ブルックリン・コーヒー・エイチ

朱々(shushu)

ブルックリン・コーヒー・エイチ

 人を助けると、巡り巡って自分も助けてもらえる。人生は、そういうものなんだよ。

 いつの日か、あの人が教えてくれた。






 アメリカ・ブルックリンの網目の街の一箇所に、年季の入ったビルがひとつ。五階建ての二階にある『ブルックリン・コーヒー・エイチ』は、ふたりの従業員によって経営されている。共同経営である秀平しゅうへい由良ゆうらは、幼いときにスクールで出会い、それ以来の付き合いだ。年齢は秀平がひとつ上、身長は由良のほうが上である。


 流れるBGMは秀平が選んだジャズ中心。由良が淹れるコーヒーは、常連客にはもちろん、偶然やってきた客にも評判が良い。コーヒーの種類はその日の仕入れによってまちまちで、だいたい三〜四種類くらいだろうか。サイズはトールサイズのみ。店内に置いてある雑誌は秀平が適当に本屋で見繕ったもので、客なら自由に読んでいいものとしている。


 開店は十一時、閉店は十九時。ラストオーダーは十八時半だ。

 開店前、簡単な掃除をしながら、由良が最近思っていることを呟く。

「なぁ秀平、やっぱりスイーツやらない? クッキーとかスコーンとか。そのほうが客単価も上がるだろう?」

「それ、誰が作るんだよ。うちは由良のコーヒーで充分だ」

「うーん。まぁそうなんだよなぁ」

 話は堂々巡りである。


 すると、看板がcloseにも関わらず扉からノック音がした。鍵をかけていなかったので、彼女は何の気無しに中へ入ってくる。

「おはよ〜。今日もコーヒーふたつくれる?」

 ピースマークをしながら入ってきたのは、ビル四階のジュエリーショップで働いているキーラだ。お店は十二時オープンで、いつもエイチのコーヒーを買ってゆく。

「まだ営業前なんスけどー」

「おはようキーラ。今淹れるね」

 由良の営業スマイルは、客にも評判が良い。

「さすがユーラ。あ・り・が・と」

 秀平と由良は、ずっとアメリカにいるため英語が堪能だ。ふたりだけでいるときは、日本語と英語の半々もある。

 コーヒーを淹れる準備を始めた由良に代わり、秀平が念入りに掃除をしていく。秀平はぶっきらぼうに見えながらも、綺麗好きである。

 時刻は十時五十分。最後の仕上げにテーブルクロスを引いていき、椅子の向きを整える。


 お店は秀平の好みで天井と壁共にコンクリート打ちっぱなし。カウンターのテープルはシルバー、足が長い椅子もシルバーで揃えている。

 テーブル席はふたつ。茶色い革張りの一人用ソファで、渋いグリーンのクッションが置いてある。壁には秀平から許された由良好みの絵が数枚飾られている。

 ブルックリンは絵を描く者や写真を撮る者などモノづくりをする人間が多く、比例してギャラリーも多い。レジ横のコルクボードには、展示の案内が常に貼られている。


 開店五分前、秀平は看板をopenにした。

 制服は、二人とも黒いエプロンをしている。あとは各自動きやすい服装だ。


 開店直後は、滅多に人が来ない。静かに流れるBGMが店内を包む。だいたい人が増えるのは十二時前後のお昼時、十五時前後のおやつ時、十七時前後の会社終わりだ。

「キーラ、コーヒーふたつお待たせしました」

