2
頭上から咀嚼する音がした。
折れた骨と肉が撹拌され、ほぐされる音。
ヴリトラの顎が運動している。
一瞬で小隊一つが消えたと思ったのは、捕食されたからだった。その偉躯からは想像できない速度で動く。
人間を高らかに睥睨する金の眸。
見上げていたタガネの頬に何かが落ちた。
肌に貼り付くそれを指で拭い取る。
それは牙を伝って落ちた血だった。
まだ温かい。
「……本当に、おまえなのか」
灰色の眼差しが、金のそれと交錯する。
少女の面影なんてない。
あるのは、獰猛な本能だけ。
「レイン」
めきめきと、音を立てる。
ヴリトラの顔の形が変わった。
口の側面に、猪に似て湾曲した牙が出現する。喉の辺りが大きく膨らみ、ときおり大きく脈動した。
ルナートスがその醜さに顔を顰める。
団長がほお、と驚嘆した。
「蛇のくせに、
「なんと面妖で、醜い」
ルナートスと団長の背後では、兵士たちは唖然としていた。こんな巨大な物なのか。
これを討ち、武功を立てようと息巻いていた猛者でさえも萎縮する。災厄の権化は、挨拶代わりに小隊を瞬殺した。
呆気なく死んだ同朋。
次は、自分達かもしれない。
この軍は、騎士団が大半を占めている。他は宮廷魔導師などを含め、戦略的編成で作られた。どんな敵国の大群にも果敢に立ち向かう者たちばかりのはずだった。
ただ、目の前のモノは違う。
ひたすらに暴力的な自然力を感じる。
抗えないと本能が叫んでいた。
次々と、戦う前から戦意を喪失してその場に剣を落とす者が続出する。
「怯むな!!」
ルナートスが軍を叱咤するが、本人もまた彼らに共感していた。
本来なら、他国とも共同して討伐に出るべきだった。
だが、この旱魃で要人は身動きが取れず、辛うじて出た使者さえ王都を出た後に消息を絶ってしまっていた。
魔法で書簡のみを送りつけても、現在隣国も含めそこかしこが騒乱で動けないと断られてしまった。
結果として、王国のみで挑まざるを得ない状況となった。
王国のみでも多大な戦力、特に他国にも恐れられる『勇者パーティー』を擁する軍となれば強力だが、敵はそれでも心許なく感じさせる。
「王子、これは
「仕方ない」
涼やかにルナートスが応える。
そして装備していた背剣を抜き放った。
細身だが、刃渡りは長剣よりも長い。柄元に金の蔦(ツタ)のような意匠が施されている。
人を斬る物には無い芸術性が宿っていた。
それは王家の宝剣。
この剣で、幾多の戦場を踏破した。いわば勝利の証とも言える。
ルナートスが剣の切っ先を前に突き出す。
軽い風切り音。
しかし、それが全員の注目を集めた。
諦念に淀んだ瞳が、王子の背中を映す。
「見ろ、敵は目前にいる。今こそこの災害に終止符を打つために、我々は剣を執った!」
沈黙する軍にルナートスは問いかけた。
「違うか!?」
その声から発せられる迫力は、先刻のヴリトラの咆哮に劣らない。全員の心身をびりびりと震撼させた。
宝剣の先が振り下ろされる。
「ここで勝たねば、次に死ぬのは貴様らの家族たちだ、故郷だ。諦めるのは簡単だ、だがその先にはより深い絶望しか待っていない!!」
兵士は自分の手元を見下ろす。
各々が、脳裏に自身の大切な人の姿を投影した。
だんだんと、胸の奥に活力の火が点る。
「もう一度、剣を握り直せ! 大切なものを守るために!」
静観するヴリトラの前。
ルナートスが剣を振りかざし、前に馬を走らせた。
「臆さず戦え、我々が勝つぞ!!」
ルナートスが叱咤する。
その声は、平原一帯にまで轟いた。
先頭を切って進んだ王子の勇姿に鼓舞された兵士たちが、次々と雄叫びを上げながら発進する。連なる馬の雑踏が、地震のごとく平原を叩いた。
団長が後ろに振り返る。
「作戦通りに動け――散開!」
号令が下される。
声を受け止めた軍が三方向に散開する。
散っていく人の群れ。
ヴリトラが左右に小さく頭を振って、まず直進してくる王子へと姿勢を低くして飛びかかった。竜巻じみた勢いで体を回転させて地面をえぐりながら
それに対し。
「はああああああッ!!」
ルナートスが馬の背中を蹴って飛んだ。
宙に身を
左に散開していた団長が遠目に息を飲む。
すると、宝剣が光を帯びた。
長身の剣が、まばゆく金の光を放つ。それは掴んでいる王子の体にまで広がる。
ヴリトラの鼻と接触。
それよりも早く、ルナートスの宝剣が振り下ろされた。
剣先がヴリトラの鼻と接触する。
激突に轟音が鳴り響き、さらに強い光の爆裂が起きた。剣を振った方向に、ヴリトラが巻き起こした風を消し去って衝撃波が駆け抜ける。
たったの一撃。
それだけで地震が起きた。
強烈な剣撃を受け、わずかな間の拮抗の後にヴリトラの顔が後方に撥ね上がる。
そこへ、背後に控えていた部隊が続く。
宮廷魔導師の数名が前に出て、空中に鋭利な
仰け反ったヴリトラの顎を下から突き刺す。
悲鳴のような鳴き声が上がった。
「ミスト!」
「はい!」
宮廷魔導師たちの後ろでミストが杖を構えていた。
杖先に光が灯る。
体内の魔素を熱に変換して、目の前に球状に凝縮する。陽炎を起こすほどの熱量に達すると、夥しい数の大きな炎の弾が現れた。
ミストが杖を横へ薙ぐ。
炎の弾が、姿勢を戻したばかりのヴリトラの眉間や目もとを強襲した。着弾と同時に大きく
ヴリトラが首を横に振って悶える。
「我々も続くぞ!」
横合いから胴体に向かう騎士団団長。
鱗の隙間に容赦なく大剣を叩き込む。部下たちも倣って、渾身の一刀を見舞った。
白い鱗が血で上塗りされる。
鱗は存外硬くなかった。手応えを得て、兵士は攻勢を強めた。
地面に着地したルナートスが見上げる。
ヴリトラは苦悶の声を上げていた。
だが。
「これが、三大魔獣……?」
違和感があった。
小隊一つを一手で潰した凶悪さ。
それが、為されるがままになっている。
何かがおかしい。
「まあ、良い。今のうちに畳み掛ける!」
王子は頭を振って疑念を捨て去る。
今はできるだけ傷を負わせて、反撃の隙を奪うだけだ。
戻ってきた馬に跨がって、そびえる巨影に向かって突き進んだ。
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