第2話
ヴァイオリンを辞めてから6年、7年ほどたち、私は大学生になった。私は上京し、一人暮らしをはじめた。上京してすぐは、東京に何の人間関係もなく、急に一人で過ごす時間が多くなった。それまでの7年間、ヴァイオリンを弾こうとは一切思わなかったのに、私はその頃から突然「ヴァイオリンを弾きたい」と思うようになった。
「弾かなければ」ではなく「弾きたい」と思ったのは一体いつぶりなのか、自分でもわからなかった。私は実家から持ってきていたヴァイオリンを引っ張り出し、約7年ぶりにケースを開けた。そっと弦をはじいた。ポロンポロンと、優しい音がした。
数年ぶりに音合わせをし、松脂を弓にたっぷり塗って、ヴァイオリンを弾いてみた。弓の毛を弦にあててゆっくりと滑らせる。
「こんなに美しい音だったのか、ヴァイオリンは。」
生まれて初めて心からそう思った。この、人の声に最も近い音を出す楽器を、もっともっと美しい音で弾きたいと思った。もっと人が歌うように弾きたいと思った。
孤独の中で、私はヴァイオリンと過ごすことが多くなった。誰にも強いられず、自由に弾いていた時間を練習時間だとは思わなかった。しかし、それを練習時間だと捉えるならば、いまだかつてここまで練習したことはないというくらい練習に没頭した。弦を抑える左手を動かし技巧的なことにこだわるよりも、徹底的に右手の弓の動きに注意した。特に弓が弦にどう当たるかを注視し、とにかく美しい音を奏でられるようにしようと思った。それまでヴァイオリンの音を聞くのも嫌だった私は、人が変わったように熱心に好きな演奏家の動画を見、好きな曲を真似して弾いていった。もともと母のヴァイオリンの音を聞いて練習曲を覚えていった私には、楽譜を読むより耳で聞いて真似するほうが自然だった。先にいつも耳で曲を覚えていた私は、初見の楽譜を弾くことができなかった。その時の失望した先生の顔は嫌な思い出としてとても印象に残っている。
私は自分が持っていたイヴリー・ギトリスのCDの音に惹かれていった。それこそ「歌う」という言葉がぴったりの、あたたかな遊び心溢れる音を奏でるヴァイオリニストだった。ヴァイオリンの音は、いつの間にか、トラウマではなく、喜んで聞き入るものに私の中で変わっていった。興味をもって手に取った彼の自伝は、子供のころ家にあった日本国内のヴァイオリニストの読んでいて苦しくなるような種類のものとは全く異なっていた。その中には、「音楽学校が将来の演奏家を潰しかねない」と、画一的な音楽教育についての批判的な内容が記されていた。私は読みながら、このような自由を愛する精神が音に滲み出るから、私はこの人のヴァイオリンが好きなのかもしれないと思った。
また、その頃読んだ別の本にはジプシーとヴァイオリンとの関係について記されていた。彼らはヴァイオリンを平気で雨ざらしにするが、生活の一部として、また相棒として、本当に楽しそうにヴァイオリンを弾くということが書かれていた。湿気に弱いヴァイオリンを雨ざらしにするなんて、たいていのヴァイオリン学習者には考えられないことだ。しかし、私はそんな肩の力の抜けた楽器との付き合い方に大いに惹かれた。
音楽とは、何なのだろう。
私はヴァイオリンと再び関わるようになり、そんなことを考えるようになった。
ちょうどその頃、私は幼い頃通っていたキリスト教の教会に再び通うようになった。すると、周りにギターを弾く仲間が現れるようになった。プロテスタント教会では讃美歌を歌うときによくギターで伴奏をするからだ。中にはバンドを組んで活動している人々もいた。私にとっては皆とても上手いように感じたが、彼らは皆独学だという。彼らは親に強いられるでもなく、ある程度の年齢になってから、自発的にギターを始めた人々だった。楽譜もない中、自由にセッションを楽しむ彼らの姿は、私の目にはとても新鮮に映った。
幼い頃から親ぐるみで始めるのが普通の、堅苦しくてしょうがないヴァイオリンの世界とは大違いだと思った。当事者だけでなくその親を含めた、ヴァイオリンと関わる人々の世界、というものが私はどうしても好きになれなかったのだとその時気づいた。音楽は本来、その字の通り音を楽しむものであり、喜びをもたらすものなのだ。「ヴァイオリンに関わっている」ということをおかしなステータスとして鼻にかけたり、無意味に人を貶めるような喜びも自由さもない世界は、根本からおかしいのだと思った。
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