「ありがとう。エイチのコーヒーを飲まないと仕事が捗らないわ。じゃあまたね」

 キーラはカバンを肩掛けにし、カップをふたつ両手で持っていく。今日のスタートは、スタッフが二人からのようだ。

「由良、俺ちょっとメールチェックするわ」

「オーケー」

 秀平はノートパソコンを開け、メールチェックをする。どうでもいい広告メールに埋まる大事なメールを見逃さないように目を凝らす。

「あ」「秀平、コーヒー飲む?」

 話すタイミングが被ってしまい、声が重なる。

「由良、先生からメールが来てる。またひとり来るかもしれない。あと、俺にもコーヒーよろしく」

「オーケー」

 由良は今度は秀平のぶんのコーヒーを淹れる。誰もお客がいない店内に、BGMのジャズに混ざるコーヒーの香りは経営者の特権だ。

「先生の件はいつからなの?」

 コーヒーを淹れながら、由良が秀平に尋ねる。

「来月頭らしい。割とすぐだな。原ミアンナ、十四歳。ハーフか? ウェイトレスの経験はなし。まぁうちはインターンだからな、問題ないだろ」

「ハーフなら、ご両親の問題かな?」

「さーあね。そこまでは書いてない。この件、了解しちゃっていいか?」

「もちろん。賑やかになるのは問題ないよ」


 十二時近くになると、予想通りお客が増える。比較的にテイクアウトが多い。皆、社内で飲むのだろう。

「コーヒーひとつ。テイクアウトで」

「かしこまりました。少々おまちください」

 由良は注文カウンターでコーヒーを、秀平はテーブル席と片付けを主に担当している。忙しくなるとつい慌てがちだが、育ってきた環境上か、ふたりともあまり慌てないのが特技でもある。

「ユーラのコーヒー、いつもおいしいわ。ありがとう」

「シュウもまたねぇ〜」

 そう言ってウインクをする者も多く、ビルの二階という不便さながら、なかなか店は繁盛している。


 十四時。店がひと段落した頃、秀平が隣のビル一階にあるパン屋でサンドイッチを買い、由良と共に食べる。今日のメニューはエビとブロッコリーだった。

「(なんだか最近、お客さんが増えた気がしない?)」

 テーブル席にいる客に聞こえないよう、日本語だが、由良は声を潜めて話す。

「(俺もそう思ってた。ま、マンハッタンからこっちに来る客が増えてるんだろ)」

 近年ブルックリンへの注目度も高く、マンハッタンから気軽に来れるため、観光客も地元客も多くなっている。

「(売上が取れるのはいいってことだ。波には乗ろうぜ)」

 由良は無言で頷き、引き続きコーヒーを淹れる。


 秀平は再びメールチェックをすると、今朝のメールの続きが先生から入っていた。原ミアンナの預かりは、両親の問題らしい。デリケートなことだと釘を刺された。

 だとしてもだ、男ふたりのコーヒー屋に頼む先生もどうなんだよ、と心のなかでツッコむ。




 先生とは、ふたりが通っていたスクールの先生だ。

 スクールに通う生徒は様々おり、アメリカで暮らす外国人、地元の学校が合わなかった現地人、移住して通う子など、とにかくいろいろだ。

 先生は秀平と由良のコーヒーショップにワケありの子を泊まりでインターンとして預け、その間に諸々の問題を解決している。その諸々は明確に聞いたことがないのでわからないが、解決するのが先生の役目だ。

