に有り得ない。

「君の魔力に惹かれると……わかっていたからだ」

 主はイアナの予想通りの答えを告げた。

 この邸宅にて使用人を募集しているという通達が入り、イアナは好奇心から応募の手紙を送ったのだ。イアナの好奇心を刺激したのは、他の募集には見ない一言だった。

『自身の魔力を少量、魔石に注いでお送りください』

 言われた通りに魔力を注ぎ、そしてすぐに採用の通知が届いた。その時は全く意味がわからなかったが、ツヴァイの話を聞いた今ならわかる。

 ガーゴイルは爆炎の魔力を持つ種族だ。ツヴァイの身体に流れるのはおそらく清らかなる水の魔力。相反するその魔力の特性に、彼の身体が、本能がイアナの魔力を求めるのだろう。

 それを見越してこの男は、イアナを使用人として“息子とした”ツヴァイに引き合わせたのだ。

「それは……私を使って子供を産ませるため……つまり、貴方は研究の続きをしたい、ということですか?」

 昨夜ツヴァイは地下にて、自分は子供を望まないと言っていた。それはきっと彼の本心だ。獣と混ざり込んだ彼の苦悩を、イアナは想像することしか出来ない。

 その人と異なる身体を、愛する子供に受け継がせることを、彼は拒否した。それは、正しく苦渋の決断だったに違いない。

「私はもう、彼を材料にすることは止めることにしたんだ。彼の“望み”を実現させてやるために、君を選んだんだ」





 イアナは大広間の扉を開けた。そのあまりの勢いに、広間にいたツヴァイが驚いたように振り返った。

「……話は済んだのか?」

 彼はその表情を緩めると、イアナに問い掛けた。優しいその声音に、しかし不安を感じ取れる。

――大丈夫ですよ。不安になんて、ならないで。

 イアナはそう声に出す前に、ツヴァイに抱き着いていた。抱き締め返してくれる彼の顔を見上げ、安心させるために微笑む。

「はい。もう心置きなく私は貴方のものになれます。どうか、お傍に置いてください」

 主は“息子”のことをとても愛していた。いや、愛し始めたのだ。

 見上げるツヴァイの顔越しに、大広間に飾られた石像が見える。天井の高い――普通の建物ならば三階程度の高さがある――この大広間は、上部を飾りガラスに彩られただけの何もない空間だった。

 そう、“だった”のだ。襲撃の後にこの空間には、二人の呪われし男の石像が残された。

 岩の魔獣ガーゴイルと化した主に、合成獣と一体化しそれと戦ったツヴァイの石像だ。一度は呪いに屈しその身体を石に変えながらも、特務部隊の尽力により救出されたのだという。

 本部の命令が元だとしても、親子として寝食を共にするうちに、主の心からいつしか邪は消えていた。本当の息子のように思えるようになり、自然な流れで息子の子供のことを心配していた。

 不自由な身体で研究結果を睨み付け、そしてどうやら『爆炎魔法の素質がある者ならば、岩石の呪いを打ち砕く』かもしれない、という結論に達したのだ。

 彼は決して、孫を魔獣にしようとは考えていなかった。それを聞けただけで満足だ。

 何故ならば、この邸宅には深い愛情がある。本部からの手助けも期待できる。そして何より、愛しいヒトがいる。

 それだけで良い。何も迷う必要はない。抱き締める力が緩まり、ツヴァイの顔が近付く。優しいキスをひとつ落とされ、彼の深紅の瞳が穏やかに笑った。

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