39:第二十六話:研究という名の造翼

 私は揺らされ目が覚める。

 どうやら彼女が起こしに来たようだ。

「なんじゃ疲れてしまったのか?

 昼寝なら昼食をとってからにするがよい」

 私の頭はまどろみなんぞ一切無く、更地のように清々しく吹き抜けていた。

 やがてその荒野は暗闇の教室あるいは深夜の廊下に目を伏せるような漠然とした恐怖に支配される。

 私は、寝たのか?いや、眠気なんてものカケラも存在していなかった。何者かに眠らされたのか?

 思わず頭を抱える。その目の先には質量の消失した混合液が存在していた。

 彼女からのありがたいお言葉は続く。

「どこか具合でも悪いのか?」

「い、いや何でもない」

 机に手をつき、何とか立ち上がる。

「そうか、無理はするでないぞ?」

 彼女が私の方を見上げる。

「昼食にしよう」

「うむ」

 話はそれからだ。



 彼女について行き食事をとった。

 食事をとっている間も考えていた。私は寝ようとして寝たわけではない。

 どう考えても何者か、あるいは何かしらがわざわいして眠らされたのだ。


 あの手の実験で気絶したとなれば一番に考えられるのが有毒なガスの発生だ。特に無色だったり、無臭だったりすると事故の確率は飛躍する。

 毒ガス事故で有名なものと言えば我が祖国では混ぜるな危険の文言で伝わる塩素。

 その混ぜるなを思いっきりやっているのだからそのような事故が発生してもおかしくはないが、塩素ガスのような刺激臭は無い。


 無臭となれば代表格は窒素、酸素、一酸化炭素だろうか。そんなもの発生するか?

 いや、マクテリアや例の液体がどのような物質であるかもわからないのに決めつけはよくないな。

「本当に大丈夫か?」

 遮るように彼女が口をはさむ。私の思考は手元のお茶へと返った。

 彼女が食後のお茶でも、と入れてくれたところなのだ。

「ああ、少し考え事をな」

 今度は気体が発生しているかどうかを確認してみるとするか。

 カップの側面に触れる。まだ熱いな。

「だったらよいのじゃが」

 彼女が相も変わらず辞書を読みながらお茶を飲んでいる。君もそろそろ飽きとやらを知ったらどうだ。もう何葉も落ちてるだろう。


 さて、彼女の事はどうでもいい。今大事なのは混合液の性質だ。これ以上先は考えてもどうしようもない。早く実験に戻りたいものだが。

 まあ、少しはゆっくりするか。良い実験には良い休憩が必要だ。

 私はカップを手に取ると目を閉じ口元へ持ってくる。蒸気とともに立ち込める匂いを少し嗅ぐと少し口へと入れる。

 まだ熱い。

 カップを置き手を放すとまた性懲りもなく考える。私も大概飽きを知らないようだな。


 そもそもこれ調べる必要あるのか?私の目的は彼らを助けることで……。

 い、いや先ほど私が踏み入った不可思議な現象を解き明かすためには必要なことだ。

 それにそうだ。もし意識が飛ぶような猛毒が発生しているのならばそれこそ彼らを助けるのに必要な情報になりかねない。

 やはり助けるためにも調べなければ。


 これでガスが発生していれば彼らの昏睡がそのガスによるものである可能性が高い。

 ガスが発生していたならどう調べるか。

 とりあえずマッチにでも通してみるか?だいたいの毒ガスは燃えるだろう。

 毒性を持たない物質はこの世にはないが、毒性の強い物質の類は大抵熱すると化けの皮が剥がれる。

 それもそうだ。酸素工場である生体の中に取り込んで悪さする輩が酸素と結合して悪さをしないわけがない。


 まあ、それでわかるかはともかく燃やしてみるのはありだろう。かの一酸化炭素、塩素ですら燃える。

 あ、いや、塩素は支燃性か?まあ、なんでもいいか。

 と仮説を立てるのはいいが、私の推測が確かならガスは発生していない。


 理由は単純だ。気圧の変化が起きているように見えないからだ。

 私は混合液を混ぜる際、気体へと物質が遷移しても質量が変化しないように容器をラップで覆った。緩くは覆ったが確実に空間は遮った。

 気圧は外界とは別の存在になるはずで、もし大きく変化があるならラップにも変化が起きるはずだ。だが、起きなかった。

 私の知識が間違っていなければガスは存在しない。


 もし先ほどの私がガスにでもなく眠らされたのならば一体誰に眠らされた。

 彼女はもちろんいなかった。誰も近くにはいなかった。

 何者でもない物でもない。

 そこに存在したのは私ただ一人と空間だけだった。

 空間……。


……世界が邪魔をしてきたのか?


 そんな、まさかそんなわけがない。世界が邪魔?冗談はよしてくれ。

 私は自分の馬鹿らしい発想を流し去るようにお茶を勢いよく飲み込む。口、喉、やがて胸を鈍い痛みが覆った。

 それでも足りず、今度は振り切るように勢いよく立ち上がる。

「ごちそうさま」

 それだけを告げると彼女との部屋を後にしようとする。

「ああ、うむ」

 ドアに手を掛けるとふと思い出す。それだけは彼女に伝えなければ。

「そうだ。

 例の話、今晩から明日にしてもらうことはできないだろうか?」

 彼女が私の話を聞きこちらを見る。

 たぶん何か考えていたのだろう。しばらく私の方を見たあと彼女が返事を述べる。

「うむ、大丈夫じゃよ」

「すまない、助かる。

 私は先ほどの部屋に戻る。何かあったら言ってくれ」

 まあ多分ないと思うが。

「うむ」



 私は部屋を出ると扉を閉じる。

 そして先ほどの部屋を目指し足を早める。

 何が世界が邪魔だ。いくらハイファンタジーでもやっていい事と悪いことくらいはある。


 実験を行っていた部屋に逃げるように戻ると実験を再開する。

 次の実験内容は簡単だ。混合液を用意したポリ袋に入れ空気を抜く。以上だ。

 徐々に気体が発生するのならばこれで肉眼でも確認できるほどの変化が現れるはずだ。

 ポリ袋はゴミ袋用に用意しておいた余りである市販しはんの物を使用する。



 結果は言うまでも無いだろう?

 気体は発生していなかった。

 一応可能性もあるだろうとして他の液体も確認したが、勝手に何かガスが発生しているなどということもなさそうだ。


 机の上に置かれたいくつかの袋を見ながら、私は一人絶望した。

 私は眠気など一切なかった。寝るわけがないのだ。

 だから何者かに眠らされたと考えるのが妥当だ。

 だが、何者も居なかった。そして何か物が影響したわけでもなかった。

 私は、何者でもない、物ですらない何者かに眠らされたのだ。


……よし実験はここまでだ。

 もうこれ以上マクテリアに関わるのはやめにしよう。これ以上はきっと、世界を司る何者かの怒りを買う。


 私は道具をしまったり、片付けに入った。

 言うまでも無いだろう?

 恐れたのだ。


 この世界の法則という得体のしれない怪物に。

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