第1話

 人生にはある程度絵が描けてよかったと思う場面がいくつかある、と思う。

 例えば美術の授業とか文化祭で横断幕を作るとき。いい評価を得られるし、絵が得意な福田さん、という付加価値をもらえる気がする。

 絵が下手な方がよかったと思う場面なんて滅多にないだろう。

「あ」

 それは授業と授業の間の休み時間のことだった。後方から聞き慣れない声がして振り返ると三浦さんがこちらをじっと見つめている。

 しばらくの間、私は自分が置かれている状況にも気づかず、口をぽかんと開けたまま三浦さんに見惚れていた。教室で三浦さんの席は窓側から三列目の前から二つ目、私の席は一番窓側の列の後から二つ目。私はいつも斜め後ろの少し遠い距離から三浦さんを見ている。だからあと一歩近づけば手が触れそうな至近距離にいる三浦さんには慣れていない。加えて三浦さんが私を見て、正確には私の奥の方を見て、、、。

 奥の方?

「それ、私」

 三浦さんの綺麗な指先の方向を視線で辿ると、机の上に三浦さんがいた。

 それは私が授業中などにノートの端に描いていたスケッチで、自分でいうのもどうかと思うが、どう見ても三浦さんにしか見えない傑作だった。

 今、この瞬間ほど自分の絵が下手であったらと思ったことはないだろう。おそらく、これからもない。

「ごめん。勝手に」

 私は潔く謝ることにした。この絵はどう見ても三浦さんだし、本人にもそう認識された。むしろ三浦さん本人にわかってもらえたなんて幸せなことではないか。たとえそれが三浦さんから軽蔑されることと引き換えになったとしても。

怒っているかとおそるおそる顔を上げると、三浦さんは私の絵をじっと見ている。その表情からは感情が読み取れない。

「どうして」

「え?」

 三浦さんが口にした言葉が独り言なのか疑問文なのかわからない。

 戸惑っている私を見て、三浦さんは今度ははっきりと言った。

「どうして髪が短いのにおとこに見えないんだろう」

 私の頭の中にクエスチョンマークが浮かぶ。おとこ、オトコ、男。どうして、男に見えないのか。

「それは、骨格が違うからかと」

「骨格」

 答えながら私は戸惑っていた。どうしてそんなことを聞くのだろう。

 三浦さんはまたしばらく絵をじっと見つめてから「ふう」と息を吐く。

「これからは勝手に描かないで。描くときは言って」

「いいの?」

 てっきり嫌われたものだと思っていた私は驚きと喜びの表情を隠すこともせずはじかれたように三浦さんの手を握ってしまった。握ってしまってから三浦さんの手のなめらかさに静かに感動する。想像していた以上の触り心地。

 手を握ったまままじまじと三浦さんの手を見る。推しと握手会で触れ合えたファンはきっとこんな気持ちなのかもしれない。推しが同じクラスの人なんて私はどれだけ幸運なのか。

いけない、推しの神聖な手に触れるなんて本来は許されない。

手を放して顔を上げると三浦さんの天秤が私の目に飛び込んできた。天秤は振り子のように右に左に、揺れ続けている。

「気分にもよる」

 予鈴が鳴って三浦さんは自分の席に戻っていった。

 兎にも角にも私は三浦さんの気分によっては彼女を絵のモデルにすること許可された、らしい。


 放課後、うずうずしながら美術室に顔を出すと中野先生が黒板の前の作業台でなにやら描いていた。

「こんにちは」

「こんにちは。福ちゃんなんかお菓子持ってるでしょ」

 創作中、先生はいつもお腹を空かせている。だから常にエネルギーとなる食料を常備していて日によっては私たちにもお裾分けしてくれるのだが、食料が切れるとこうして美術室に入ってきた部員にこのセリフを言う。

