第2話
「へー、可愛いって印象しかなかったけどなかなかの不思議ちゃんだ」
みさとは私の向かい側に座り粘土をこねながらにやりと笑った。
太ると宣言した翌日から三浦さんは大きなトートバッグを持って来るようになった。中身はチョコやせんべい、クッキーに菓子パン。休み時間の度にそれらを次々と口に入れる三浦さんの姿をクラスメイトだけでなく先生までもがぽかんと眺める。
「なんか始めたわけ?演劇か相撲?」
みさとは私と同じ思考をしている。
考えは違えど、三浦さんになにかしらの変化が起きていることは誰が見ても明白で、ある人は失恋でもしたのかと心配し、ある人は生理前なのかと見て見ぬふりをする。
「違うか。相撲部はそもそもないし演劇部に入ったとしたら学校中で噂になってるだろうし」
そこまでの考えも私と同じ。
少し太ったからとダイエットを宣言する人は大勢いるが、進んで太ろうとする人は少ない。そこにはきっと目的や理由があるはずで、三浦さんが突然髪を切ったことも関係しているのだろう、か。
「骨格」
「骨格?」
私が三浦さんに言ったことは関係しているのだろうか。
カッターン。
「描くなっていっただろ」
美術室に細長い木片が倒れたような少し高い音と藤くんの怒声が響いた。音の発生源では口を一文字に結び微動だにしないかなちゃんと拳を握りしめている藤くんが向き合っていた。
「これは藤くんじゃないよ」
「嘘つくなよ。お前に絵を描く資格なんてない」
「はいはい二人ともそこまで」
中野先生が二人の間に割って入り、倒れたイーゼルを起こす。
「藤くん、どれだけ腹が立つことがあっても感情的になるはよくないな。物にあたるのも」
「けど」
「ゆりちゃん」
先生に呼ばれたゆりちゃんがはいっと返事をした。
「藤くんの大きい声聞いてどう感じた?」
空気が冷たい。ゆりちゃんはちらちらと藤くんの様子を窺いながら答える。
「怖かった、です」
先生はそうだよね、と頷いてから藤くんを見る。
「むかついた時ほど冷静に。それが自分を守ることにもなるから」
藤くんは黙って下を向く。その拳は相変わらず強く握られたままだ。
「なにがあったのか話してくれる?」
かなちゃんの話によるとかなちゃんが描いていた油絵が藤くんの怒りの原因らしかった。キャンバスには細身で少年とも少女とも見て取れる人物画が描かれておりテーマは中性。
私は以前かなちゃんが藤くんにモデルをして欲しいと迫っていたことを思い出す。
「俺はやらないって言ったのに勝手に。しかもスカートなんか履かせやがって」
「だからこれは藤くんじゃないんだって」
「ストップ、ストップ」
先生は腕を組み、絵をじっくりと観察してからため息を吐いた。
「たしかに藤くんっぽいけど、グレーかな」
「でも、先生」
「個人を特定できる特徴が描かれていないし、どこにでもいる誰かとしか言えない」
かなちゃんが大袈裟に肩をすくめて見せる。
「そうですよねー。藤くんが自意識過剰すぎ」
「ただし」
先生はかなちゃんを真正面から見据え、続けた。
「表現者として、受け手に与える印象についてはよく考えた方がいい。それだけで作品の意味も表現者としての技量も百八十度変わってくるからね。少なくとも私はそう思ってるよ」
首筋にひやりと冷たいものが流れた。
窓についた雨粒がまた降ってきた雨粒と合体して落ちていく。ぽつぽつと窓を叩く音。いつもより暗い世界。
「福田さん、今日時間ある?」
三浦さんの増量する宣言から三週間が過ぎていた。あれから彼女はお菓子を食べ続け、クラスメイトや先生は時間が経つにつれその光景を日常の一コマとして受け入れ始めている。
「あるけど」
振り向かなくてもそれが誰かわかるというのは当たり前ではない。私は彼女の声を記憶しすぎている。
「私のこと描いてくれない?」
思わぬ提案に驚きつつ振り返ると少しふっくらとした三浦さんの首筋が目に入る。もともと細身だったこともあり以前より健康的な印象になった。
願ってもない提案のはずなのに躊躇している自分がいる。この提案を受け入れてもいいのか。
「今日がだめなら明日でも」
彼女は私が断るとは思っていないのだろう。無意識の自信を含む返答に自分が揺れる。
「今日で、大丈夫」
私はうつむきながら答えた。
