7
また雨が降り出した。
リンフィアが頭巾を深く被る。
山道を外れ、麓の渓流の脇に広がる河原を進んだ。
屋根のように張り出した枝が、雨水を乗せて重たくしなり、タガネ
休憩を済ませてからリクルが頻りに入れる注進を無視し、鉱山を避けて国境から少しずつ離れるように進行することになった。
あれから刺客との会敵も無い。
これでは、戦闘の勘を取り戻す仕事にならない。
そんな屈託も抱えつつタガネは進む。
その背後で。
「あっ」
「危ない」
リンフィアが石につまずいた。
隣に付き添うリクルが転ばないように抱き留める。礼を言ったリンフィアと彼は、互いの体温に頬を染めてはにかむ。
この進路を取ってから、これが何度もあった。
そして、その都度甘い空気を展開する。――この険難な事態に。
タガネとしては真面目に護衛に務める身としては、もう少し敵の影に気を配って欲しかった。
護衛としての腕を見込まれたのは喜ばしくも、それに胡座を掻いて安穏と過ごして流れ矢のごとき万が一の危殆に命を落とされても
最後尾を歩く眼鏡の男も、そんな様子だった。
タガネが彼に振り返る。
「そういえば」
「何だ」
「あんたの名前は?」
眼鏡の男が呆れるように顔を顰める。
まるで小馬鹿にしているようでタガネは苛立ちながら返答を待つ。
「シュバルツだ」
「そうかい。後ろは頼むぞ」
「無論だ」
眼鏡の男シュバルツが応える。
唯一この緊張感を共有しているとあって、シュバルツへの認識を改めた。包囲にも気づけないほど素人ではあるが、存外間抜けではない。
河原の中を
「あれ?」
ふとリンフィアが足を止めた。
訝って三人が彼女を見る。
「どうした」
「何か、聞こえません?」
「……何を」
「これは、遠吠え?」
リンフィアが頭巾を取った。
そのまま、頭の上の耳に手を添えて耳を澄ます。川の音で、ほとんどの音が掻き消されている。
こちらの足音が消せるからと選んだが、同時にあちらの音も聞き取り
しかし、深く流れの急な川に遮られて対岸から攻められないし、
だから、来るとすれば山の上からか。
はたまた、前後からしか無い。
その方向ならば、如何なる角度でも対応できる。
ところが、刺客を予想していたタガネは、遠吠えと聞いて憮然とする。
「野犬か」
「いえ、何というか」
リンフィアが対岸を見た。
タガネも従って、そちらを確かめる。
梢の隙間から窺えるのは、対岸に聳える切り立った崖だった。先端には、
不意に。
『――――――!』
耳をつんざく高い音がした。
タガネは剣の柄に手をかけて身構える。
リンフィアが目を見開いた。
「違う、野犬じゃありません」
「ああ、判る」
そのとき、崖上の木が揺れた。
地面が、揺れている。
音の正体に気を配ること暫し、崖の上から巨大な影が躍り出た。
影は躊躇わずに河へと飛び降りる。
影の足が河床を叩いて着地した衝撃が、地面のみならず空気にまで伝播した。
その音が麓で雷鳴のごとく轟く。
飛び散った水が、雨のように辺りへと降り注いで河原の石を打った。
タガネは三人を背に庇って立ちながら魔剣を引き抜いて、河へと近づいた。
「帝国、の刺客か」
河に降り立った巨大な影が身を起こす。
背丈は、タガネより二回り以上もあった。
上げられた面は、鋭い牙と前面に尖った鼻面の形状が特徴的で、顔から体まで体毛で覆われている。
これは――。
「亜人種の刺客か」
『ガァァァアアアッ!!』
刺客の巨体が震える。
片手には丸太も同然の太さをした凶悪な棍棒を携えている。腰に布を巻き付けただけの一張羅で身を守る鎧などの武装は見えない。
ただ、立つだけで見る者の神経を緊張させる偉容。
その様は全身が武器もかくやという迫力だった。
熊の亜人が河原を目指して歩いてくる。
タガネは目を凝らして観察した。相手の目に、光がなく焦点が合っていない。
背後ではリンフィアが息を呑んでいる。
思わず舌打ちをした。
「亜人種の奴隷だ」
「えっ」
「帝国が薬で催眠をかけたんだろう」
タガネは剣をひと振りして自らも前に出る。
亜人種に対し、正気を失った亜人種の刺客。対話も不可能な脅威ならば問答無用で殺さねばならない。
使嗾した者の悪辣さが窺い知れる。
「リンフィア」
「は、はい」
「あんたの同胞とはいえ敵だ。悪いが――」
熊の亜人が陸地に着いて足を止める。タガネも立ち止まった。
互いに、およそ数歩分の距離で睨み合う。
熊の亜人は棍棒を後ろに引き絞る。狙いをタガネ一点に定めている。
対して、タガネもまた剣を腰元で水平にして構えた。
躊躇いは無い。
元より、タガネは亜人種だろうが同族だろうが。
「斬り伏せていく」
タガネは殺意を手に地面を蹴って飛び出した。
熊の亜人が前に踏み込む。
それだけで河原に衝撃の波紋が奔った。
相手の間合いに飛び込むタガネの足下が揺らぎ、体勢が崩れる。
咄嗟に前へ転がって、跳ね起きる要領でより深く懐へと潜り込んだ。
『ガァアッ!!』
気合の雄叫びと共に棍棒が低く横へと振り抜かれた。
受ければ即死の威力、防御は愚策だ。
