二話「渇く河床」後編
1
決戦の地。
王都の東に広がる平原だけが照らされる。
ミストの魔法で、視界の煩わしさは解消された。これで心置きなく災厄ヴリトラに挑めると誰もが歓喜していた。
その最中で、タガネだけは我が目を疑った。
軍の正面に立つベルソート。
どんな意図があってか、先回りしていた。
そんな大魔法使いの真意はともかく、タガネが最も困惑させられたのは、寝間着姿のレインである。
どうして、あいつが戦場に……。
馬上から飛び降りようとして、隣から伸びた手に肩を捕まれる。マリアに制止された。
軍全体も随感の衝撃から立ち直って、次第に目の前の光景に奇異の目を向ける。
ヴリトラがいると聞いたのに、そこには大魔法使いとただの少女だけ。
タガネは愕然とレインを見る。
レインは遠目でタガネに気付くと手を振った。
戦場に似つかわしくないものがある。
「どうして」
ひたすらに湧く疑念を噛み殺す。
判っていた。――道すがら聞いたマリアの推測と、ここにレインが現れた意味が一つの事実を示唆していた。
信じたくはない。
それでも、タガネは胸のどこかで心得ていた。
そうだったのか、と。
「皆の衆。――そしてタガネよ」
ベルソートの手が動く。
その瞬間にタガネの視界が凍る。
「ヴリトラは、ここにおる!」
隣にいたレインを指し示した。
マリアから、息を飲む音がする。彼女は事前にこの事態を把握していたのだろう、それでもいざ眼前に繰り広げられると衝撃は予想を凌駕した。
タガネは拳を握る。
やはり、そうなのかと。
そのとき、全てを察してしまった。
頻りに水を求める様子、触れた執事を干上がらせる。そして、ヴリトラとタガネが求めるモノの意味。
マリアが呟いた。
「そう、ヴリトラは人に化けた」
「……」
「北の方の目撃情報にあったの」
「……めろ」
「ヴリトラに対して、老人が自分の孫を必死に庇おうとしていたらしいわ」
「……やめろ」
「そこから、目撃情報は途絶えた。目撃者も干魃の被害で体調を崩して、情報提供が遅れた」
「もういい」
「きっと、子を守る姿に感化されて、『飢え渇くもの』は人の愛情を求めた。そのとき、庇護されていた孫の姿を借りて……人の愛に飢えた」
「やめろ!!」
「だから、誰も気付かなかった」
タガネは耳を塞いだ。
しかし、もう耳にした情報が頭から離れない。
ヴリトラが――人の愛情を求めた。もしそうならば、レインの普段の様子と符合する点が多々ある。
タガネの傍を離れず、言葉を覚えてからは更に愛情表現が強くなった。近くに付きまとって愛情を求めているとき、彼女は『飢え』を忘れて水を必要としなくなる。
そして、王都周辺に干魃が続いたのは、レインが存在しているからなのだ。
老人に貰ったのは、名前ではない。
孫娘の、名と、姿と、声を奪ったのだ。
ひとえに、『渇き』を満たすために。
そして、新たな『渇き』に従って誰かを――タガネを求めた。
「それが真実」
「……何で、俺のところに」
「アンタは、運が悪かっただけよ」
「くそ……ッ」
「裏切られたわけじゃない。誰も、悪くないわ」
マリアは悲痛な声で答えた。
タガネは堪えられずに顔を伏せる。国民を苦しめた災厄は、ずっと隣にいたのだ。無邪気に、ただ徒に渇きを満たすために奪いながら笑っていた。
レインに悪意は無いのだろう。
魔獣は動植物と同じく本能に従う。
だからこそ、責められはしない。ただ存在が害になるだけ。
最初から一貫して、倒すべき敵だった。
絶望に打ちひしがれるタガネ。
「タガネ?」
遠目でレインはタガネを見ている。
マリアと話している途中から、その様子が苦しそうになった。
そう。
タガネの言葉を思い出す。
「青いぴかぴかは、駄目なぴかぴか」
レインの瞳がマリアだけを映す。
次いで、彼女と同じく『駄目なぴかぴか』とされた第一王子、その周辺には同じ空気を帯びる軍隊を流眄した。
レインは前に進み出る。
ベルソートは、上空に浮遊して距離を取った。
地面に亀裂が走る。
レインを中心に、蜘蛛の巣状に広がった。
「駄目なぴかぴか」
「これも」
「あれも」
「全部ぴかぴか」
レインの口が複数の声で呟く。
まるで喉が、下が幾つもあるように、同時に異音で言葉を奏でた。
樹皮が割れるような乾いた音が鳴る。
それは、レインの腕から発していたものだった。皮膚の表面に、白い鱗が浮かび上がる。レインの瞳孔が、縦に細く変化した。
「全部ダメ」
「ぴかぴか消そう」
「喉渇いた」
「ぴかぴか飲もう」
レインが口を大きく開けた。
少女の異変に先頭部隊が身構える。
――その直後だった。
左翼にいた小隊の一つが、轟然と風を唸らせて過ぎていく銀の風に薙ぎ払われた。地響きが足元を揺らし、風圧で付近一帯に砂塵が舞い上がる。
「なッ……!?」
先頭のルナートスが戦慄した。
それは風ではない。
鱗の
ゆっくりと後ろに退いていく。
二つの瞼を開閉する金の
ルナートスは視線で辿った。
これは、頭だ。
少女の首から伸びた、蛇の頭だった。
それに気づいたとき、レインの体だった部分から巨大な蛇の胴体が溢れ、数呼吸する内に巨大な蛇の尻尾が遠くに見える。
間違いない。
「これが――ヴリトラか!」
レインだったモノが、首をもたげた。
空に届くほど高い位置から軍を見下ろす。
そして、ゆっくりと口を開いた。
『ぎぃぃぃぃぃいいいッッ!!』
身の毛も総立つ矯声。
顎からはみ出た二つの鋭利な前歯が、音圧で震動していた。その咆哮に、全員が耳を塞ぐ。
レインの皮を捨てた怪物。
飢え渇くもの――ヴリトラが姿を現した。
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