 なんかお菓子持ってるでしょ、と。

「エネルギー切れですか?ビスケットならありますけど」

「さすが福ちゃん」

 バッグから赤い箱を取り出して中に入っていた個包装の袋を一つ、中野先生の手のひらの上に置いた。

「ありがたき幸せ」

「いえいえ。ところで先生、みさと来てないですか?」

「みさと?今日は休みだと思うよ。たしか歯医者行くって」

 そういえばそんなことを言っていた気もする。

「用でもあった?三浦さんのこと?」

 先生はリスのように両手でビスケットを持って食べ始めた。

 私が三浦さんのファンであることを美術部で知らない人はいない。私が描いているのはたいてい三浦さんをイメージした作品であり、彼女は学校でもトップを争う美人だから。

 同じファンとして今日の出来事を一番にみさとに話したい気分だったが、いないなら仕方がない。しかし、この興奮を話すことで少しでも放出しておかないと電車で終始にやけた顔をしている変な人になりそうだ。

 私は三浦さんとのやり取りを一通り先生に話した。三浦さんの手に触れてしまったことを除いて。

「それは危なかったね。人格権の侵害で訴えられてもおかしくない状況だ」

 先生の言葉がグサッと胸に突き刺さる。

 私たち美術部員は入部してから一番初めに肖像権や著作権といった創作するうえで無視できない憲法、法律について中野先生の講義を受ける。これは中野先生の方針で、普段写真を撮るときや卒業してからも役に立つし知っておかなければならないことだから、と先生は言う。

 ある特定の個人をモデルにすることはたとえそれが公に公開されなくとも、商業的に利用されなくとも本人に了承を得ていなければ人格権の侵害になる。

 私の場合、三浦さんを描くときは本人だと特定しにくい後姿(私が教室で見ているのが三浦さんの後姿であるという事情もある)か正面であっても顔をあえて隠したり装飾を加えるなどの工夫に加え、展示会など人の目に触れる作品には別のモチーフを選ぶことから部活内では黙認されていた。