 エイチを出資しているのも先生で、ふたりは先生に頭が上がらない。そこで今回メール依頼が来たのが、「原ミアンナ、十四歳」だ。


 その日の閉店後、秀平と由良は後片付けと掃除をし、店の施錠をした。

「よし。ここもオーケー」

「秀平はほんと意外とまめだよね、指差し確認までして」

「だってよ、何が起こるかわかんねぇだ、」

 言葉の途中、秀平は人の気配がして後ろを振り向いた。由良はそんな秀平に驚き、同じように後ろを向く。

 そこにいたのは、胸元まである金髪と青い瞳、色白で、学生服を着ていた少女だった。口は真一文字に結び、じっとこちらを見ている。

「…コーヒーショップならもう閉店だ。それとも、俺たちに用か?」

「秀平、若い女の子に脅すようなこと言うなよ」

「人が気ぃ抜いてるときに真後ろ立ってた奴だぞ。怪しいだろ」

 少女はじっとした目つきで秀平と由良を上から下まで舐めるように見ては、何も言葉を発さない。

「君、どこから来たの? どうしてここへ?」

 由良は優しく話そうと努める。

「おまえは誰だ。なんのようだ」

 秀平は依然として変わらない。

 少女は眉間に皺を寄せつつ、やっとその口を開く。


「…原、ミアンナ。先生に、ここを教えてもらったの」


 名前を聞き、ふたりは顔を見合わせて驚いた。少女が来るのはまだ先のはずだし、今までこんな形でフライングしてくる人間もいなかった。

「そんなことはねぇはずだ。いつも先生と来るからおまえらはひとりじゃ来ない。まして住所だって、来るまで教えない決まりだ」

「………先生が電話で、「エイチ」って。「コーヒーの手伝いなら大丈夫だろう」って言ってた」

「それだけで調べて来たのか?」

「盗み聞きってやつか。それは教えてもらったうちに入らないよミアンナ。探偵に向いてるかもね」

 由良は笑いながらため息をこぼし、ミアンナの行動力に賞賛すら混ぜた。

「原ミアンナの件はたしかに聞いてる。だがまだ今日じゃない。ミアンナ、帰れるな?」

「………帰りたくない」

「そう言われてもなぁ」

 由良は両腕を組み、首を傾げる。この世代の「帰りたくない」は、強固なものだ。

「先生に電話だな。緊急事態だから出てくれるだろ」


 その後、秀平は先生に電話をした。

 原ミアンナの特徴は目の前の少女とぴたりと合い、間違いなく彼女だった。彼女も直接先生と話し、怒られていた。先生は、電話を盗み聞きされていたことをまったく知らなかった。

 帰りたくない、と言っていることについて話したら、泊めてやってくれと言われたのだ。

「はぁ? 時間外業務だろ」

「シュウ、そう言うな。ミアンナもいろいろ大変なんだ。それにしても、シュウと由良のところにいてくれて助かったよ。変な場所に行ったんじゃ、収集がつかないからね」

 たしかにである。いくら治安が悪いほうではないといえど銃社会。十四歳の少女が歩き回っていい時間ではない。

「シュウ、この件はきちんと精算するよ。明日僕も店に行こう」

「はいはい。よろしく頼みましたよ」

 電話が切れたあと、ミアンナはあからさまにほっとしていた。

 closeの看板を下げながら、店で先生との電話は終わった。先生は明日来るというので、ひとまず一泊泊まらせれば彼女も引き下がるだろう。

「んじゃ、行くぞ」

 秀平はミアンナに合図をし、ビルの五階へ向かう。

 ビルの五階は住居地になっていて、五〇一号室から五〇六号室まである。秀平と由良は五〇二号室にふたりで住んでいる。

「ミアンナの寝る場所はここ。リビングだけど、ソファーベッドでカーテンも付いてるから、プライバシーに問題はないはずだよ。バスルームとトイレは玄関を通り越した向こう側。俺たちは個室があるから、何かあればノックして」

 由良の説明に、ミアンナは無言で頷く。

「部屋着はこれまで来たみんなと同じものなんだ。洗濯はしてあるから安心して。歯ブラシも、いつも新しいストックがあるから」

 再びミアンナは無言で頷く。

「…ねぇミアンナ。夕食はなにがいい?」

「………」

 ミアンナは口を動かすようで、声が出ない様子だった。由良に遠慮をしているのか、食べたいものがないのかわからないくらいに。

「由良。今日俺ミートソーススパゲッティの気分なんだけどどう?」

 そこに、自室にいた秀平が会話に混ざってくる。

 コーヒーを淹れる担当は由良だが、夕食の担当は秀平なのだ。

「今ちょうどミアンナに聞いてたんだ。何かリクエストがあるなら作ってあげたいし」

「んー。…まぁ、そうか。んで? なんか食いたいものある?」

「………カルボナーラスパゲッティ」

「はっ。スパゲッティ違いだな。了解しましたよーっと。由良、俺スーパー行ってくる」

「いってらっしゃーい」

 ミアンナはふたりのやりとりを眺めながら、静かに微笑んだ。そんな小さな笑みを、由良は見逃さなかった。

 秀平がスーパーに行っているあいだ、ミアンナは姿勢を正してテレビを観ていた。もっとも、何をして過ごしていいのかがわからないという状況が優先だが。




 秀平がスーパーから戻り、手際よくカルボナーラスパゲッティを作っていく。付け合わせはルッコラのサラダだ。飲み物は秀平と由良はビール、ミアンナはオレンジジュースにした。

