春月(6)
泉姫は今景が消えていった空をただ呆然と眺めることしか出来なかった。そのうちに空が曇り、雨が勢いよく降り始める。
この雨……。今景様が降らせているのでしょうか。
泉姫は社から手を出して雨に触れる。雨だというのに少し温かくそれが今景の温もりと似ていて、思わずあふれ出た涙を袖で拭う。泉姫は涙を拭いながら今景が消えていった方角を見た。
今景様……。どうか。私も一緒に――。
ギュッと心が締め付けられる。泉姫は雨音に負けないよう、大きな声で歌を詠んだ。
「かきくらし 激しくふらなむ 春雨に つれなし君を 立ち止まるべく」
(訳:空を暗くして激しく春雨が降ってほしい。薄情なあなたが大雨で立ち止まるように)
けれども雨が激しく振るばかりで今景が戻ってくる事は無かった。泉姫の袖はただただ濡れるばかりである。
しばらくして父の頼貞に「泉姫」と声をかけられる。
「このままここにいたら体に障ります。もっと中に入りましょう」
「…………はい」
泉姫は俯いたまま返事をする。頼貞は俯く泉姫の手を引いて社の中央にそっと座らせる。
雨音がザーザーと響く中、頼貞は静かに口を開いた。
「泉姫。先程今景様が仰った通り、帰りましょう。大丈夫です。今景様の元には私もすぐに向かいますので」
「…………」
泉姫は頑なに首を振る。
私が今景様の側にいて出来ることなど歌うことしか出来ませんが。それでも。私は――。
すると頼貞は「やはり頷いてはくださらないのですね」と寂しそうに笑う。
「本当は危険な目に合わせたくないのですが。泉姫。どうなさいますか」
「!」
「どうなさいますか」ということは。父上は……。
泉姫はゴクリと唾を飲みこむ。
「行きます!!! 今景様のお側へ!!!」
私ではお役に立てないかもしれません。ですが。ただ家で待つことも出来ません。私はもう今景様と出会ってしまったのだから――。
「私は今景様に救われたのです。今まで私の魅力は歌だけで、外見は醜いものだと思っていました。ですが今景様は仰って下さいました。私の黒髪は波紋を立てる水面のように見え、愛おしい……と。そのお言葉にどれだけ救われたか」
泉姫は「ですから」と声を大にする。
「私も今景様を助けに行きたいのです」
例え今景様が私の歌にしか興味がなくても……それでもいい。私は今景様のお側に行きたい。
すると頼貞は強く頷いた。
「覚悟はあるようですね。いいでしょう。では私と共に行きましょう」
「!? よろしいのですか」
「泉姫を危険な場所へ一人で行かせるわけにはいかないでしょう。それならば私と一緒に行った方が幾分か安全なような気がします」
「父上……」
泉姫は深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「では」と頼貞は腰を上げる。それを泉姫は「少しお待ちください」と止めに入った。
「今景様に会いに行く前にもう一度泉に立ち寄らせてください」
「それは……」
頼貞に尋ねられて泉姫はゆっくりと瞼を閉じる。思い浮かべるのは泉の中で今景に良くしてもらったことと、そして――。
「泉の中で今景様以外にもお世話になった方がいるのです。かなりお美しい方で、気立ても良くお優しい方で……」
思い浮かべたのは高桐のことである。
高桐にも大変お世話になりました。今景様を追いかけるとなるとしばらくは会えなくなってしまいます。その前に。
「今景様を追うと言う事をしっかりと伝えたいのです」
頼貞は静かに頷いて「幸いここから家までは離れていません。泉姫の望む通り一度泉へ行きましょう」と今度こそ立ち上がった。
泉姫も頼貞に続いて立ち上がって社の外から出る。
雨はすっかり上がり、月が丸く綺麗に出ていた。
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【歌解説】
かきくらし 激しくふらなむ 春雨に つれなし君を 立ち止まるべく
(訳:空を暗くして激しく春雨が降ってほしい。薄情なあなたが大雨で立ち止まるように)
(自作(泉姫))
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