5:第五話:月の座る窓枠
それは脱衣所の行く途中に起きた。
事象とのファーストコンタクトは無論浴槽から一歩を踏み出した時だ。
耳に水が入ったような難聴感やテレビの砂嵐のように荒れる視界、頭部にまとわりつくような圧迫感と体に濡れ綿でも詰められたような動かしにくさと浮遊感。
そして魂を力強く堕落へと引きずり込む倦怠感。そして私は上記の症状を引き起こす恐ろしき病魔の名を知っている。
そう、私は今……のぼせている。
その状態で何とか服を着る。
よく考えたらあの状況下でよくもまあ服が傷一つなく残っていたものだ。
素晴らしい悪運を持ち合わせているらしい。
それとも実はこの白衣、特殊なものなのだろうか。
そんなことを当時は考える間もなく、なんなら服を着た後の事すら覚えていない。
私は今先程の暖簾の
彼女が一つため息を吐いた。
「はぁ……まあ感想は大満足と行ったところかのう。
大丈夫か?」
だいぶ呆れているような口調でこちらを扇いでいる。
いや、きっと呆れていたのだろう。
服が変わっていないようにも感じるが、多分私の気のせいがスペアがあるか何かなのだろう。
それか私同様に着なおしたか。
まあ、そんなことはどうでもいい。
「はい、もう大丈夫です」
「とは言うがのう」
そう言うと彼女は少しの間を開けるように黙る。
……なんだこの間は。
「お主まったく動こうとせんではないか」
いや、まったくその通りなんだが少しばかり強がらせてくれ。
こっちは風呂でのぼせるとかいう小から大学生まで誰もがあまりやらかさないような失敗をしているんだ。
そっとしておいてくれ。
「
あとは使いの者に聞くがよい」
というと定期的に流れていた風が止み、少しするとまた同じように風が来る。
にしても体が重い。水を吸った週刊誌のようだ。
腕もろくに上がらない。切り落とされた腕でも縫い付けられているように鈍い感覚だ。心なしか痺れも感じる。
これは簡単に治りそうもないな。
腕を顔の上に乗せると目を閉じる。
どれほど時間がたったか知らないが、また風が一度止むと
「お水、どうぞ」
聞き覚えの無い甲高い、いや、か細い声がする。
「あーそこに置いといてください」
と普通に返事したが。
いや、誰だ。
その驚きにすごい勢いで上半身を起こすと、そこにはショートカット何だろうか、女性の身なりついてあまり詳しくないためその程度の事しか言えないが、金色の短い髪をした小さな、少女なんだろうか?が居た。
少なくともあの吸血鬼よりは年下だろう、たぶん。
それが、何から何まで同じ見た目の人物が二人居るのだから恐ろしい。
双子か?
「君は、誰だ?」
と聞くと二人とも首を傾げている。
言葉は通じないのだろうか?
いや、水の入ったコップようななにかがそこに置いてある。
話は通じているだろうに、何か事情でもあるのだろうか。
まあ、あとで彼女に伺うとしよう。
何者なのかはわからないがせっかく持ってきてくれたのだし飲むか。
起き上がりコップを手にすると、椅子に対して垂直に座りなおす。
手には常温に若干近づいているだろう冷水の感覚が
一口飲む。
水道水が不味いと言いたいわけではないが、水道水より心なしか飲みやすいさを感じる。
よくペットボトルに詰めて売られている天然水などそんな感覚だ。
まあ美味しく飲んでいるのはあくまで体に不足しているからだという可能性もあるが。
その水を何口かに分けて飲み干す。
何にせよ風呂上がりの火照った体に冷たい飲み物が流れるのはなんとも言い表し難い良さがあるな。
そんなこと日常生活で考えたことも無いが。
そもそものぼせるのが非日常的か。
水を飲み干し壁にもたれると一息吐く。
いやはや、体調こそすぐれないがいい気分だ。
私はここでこの者が何者なのかにやっと気付く。
……ああ、使いの者か。
きっとまだ回復していなかったのだろう。
気付くまでに相当時間がかかった。
一度そちらへ目をやる。
一方はこちらをひたすらに見つめ、突っ立っている。
他方はこちらをひたすらに扇いでいる。
彼女らこそが、彼女が置いて行った使いの者なのだろう。
いや、そもそも女性なのか?このくらいの歳はイマイチ見分けがつかないのだ。
まあいい。
もうそろそろ大丈夫だろうか。
少し立ち上がってみる。
完全復活とまではいかないが、両足でしっかりと立てている。立ち眩みもない。
まあまあと言ったところか。
「すまない、君たちの主人のところへ案内してくれるか?」
そう尋ねると使いの者のうち一方が一つ頷く。
もう一方は団扇のような物を持って先にどこかへ行った。
先程はあまり感じなかったが、こうして立ってみるとかなり小さいな。
性別すら不明だがいったい何者なのだろうか。
そして実年齢はいくつなのだろうか。
そのようなことを考えていると使いの者がこちらを眺めながら動かないことに気が付く。
どうかしたのだろうか?
「どうした?」
「コップ……」
と一言呟いてこちらの手元に指をさしてきた。
「ああ、すまない。
ありがとう」
礼を言ってコップを手渡すと微笑んで受け取ってくれた。
私には断じてその手の趣味は無いが、これが皆の言う可愛いというやつなのだろうことは分かる。
使いの者はコップを受け取ると「こっち」と言って歩き出した。
主人に似てどうも案内の仕方が荒いというか、なんというか。
しばらく歩くと一つの扉の前で使いの者が止まる。
そして何かを訴えるようにこちらを見てきた。
なんだ?そんなに見ても何も出てこないぞ?
何かわからず観察していると、両手にコップを持っていることに気づいた。
そうか、扉を開けるのに持ったままでは厳しいのか。
確かに少し大きめのコップではあったが、それだけじゃないな、ドアノブの高さ、それに扉の支点らしきものが見える。引きで開けるというのも相まって厳しいのだろう。いや、君たちは普段どうしてるんだ?
ドアノブに手を掛けると使いの者が一歩引き、ドアの前から退いた。
扉を開け、手で中に誘導すると一つお辞儀をして先に中に入っていく。
自分も中に入り、扉を閉める。
ドアを閉め終えると振り返り部屋を見渡した。
ソフィアとか言ったか。
彼女は口元に片手でグラスを当て、窓枠に座っていた。
窓の外から青白く照らされ、
窓に座っているという幼稚さを少し感じつつも、どこか令嬢のようななにか気品も感じた。
ほんの少しの間、目を取られていた。ホントに少しだ。
使いの者が視界の中に入り、私の元へと目が戻る。
「お、来たか」
そう言うと彼女はグラスを置き、使いの元へと足を下ろすとコップを受け取る。
私は彼女の元へ近寄りながら尋ねた。
「その子は一体何者なんだ?」
「うむ、一言で説明するのは難しい。
妾の魔法の一つなんじゃが……」
「……は?」
彼女はいったい何を言っているのだろうか。
「まあ見ておれ」
そう言うと使いの者の頭に手を当てる。
やがて手が光だし使いの者は消えた。
消えたというか吸い込まれたというか。
足の先から少しずつ粉のように手の方へ落ちていった。
あまりにも現実からかけ離れた光景に茫然と立ち尽くす。
「これは人の形をした魔法なんじゃよ。
使い魔とでも呼んだ方がわかりやすいかのう」
どのように説明されようとも理解が困難だが、とりあえずこの世界とやらに私の考察は通用しない事だけは分かった。
私が立ち尽くしていると彼女が先程のコップを掲げるように見せる。
「どうじゃ、一杯付き合え」
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