 テレビではニュース番組を付けているが、たいして観ていない。秀平と由良は翌日の仕入れについて話していた。

「明日はさらに晴れそうだから、アイスコーヒーがよく出ると思うんだよ」

「俺もそう思う。長居する人はホットも多いけど、暑い外から来たらやっぱりアイスだよね」

「じゃあ朝取りに行く豆は、こないだのアイス専用多めだな」

 ふたりは夕食時でも仕事の話をする。

 といっても、いつも一緒にいるため近況を話し合うなんてことはなく、余程のことがない限りいつも同じ内容だ。

「ミアンナ、リクエストのカルボナーラはどうだ?」

 突然、秀平がミアンナに尋ねる。ミアンナは驚いたが、口をもぐもぐさせ、咀嚼してから答えた。

「…おいしいです。ありがとうございます」

「言っとくけど、明日はおまえも店に立つんだからな。ま、いらっしゃいませを笑顔で言ってくれりゃあそれでいいんだけど、さ………」

 言い終わり、秀平はミアンナをじっと見つめる。

「…ミアンナ、笑顔って言葉、知ってるか?」

 秀平はミアンナと出会ってから、笑顔を一度も見たことがなかった。




 翌日の開店前、いつもの通り掃除や開店準備をし、ミアンナにも黒いエプロンを渡した。

「いいかミアンナ。笑うんだ、口角をあげるんだ、目の奥を笑うんだ。意味わかるか?」

「秀平、そこまで言わなくてもミアンナは出来ると思うよ」

「いやだってよ〜、接客もうちの売りだぜ?」

 ミアンナは変わらず無愛想、というより今日は緊張した面持ちでモップを掃いていた。当然初めてのアルバイト、表向きはインターンである。お客を相手にコーヒーを出した経験は一度もない。

「うーん、…ま、ミアンナ! 見よう見まねでやってみろ。どうせインターンで来るつもりだったんだ。何事も勉強だ」

 ミアンナは無言で頷く。やる気は伝わってくる様子だ。


 それからいつも通り店を開店し、忙しさのピークもいつも通り。

「あ、あ、ありがとうございます!」

「あら、今日は女の子がいるのねぇ。がんばってねぇ〜」

 店にたまにインターンが来るという事情をなんとなく知っている常連は、今日のミアンナを励ます。ミアンナはお客に感謝されるたび、優しそうに笑った。その様子を、今度は秀平も見逃さなかった。

「大丈夫そうだな」

 秀平は安心し、ため息をついた。




 その日の夕方、先生が店にやってきた。

 ちょうど店は混んでもいなく、良い時間帯でもある。

「ミアンナ! 心配したぞ! シュウと由良のところにいて本当によかったよ!」

 先生はミアンナを抱きしめ、頭をぐりぐりとさせる。ミアンナは突然いなくなったのだ。そう心配されてもおかしくはない。

「………ごめんなさい」

 ミアンナにも謝罪の意思はあったらしく、おとなしく謝る。

「先生、こちらコーヒーどうぞ」

 由良はさりげなく、先生にコーヒーを出す。

「ありがとう由良。いやぁシュウももちろん、昨日は一晩ありがとう」

 先生は日本人で、日本語と英語とフランス語が話せるトリリンガルだ。秀平と由良と話すときは、場面を考えて日本語や英語で話をしている。

「だいたいミアンナは来月だったはずだろ。問題は解決したのかよ」

 秀平はカウンターで先生の隣に座り、事情を聞き出そうとする。

 そこから先生は、日本語で話し出した。

「(問題解決はまだなんだ。ミアンナは名前の通りハーフの子でね、日本人の父とアメリカ人の母を持つ。ただ、日本語は全くわからない。今回離婚するにあたって、ミアンナをどうするかで揉めてるんだ)」