「福ちゃんは三浦さんモデルだといい絵描くからなあ」

「それは溢れ出る愛のせいかと」

「ああ、愛ね。たくさんいるよね。愛で身を滅ぼす人が」

「すみません。以後気をつけます」

 三浦さんの横顔と短い髪が黄金比率過ぎて手が勝手に動いてしまった、という弁解は喉元でなんとかとどめた。ついでにうつむいて反省しているふりをする。

「反省してるみたいだから説教はしないけど、ほんと気をつけるように」

「はい」

 先生は「ふう」と息を吐くとペットボトルの蓋を開け黒い液体を喉へ流し込む。

「それにしても三浦さんの言ったこと、少し気になるな」

 私はぱっと顔を上げて先生を見る。

「どうしておとこに見えないかって言ったんだよね」

「はい」

「聞き間違いとかじゃなくて?」

 確かかと言われると微妙だ。一回しか聞いていないし、三浦さんの声は小さかったから。でも、

「たぶん合ってると思います。三浦さんは滑舌がいいですから」

「得意気な顔するところじゃない」

 知らず知らずのうちに得意気な顔をしていたらしい。先生が両手で私の頬を軽くつまむ。

「ふみません。三浦はんのことになるとふい」

「全く。間違いないならおとこは性別の男?」

「おそらく」

 その後の骨格の話の流れからしても性別の男であることは間違いないと思う。

「うーん、もしかしたらなにか違和感があるのかもしれないね」

「違和感?ですか」

 先生が腕を組んで眉間にしわを寄せる。

「うん。例えば長い髪の自分が見るに堪えなくなった、とか」

 私は頭の中で三浦さんの姿を思い返す。あんなに美しい姿が見るに堪えないことなんてあるのだろうか。理解できない。

「まあこれは私の勝手な想像。気になるなら本人に聞けば?」

 私がうんうんと唸っていたからか、先生は一番手っ取り早い解決案を提示した。

 先生が言っていることは正しい。一番確実で迅速な解決法だ。それはわかっているのだけれど、、、。

「聞いてもいいんですかね」

「どうだろう。それも本人にしかわからないから」

先生の答えにがっくりと肩を落とす。結局のところすべては本人次第らしい。

ゲームみたいに特徴とか攻略法とかが決まっていればすぐに解決できそうなものなのに。

「仕方ない。人間は現実だから」

 先生は私の心の声が聞えたかのような返事をする。なんだか頭の中だけでなく廊下も騒がしくなってきた。

「一生のお願いだから、ね。お願い、お願い、お願い」

「嫌だって言ってるだろ」

「うるさいのが来た」

 セットみたいに二人で美術室に入ってきたのは後輩の藤くんとかなちゃん。

「こんにちは」

「こんにちは。また今日もかなちゃんは騒がしいことで」

「先生聞いてくださいよ。藤くんがモデルになってくれないんです」

 かなちゃんは唇を尖らせて不服そうに藤くんを見る。

「俺は撮る専門。モデルならほかにいくらでもいるだろ」

「今描きたい絵のイメージにぴったり合うのは藤くんしかいないんだよ」

「ちなみにイメージって?」

 仲介するつもりでかなちゃんに尋ねた。

「中性です」

 三人の視線が藤くんに集まる。やわらかそうなくせ毛の下には二重の大きな目に小さい鼻。可愛らしいと形容できる顔に加えて体の線が細いため服装によっては女の子と間違えられそうだ。対してかなちゃんは一重のきりっとした目に筋の通った鼻、背が高いせいか骨格もしっかりしていて格好いい部類に入ると思う。

「絶対にやらないからな」

 先ほどよりも固い決意を感じさせる口調で言い放つと藤くんは流し台の方へ足を運ぶ。

「いいじゃない。減るもんじゃないし」

 ね、とかなちゃんが藤くんの肩に手を置く、と振り返った藤くんはかなちゃんを睨みつけた。

「おい、セクハラで訴えるぞ」

「あっ、すみませんでした」

 藤くんが本気で怒っているか否かはわかるらしい。かなちゃんはしょんぼりした顔でおとなしく藤くんから少し離れた席に荷物を置くとエプロンをしてイーゼルを運びだした。

「これも現実だから、ね」

 先生の言葉に私は苦笑いで返す。

「三浦さん、ほかに何か変わった様子はないの?」

 何気ない会話の続きに私は口をつぐむ。

 目に見えて変わったことはある。以前まで大きく右に傾いてほとんど動くことのなかった三浦さんの天秤は髪を短くしてから不安定に揺れ続けている。

「福ちゃんが深刻になることないよ。三浦さんの問題だ」

 再び絵に取り掛かる先生の胸の辺りに私は目を凝らした。

 中野先生は天秤を持っていない。私が初めて見たときからずっと。


かなちゃんの天秤は平行でほとんど動きがない。藤くんの天秤は左に大きく傾いていて和田先輩のと似ている。

男子の天秤は左に傾いていることが多い気がする。傾き具合に差はあれど、そんな気がする。

「福田さん」

 朝早く登校し、席に着いて空を眺めながら頭の中を整理していると三浦さんが私の顔の前で美しい手をひらひらと揺らした。

「あっ、はい」

「おはよう」

「おはようございます」

「ございます?」

 窓から差し込む朝日よりも三浦さんの方が眩しいと思う。私にとって三浦さんは近くて遠い存在だけど三浦さんにとって私は普通のクラスメイトなわけで、その場合タメ口が自然だ。

「おはよう」

 私が言い直すと三浦さんは大きくうなずいた。なんてチャーミングなんだろう。尊い。

「あの、なにか」

 崩壊しかけた頬の筋肉を引き締めて私は三浦さんに聞いた。もしかしたら今日、三浦さんを描けるかもしれないという淡い期待を抱きながら。

「私、十キロほど太ろうと思う」

「えっ?」

 そう宣言すると三浦さんはさっさと自分の席に戻って行く。

十キロ太る。三浦さんは演劇部にでも入ったのだろうか。俳優の中には役柄に合わせて体重を増減させる人もいると聞いたことがある。もしくは相撲をはじめて強くなるために体重を増やすのか。いや、うちの学校に相撲部はない。そうじゃない、そうじゃなくてなぜ急に。

わからない。なぜそんなことをするのかも、なぜ私に宣言したのかも。わからない。


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