魂柱
何にでもごま油をかける人
第1話
ヴァイオリンの音を聴くと、どこか苦しい気持ちになるようになったのは、いつからだろう。幼い頃から私はいつの間にか、ヴァイオリンの音色に恐怖を感じるようになった。自分でも気づかないうちに、ヴァイオリンの音は私の中でトラウマとなった。
私がヴァイオリンを弾くようになったのは母の影響だ。母は私が物心つく前からヴァイオリンを習っていて、幼い私はよくレッスンについて行った。2歳の私はヴァイオリンを弾く母をそれはそれは羨ましがった。ようやくレッスンを受けることが許された4歳で初めて自分のヴァイオリンを手にした時は、嬉しくてしょうがなかった。ヴァイオリンの音、形、そのすべてが大好きだった。当時の私にとって、この世でヴァイオリン以上に楽しいものはなかった。
ところが、大好きだったヴァイオリンは、あっという間に私と愛憎入り混じった関係を築くことになった。始めた頃は私がヴァイオリンを弾くことをだれもが喜んでくれたが、年々先生も親も厳しくなり、レッスンや練習で怖い顔をすることが多くなった。私は大人たちの強張った顔、攻撃的な声にいつも恐れおののいていた。いつの間にかヴァイオリンを弾くことと、大人の恐ろしい顔が私の頭の中でしっかりと結びつくようになった。
家には有名な日本国内のヴァイオリニストの自伝やノンフィクション本が何冊もあった。子供の頃、興味本位で気になる個所を読んでみた。どれも想像を絶する厳しい経験が記されており、読んでいて苦しくなるような内容ばかりだった。ヴァイオリンのために自殺未遂をした人もいた。読みながら、あたかもすべての本に「ヴァイオリンを弾くには苦しまなければならない」というセオリーが謳われているように感じた。
「どうしてヴァイオリンってそんなに苦しいものになってしまうのだろう。」
ぼんやりと、そんなことを考えた。
学校で、教室の黒板に書かれた日付に「(水)」という文字があるのを見ると、気分が暗くなった。水曜日がヴァイオリンのレッスンの日だったからだ。車でレッスンに連れていかれる時、いつも顔を伏せて窓の外を見ないようにした。先生の家に近づくと、恐怖でいっぱいになるからだった。
ヴァイオリンは、音を合わせ、弓の毛を張って松脂を塗ってからスタートする。私はできるだけレッスンの時間が短くて済むよう、レッスンが始まってから松脂を塗っていた。「レッスン前に準備を終わらせるように」と指摘されても、私は聞き流して毎回レッスン開始になってから松脂を塗っていた。
いつの間にか、ヴァイオリンを見るのも嫌になった。親に「ヴァイオリンを弾くか宿題をするかしなさい。」と言われると、いつも宿題の方を選んでいた。
私がヴァイオリンを弾くのを嫌がると親は「もう辞めれば」と怒っていた。私は「ヴァイオリンを辞めると私が私でなくなる。」と泣き叫びながら答えていた。
おそらく、物心つくかつかないかのうちにヴァイオリンを始めたので、どんなに嫌でもヴァイオリンと離れている自分をそのとき想像できなかったのだと思う。辞めることもまた私にとっては恐怖だったのだ。
しかしある日、思い切ってレッスンをやめたいと親に切り出した。先生は「練習しないで良いから来い。」と答え、幼い自分はそれに従った。しばらくして、親の「厳しい先生だからつらいのでは」という考えもあり、もう少しレベルを下げた別の教室に通うことになった。私がその教室に通い始めた時、その教室の子供たちが弾いていた曲は私が何年も昔弾いた曲だった。しかし、その教室の先生は、もともと自分たちの教室で習っている子供達のレベルよりも、かなり下の方からスタートするよう私に指示した。先生は自分がもともと教えていた子供たちよりも私がいかに遅れているかということをグループレッスンの際あの手この手で示そうとした。
そのうち、元のヴァイオリン教室の先生に「今は昔とは違い合奏だけのレッスンを主にしているから」とまた来るように言われ、いわれるがままに再びそこに通うことにした。ところが先生は、毎回のレッスンや合奏を通して、じわじわと私が以前その教室を辞め、別の教室に変えたことに対する復讐をした。私だけにいつも貶めるような声をかけた。私はそのころ小学校の高学年だった。今思うと、小学生の頃は全くわけもわからないまま、各教室の音楽教師のプライドに散々振り回され、痛めつけられてしまった。
やっとのことで初めて「ヴァイオリンを辞めたい」と口にしてからかなりの時間がたったものの、その先生がヴァイオリン教室を閉じることになり、私はようやく完全にヴァイオリンから解放されることができた。私が中学生になる頃だった。私はもう、ヴァイオリンを見るのもその音を聞くのも嫌だった。二度と触りたくないと思った。ヴァイオリンをやっている人間も、皆醜くて大嫌いだと思った。
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