「(そんなんどっちかが引き取りゃいーだろ。勝手な親だな)」

 秀平は顎に手をつきながら、ため息をつく。

「(それか、ミアンナが着いていきたいほうに行くのも選択肢だよね)」

 由良は洗い物をしながら、自分の意見を述べる。

 先生は、奥のテーブルを拭いているミアンナの姿を見る。

「(彼女はあの通り、自分の意思を上手く言えないタイプなんだ。聞き出してはいるんだけど、無言が多いというか黙秘というか。どうしたいのかがいまいちわからないんだよ)」

「(それこそ先生の役目だろーよ。俺たちはインターンまでだ)」

 秀平は由良が淹れてくれたコーヒーを飲み、ミアンナを一瞥する。

 初めて会ったとき、たった数ワードでここまで辿り着いている。そこまで勘の悪い子どもじゃないはずだ。昨夜もおとなしくしていたし、昔の俺のように大暴れするタイプでもない。もしかしたら、本人が一番わかってないんじゃ…?

 秀平はミアンナについて考えるも、頭がパンクしそうになるのでやめた。

 そのぶん、由良が話を始める。

「(子どもといってもいろんなことがわかる年齢だから、自分でも決められないんじゃないかな? お父さんに着いていくなら日本で環境がガラリと変わるし、お母さんとでもそうなるだろうしね)」

「…やっぱりもう一度弁護士と、ご両親と話してくるよ!」

 先生の言葉は、いつしか英語に戻っていた。

「シュウ、由良。ミアンナをもう少し頼むよ」

「ういー」「了解しました」

「ミアンナ」

 先生はフロアにいたミアンナを呼び、話をする。

「ごめんね。まだミアンナの問題を解決出来そうにないんだ。でも大丈夫。ここにいるシュウと由良と一緒にいれば、すぐに解決するよ。また必ず来るから、待っててくれるかい?」

「…うん。わかった、先生を信じる。私、待ってるね」

「はっ。インターン続行だな」




 その日の夜も、ミアンナは昨夜と同じ場所で眠った。環境に慣れたのか、夕食時の秀平と由良の会話にもあいづちを打つようになり、お店の汚かった部分まで掃除したことを話した。

「めったに掃除出来ない場所なんだよな。サンキュー、ミアンナ」

 そう言われたミアンナは嬉しそうに笑い、由良の淹れた食後のコーヒーを飲んだ。その日は夕食をヘルシーにし、デザートで先生が買ってきてくれたアップルパイを食べた。

「…ここのアップルパイ、大好きなんです。先生、覚えててくれてたんですかね」

「あの人記憶力めちゃくちゃいいからな。きっと走り回って買ってきたんだぜ」

「俺もここの好きだよ。やっぱり甘いものにスイーツは合うよなぁ」

 由良はじとーっとした目で秀平を見るが、気づかないフリをする。

 三人の空気は柔らかく、まるで兄妹のようだった。


 秀平と由良はいつもこうしてスクールの子をインターンとして泊まらせている。

 もちろん泊まらないで解決できることもあるのだが、スクールは一日中開いてるわけじゃない。そこで先生が目をつけたのが、秀平と由良のコーヒーショップ・エイチだった。インターン生が来ているあいだは、先生からのわずかながらの給金も出る。生徒が社会に馴染む意味も込めて、一石二鳥になっているのだ。