棍棒がタガネの体に直撃する。
その刹那。
「よ――――っと!」
タガネは、棍棒へと上体を反らしながら跳ぶ。
木陰で見守っていた三人が瞠目した。
軽やかに宙へと身を投げたタガネは、棍棒の上を滑るように回避していた。そして攻撃とすれ違いしなに、亜人の手元に剣先をふるう。
直下の空気を薙ぎ裂く鈍器の疾走。
振り抜くと、突風が吹き荒んで辺りの小石を蹴散らした。
尋常ならざる
理性の無い亜人の瞳が手元を見た。
『ゴゥ?』
手は親指以外を失って、血が滴っている。
いつ損傷したか熊の亜人には判らない。
しかし、静観していた三人には見当が付いた。
棍棒を躱す際に見せた小さな一閃である。見落としてしまいそうなほど瞬間の出来事だった。
回避と反撃を
あの凶器と偉容による威圧を受けて尚そんな
「これが剣鬼か」
シュバルツが賛嘆する。
タガネが地面に着地した。
『グルァッ!』
そこを狙い打って亜人が蹴り飛ばそうと足を後ろに振りかぶる。
その膝に剣が叩き込まれた。
鋭利な鋼が骨の隙間から
タガネは剣を突き立てたまま。
「
柄を強く握り直して一気に横へと振り抜く。
亜人の足は血を噴きながら膝を屈した。
『ゴウッ!?』
「
タガネの剣が
その勢いのまま支えを失って倒れてくる亜人の首を刎ね飛ばした。許しを乞うかのような姿勢で河原にくずおれる。
ずん、と騒音。
タガネは剣を鞘に納めた。
「さて、進もうか」
「剣士さん、お怪我は?」
「無い」
案ずるリンフィアの声を無視して進む。
タガネは前後に目を光らせた。襲撃の
だが、タガネの剣が微振動を起こす。
異常な現象に気を留めていると、すぐそばの河の水が水流に逆らって、飛沫を散らしながら幾本もの蛇を
牙を剥いて河原を滑り、リンフィアたちへと肉薄する。そして逃げる間も無く、四人を縛り上げた。
これは、明らかに魔法だった。
どこかに魔法使いがいる。
「面倒な小細工を」
タガネは悪態をつきつつ。
「やれ、レイン」
剣に小さく囁いた。
声に反応して
すると、水の蛇たちが一斉にただの河水となって形が崩れた。逆流していた部分では
解放されたリンフィアが剣を見た。
「そ、その剣は一体……?」
「特製なんでね」
タガネは軽く答えた。
尋常な武具で魔法は斬れない。水を操作する魔力を絶たなければ、延々と拘束は続く。
でも、この剣ならば。
材料となった『
魔法すら斬り、魔法と言うに価する効果を持つ。
すなわち
「さぞや、名のある業物なんですね」
「まあ、名前はある」
タガネは剣の柄を優しく撫でた。
「レインだ」
魔剣レイン。
タガネにとって唯一無二の
これならば、手を焼いていた魔法使いすらも容易く滅ぼせる。
シュバルツが目を細める。
「それは本当に剣、なのか」
「ヴリトラの骨で造った物だ」
「なっ、ならば
「あ?」
「しかもヴリトラだと?神器にも相応しい逸品だぞ!!」
「静かにしてくれんか」
タガネは我知らずシュバルツを睨む。
思い入れのある剣を神器――ただの祭具のように言われるのは
シュバルツがまじまじと見詰める。
「初めて魔兵器の現物を見る」
「魔兵器……何だったか」
タガネは剣を腕で隠した。
「魔兵器とは、武器の形をした魔法とされる。実際には、特殊な魔獣の生態を組み込んだ武器なのだが、それを製造できるのは世界でアースバルグ一族だけだ」
「アースバルグ……」
「しかし、俗世が嫌いで各国からの依頼も蹴る難物と謂われる。それは紛れもなくアースバルグの造った物だろう、まさか
シュバルツが興奮して一呼吸で長々と話す。
タガネはその勢威に気圧されて後退する。
そんな高名な人間が携わっていたのなら、なるほど珍品というだけでは済まない物なのだろう。
「いや、伝とかは……」
そう考えて、タガネの脳裏に一人の人間の姿が浮かんだ。
魔剣を手渡してきた老人。
かの大魔法使いベルソートである。
『ワシが知り合いに頼んで――』
知己に依頼したと説明していた。
たしかに、伝説の魔法使いならば俗世嫌いと聞くアースバルグ一族ですら平伏し、願いを聞いてしまう存在なのだと察する。
タガネは嘆息してシュバルツを睨む。
「悪いが売れんぞ」
「本来なら個人が持つに価しない。私が預かれば、それは――」
「シュバルツさん、騒ぎ過ぎです」
リクルが横から遮って注意する。
シュバルツがあわてて口を
「すまない。熱くなってしまった」
「いや」
タガネは再び前に向き直る。
そして、肩越しに二人を見比べた。
思えば、シュバルツはどうにもリクルに対して恭しい態度である。リクル本人も、それがしかるべきと態度に出ていた。
それに魔剣を預ければ、というシュバルツの発言。
遮られていないのなら――彼は一体、これを何処に貢ごうとしたのか。
タガネは視線を能天気なリンフィアの笑顔へと滑らせる。
ふっ、と一つ愁嘆の息。
「きな臭いどころじゃないな」
護衛依頼の前途。
その難関は、帝国だけではなさそうだった。
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