放課後、私と三浦さんは一緒に美術室に向かう。
「こんにちは。福ちゃんなんかお菓子」
私の顔を見ていつものセリフを言いかけた中野先生が三浦さんに気づいて口を結ぶ。
「お邪魔します」
三浦さんがぺこりと頭を下げ、私は「同じクラスの三浦さんです」と紹介した。
「はいはい、こんにちは。ゆっくりしていってね」
もう一度軽く頭を下げると三浦さんは持っていたトートバッグからアルファベットの凹凸があるチョコレートを三つほど取り出すと先生に差し出した。
「よかったらどうぞ」
「これはこれは、ご丁寧に。ありがとう」
先生のほくほくした顔になんだかむずむずする。
いつもの席に荷物を置き、スケッチブックを取り出す。絵を描くのは久しぶりだ。心臓の音がはっきりと聞こえるような。
ちらりと三浦さんを見ると棚に並べられた美術雑誌を興味深そうに眺めていた。
「暇だったらなにか見ててもいいよ。そこら辺にある雑誌とか図鑑とか」
声を掛けると三浦さんは頷いて並べられた本から一冊取り出した。椅子を用意し、彼女がそこに座る。
「ポーズとかは、ないの?」
「今回は胸から上だけだし自然な表情がいいからなにもしなくていいよ」
三浦さんはわかったというように私を見てから膝の上でページをめくり始める。
大きく息を吐き、質感を確かめるようにゆっくり鉛筆を握った。見慣れた構図。描き慣れた対象。ただ一ついつもと違うのは三浦さんを描くということ。
心臓の辺りからじわじわと熱が込み上げてくるのがわかる。ふつふつと熱くなった血液が全身を駆け巡り、私の体温を少し上げる。
ずっと前から絵を描くのが好きだった。特に人の絵を描くのが好きだった。高校生になって美術部に入ってからはそれまでこそこそと描いていた絵を堂々と描くようになった。嬉しくて楽しくてわくわくして、後ろめたささえも私の手を動かす原動力となった。でもどこかでこのくらいとも思っていた。このくらい大丈夫、彼女だったら、慣れているだろうし、許されるだろう。そんな甘い考えが崩された。ひやりと首筋を伝った感触は今も消えていない。それなのに、私は今興奮している。彼女を描けることにどうしようもなく。
光を反射する真っ黒な髪。アーチ型の整った眉毛。鼻。目。口。顔のパーツを一つ一つ丁寧に仕上げていく。どのくらいそうしていたのか、大きく息を吐いたら急に喉の渇きを感じた。時計を見るとすでに一時間ほど経過している。その間私は三浦さんを描き続け、彼女は膝に置いた本を見ていた。
「ごめん三浦さん、少し休憩する?」
微動だにしない三浦さんにもう一度声を掛けるが、動かない。このまま描き続けてもいいのかと迷っていると彼女がページを開いたままぽつりと呟いた。
「全然違う」
立ち上がり、三浦さんに近寄る。彼女が開いているページには一枚の布を纏った男女が数人描かれていた。おそらく西洋の神話を題材とした絵画だろう。男性は所々についた筋肉でがっしりと、女性はふくよかな曲線で描かれている。
「うん。男女の体つきの違いがよくわかる絵だよね」
私の言葉に三浦さんはなにも返さない。代わりに本をぱたんと閉じると元の場所に戻した。
「三浦さん、少し休憩」
「風姿花伝の中で男時女時って単語が出てくるんだけど」
「風姿花伝?」
三浦さんは開きかけた口を一度閉じ、「ううん、やっぱりなんでもない」と言ってから口をつぐむ。
風姿花伝は確か日本史で習った。世阿弥が書いたものだったような気がする。目を閉じてテストのために詰め込んだ知識をなんとか引き出し、風姿花伝に関する情報を思い出そうとしたがだめだった。
諦めてまぶたを上げると三浦さんが鞄を肩に掛けている。
「ごめん、用事思い出したから帰る」
そう言って彼女はすたすたと歩いて行ってしまう。
えっ?急に?どうして?
混乱しながらもふと彼女のトートバックが視界に入った。慌てて手に取り彼女の背中に呼びかける。
「三浦さんお菓子」
「全部あげるから、食べていいよ」
三浦さんは振り返ることなく去って行った。残された私はどうしたものかとトートバッグを手に立ち尽くす。
「男時女時」
この言葉になにかがある。ぼんやりとした頭でそう思った。
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