 翌日、ミアンナはよく働いた。

 秀平にも由良にも環境にも慣れ、先生の言葉も信じている。テーブル席のお客様にコーヒーを出したとき言われる感謝の言葉にも、嬉しさを感じていた。

「おはよ〜。今日はコーヒーおひとつお願いできるかしら?」

 十三時近く、キーラが店にやってきた。

「あら! 今回もずいぶんかわい子ちゃんねぇ」

 キーラはミアンナの姿に気づき、ウインクをする。

「ミアンナ。彼女はキーラ、このビルの四階で働いてるよ。スクールの先輩だ」

 キーラもスクール出身で、いわば秀平と由良とミアンナの先輩でもある。キーラの職場も実際は複数人で経営しており、生活は順調のようだ。

「はじめまして、原ミアンナです。よろしくお願いします」

「丁寧にありがとう。もーしなんかあったらいつでも四階に来てね。もちろんそんな時は、シュウとユーラをぶっ飛ばすから」

 まるで語尾にハートマークが付いた物言いでキーラは言い、シャドーボクシングまでする。

「こえーっつーの」

「これでもちゃんとおもてなししてるよ。はいキーラ、お待たせ」

 キーラはテイクアウト用カップを受け取る。

「まぁまぁぶっ飛ばすは冗談として。ミアンナ、何かあったらいつでも相談してね。んじゃ、コーヒーありがとう! またねぇ〜」

「相変わらず慌ただしいなぁ、あいつは」

「ふふふ」

 ミアンナは、そんなキーラの様子に笑っていた。

「キーラがそんなにおもしれぇか?」

「…大人って、楽しそうな大人もいるんですね」

 それはまるで、ミアンナの周囲には楽しい大人がいないような発言だった。両親の仲がよほど悪いのか、頼れる大人がいないのか。そんな想像まで膨らんだ。




 その日の夕方、先生が慌てて店にやって来た。

「ミアンナ!」

 秀平と由良に挨拶することなく、ミアンナに直行する。お客さんはカウンターにまばらで、テーブル席にはいなかった。

「…大声出してごめんよ。テーブル席をいいかい? そして由良、僕とミアンナにコーヒーくれるかい?」

「もちろんです」

 モップがけをしていたミアンナはモップをしまい、由良はコーヒーを淹れ始める。秀平はカウンターで読書をしながら、先生とミアンナをチラリと見た。

 一番奥のテーブル席で、先生とミアンナが話をしている。おそらく両親のことで決着がついたのか、あとはミアンナの意思だけなのか、そのあたりが妥当だろう。




 ミアンナの父は複数の不倫をし、激怒したミアンナの母が家中の食器を割りまくったという。そんな様子にミアンナの父は拳でミアンナの母を止めようとしたが、なんとミアンナ本人に当たってしまい、頭に怪我をしてしまった。そこでスクールを頼ったのである。スクールには同じような境遇の者がいると、前々から噂で知っていたのだ。

 ミアンナの父はミアンナと離れたくないがために離婚を拒否しているが、ミアンナの母は断固として折れなかった。

 自分に対する慰謝料、生活費、ミアンナに対する医療費、教育費を申し出た。それに対してミアンナの父も暴力性を発揮し、ミアンナの母に暴力を振るった。

 ミアンナの母は当然ミアンナが自分に着いてくるものだと思っていたが、精神衛生上不安定な母に今すぐには渡せないとスクールは告げ、ミアンナをしばらく預かる形になったのだという。


「ミアンナ。正直、今の君はひとりで生活ができない。両親のどちらかを頼るか、施設に入る選択になる。ただ、僕としての意見だが、両親がいるならどちらかへついていくのも選択肢のひとつだと思うんだ。施設だと、ゆくゆく将来が大変になる可能性もあるからね」


 ミアンナは先生の話を黙って聞き、時折コーヒーをすすった。無表情のミアンナが、さらに無表情になってゆく。先生はため息をつきたい衝動に駆られたが、それはしない。それが、目の前にいる生徒と真摯に向き合う自分のプライドだと自負している。


 由良が何人かのお客さんを見送っても、ミアンナは何も言わない。

 こうして先生が来てから、三十分以上経とうとしていた。

「…出来れば早急に決めてほしいのが正直なんだが、急いで決めてもったいない選択肢をしてもしょうがないという本音もある。…今夜もまた、秀平と由良といるかい?」

「………はい。そうしたいです」

 やっと口を開けたミアンナの願望は、ふたりと一緒にいることだった。

「りょうかーい」

「俺も、問題なし」

 カウンターで読書をしていた秀平は顔をあげ、ミアンナと先生を交互に見る。秀平にとってミアンナの事情はよくわからないが、頼りにされていることはわかった。




 その日の夜、由良は早々に個室に入り、秀平はリビングでコーヒーを飲みながら本を読んでいた。ミアンナはそんな秀平の後ろ姿を、穴が開くんじゃないかというくらい見つめる。

「…背中から刺すつもりか? 俺強いから、たぶんミアンナじゃ負けるぞ」

 秀平はミアンナに振り向き、笑いながら話す。

「…そっち、…隣に行ってもいい?」

「どうぞ?」

 ミアンナは初めて秀平に自発的に動き、ソファの隣に座った。

「…秀平は、ユーラと暮らしてどのくらい経つの?」

「んーーー…忘れたよ。六〜七年くらい?」

「お父さんやお母さんは?」

「さぁな。今ごろなにしてんだろーねぇ」

「さみしくないの?」

「さみしくねぇよ、毎日楽しいぜ。店あるし、由良いるし、キーラは来るし、先生も連絡くれるしな」

「…さみしいって、大人になったら思わなくなる?」

「………」

 リビング中に、かけっぱなしのラジオが響く。秀平は家で読書をするとき、聞いてはいないがラジオを流すことが多い。

「…人によるよ。俺と由良が違うように、ミアンナとキーラが違うように。人それぞれだ」

「…そっか」

 秀平とミアンナのあいだに無言が流れる。

 秀平は本に目を戻すも、ミアンナの様子が気になってしょうがない。ミアンナは、本音を語るのか。

「…ねぇ秀平」

「どうした?」

「私のパパとママがね、離婚するんだって。パパと一緒だと日本へ、ママと一緒だとアメリカのまま。どっちの選択がいいのか、私にはわからない」

「………」

「先生は悩んでいいって言ってくれた。でも、親がいるなら親といるほうがいいとも言ってた。私は、パパもママも、…好き。決められない。けど、」

「けど?」

「…国が変わって、生活するのはこわい。私は日本語が話せない。こんな自分勝手な理由で、パパをひとりにしてもいいのかな?」

「いいと思うぜ」

 秀平は悩むことなくバッサリ言った。ミアンナは驚く。

「自分の人生だ。自分が住みやすい環境にいるほうがストレスは減る。わざわざ自分に負担かけてまで大変な思いなんてしなくていいと思うぜ」

 そう言う秀平に、ミアンナは目の前がパチパチ光ったように思えた。

「よく言うだろ。白熊はハワイで過ごせないってな」

 ミアンナにとっては、周囲を考えずに自分の思い通りに生きることなんて、考えてもいなかったのだ。

「パパ、さみしがらないかな?」

「さみしいって言われたら会いに行きゃいーんだよ。飛行機があるだろ」

「…ふふふ。そうね、秀平の言う通りだわ」




 翌日、ミアンナが先生に会いたいと言ったので、コーヒーショップに呼び出した。

 ミアンナは答えを出したのだ。自分は、母に着いていくことを。

「本当にいいのかい?」

「はい。私はこの国が好きだし、不安定なママを、私なりに支えたい」

 先生は渋い顔をする。

「子どもが大人を支えるのは、大変だよ?」

「大丈夫です。これは、私が決めたことだから」

 ミアンナは当初店に現れたときよりも、しっかりしたように思う。はっきりした物言いに先生も、カウンターから聞いていた秀平と由良も、同じように感じていた。

「じゃあ、ミアンナの希望を、僕は両親と弁護士に伝えるよ。いいね?」

「はい。よろしくお願いします」

 先生は店を出て、ミアンナの両親と弁護士に会いに行った。

 ミアンナは先生を見届け、自然と黒いエプロンを付ける。

 ここにいられるのもあと少しだ。貢献できることをしよう。そんな思いからテーブル席を拭いたり、モップをかけたりと、インターンとして仕事を務めた。そんなミアンナに秀平も由良も何も言わず、ただ見守っていた。




 数日後、ミアンナの母とミアンナは、マンハッタンへ行くことになった。

 秀平と由良と先生はブルックリンからマンハッタンへ行ける船着場で見送りをする。ミアンナの父は、ミアンナの母にもミアンナにも暴力を振るったため、最後まで会う許可がおりなかった。

「ミアンナがお世話になりました。本当にありがとうございます」

 ミアンナの母は先生、秀平、由良に頭を下げ、感謝の気持ちを述べた。瞳に涙を浮かべていたのは、決して嘘ではないだろう。

「ミアンナ、たくさん食事をとって、新しい学校では元気で、健やかに過ごせますように」

 先生はミアンナの目線に合わせて伝える。

「短いあいだだったけどありがとう。ミアンナ、元気でね。これ、試作なんだけど、もしよかったら食べて」

 由良は試作品のチョコレートクッキーとホワイトチョコレートクッキーを渡した。


「………」


 秀平はポケットに手を入れ仁王立ちをしたまま、何も言わない。何か言葉があると思っていたミアンナは、不思議そうに秀平を見つめる。

「…秀平?」

「ミアンナ、無理して元気でいなくていーんだからな」

「え?」

 ミアンナは驚くと同時に、ミアンナの母も、先生も由良も驚く。

「ミアンナも俺も、ていうかそもそもあのスクールにいるやつは、何かしらいろいろある。お前だけじゃない。由良なんてな、赤ん坊の時スクールの前に捨てられてたんだからな」

「…いま俺の話はいいだろ」

 秀平はそのまま話を続ける。

「でもな、お前だけじゃないからって、それを理由に悲しまない理由にはならない。悲しいときは悲しんで、苦しいときは苦しんで、泣きたいときは泣くんだ。自分よりツライ人がいるかもしれないって思っても、そんなの関係ねぇんだよ。自分より楽しんで生きてる奴らだっているんだからな。ちゃんと、SOSは出すんだぞ」

「………!」

「ミアンナ。俺たちはおまえの父親の味方でもないし、当然母親の味方でもない」

「…うん……」

「だがな、おまえの味方ではある。絶対的にだ。なんかあったら橋渡ってでも電車乗ってでも、マンハッタンからブルックリンまで来い。話し相手ならいつでもなるよ」

「…うん! シュウ、ユーラ、先生、本当にありがとう!」

 このときミアンナは、出会って初めての大きな声を出し、口を目一杯開けて笑った。そんな彼女に、秀平と由良も先生も笑顔になる。

 ブルックリンの船着場でミアンナと母は船に乗り、マンハッタンに向かった。秀平と由良と先生は彼女たちに手を振って見送る。


 今回も、ミッションはクリアした。


「さーて、店は上々。緊急休暇にしたわけだし、このままパークでピクニックでもするか」

「うん、いいね。いつものパン屋さんでサンドイッチと、研究も含めてコーヒー買おうかな」

「そーしよーぜ」

「僕は帰るよ。また何かあったら連絡するね」

「へーい」「わかりました」


 船着場の風は強い。

 ふたりはミアンナとミアンナの母が乗った船を無事に見送ったあと、公園へと向かった。

 ブルックリンの青空は今日も高く、そして平和だ。

「今日のサンドイッチはなにかねぇ」

 風に吹かれ、秀平はパン屋を思う。

 今日だけは休みを謳歌し、明日からまた秀平と由良は再びコーヒー屋を開ける。




【ブルックリン・コーヒー・エイチ】。

 名付け親は先生だ。なんでもエイチは、HELPの頭文字だという。スクールの子を助けられるような、そんな場所を目指して。

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ブルックリン・コーヒー・エイチ 朱々(shushu) @shushu002u

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