春月(3)
「…………」
泉姫は今景に巻き付いている影を注視する。普段なら影が消えていくはずだが、今回は違っていた。いつまで経っても影は消えるどころか今景の体をさらに締め付けていく。
これは一体何が起こっているのでしょうか。私の歌で影が消えるのは間違った考えだったのかもしれません。
泉姫は「今景様。どうかお気を確かに」と声をかけるも今景は答えるどころか呻き声を上げるのみである。
泉姫は周囲を見渡すも夜が更けた森の中では人一人見当たらない。
今は頼りになる高桐もおりません。私がしっかりとしなければ――。
泉姫がグッと拳を握りしめた。その瞬間、ゆらゆらと遠くで赤い光が近づいているのが見えた。赤い光は松明の炎の光、つまりは誰か人が近づいている証拠だった。
泉姫は今景様を助けていただけるかもしれませんとハッとして「今景様、人の姿に戻れますか」と声をかける。だが今景は力なく首を振るだけだ。
とてもまずいことになりました。もし今景様が人の姿になってくだされば迷いなく助けを呼べたのですが。今の今景様は龍のお姿です。相手が逃げ出してしまうならまだいいのかもしれませんが。恐れるあまり龍を殺してしまう場合もあります。
泉姫は龍の姿の今景を背にして松明の明かりへ体を向ける。
もし。もしそうなった時は。私が。今景様を何としてでも助けなければ。
泉姫の耳に前方からザクザクと土を踏む音が聞こえてくる。そのうちにわずかであるが松明を持つ人物の姿がハッキリとしてくる。細身ではあるがガッチリとした体格の男性、歳はかなりの年配。手に弓を持っており背に矢籠を背負っている。
泉姫は思わず唇を噛んだ。その瞬間――。
「もし。そこにいるのは泉姫ではありませんか」
「!」
その声に泉姫は聞き覚えがあった。昔から慣れ親しんだ声。
「父上?」
泉姫は目を細める。目の前に立っているのは紛れもなく父の頼貞そのものだった。ただ別れる前より顔が痩せこけているのが暗闇だというのにはっきりと分かる。
「本当に父上なのですか。物の怪の
「泉姫こそ本当に……」
そこまで言うと頼貞は急に顔色を変えて松明を高く掲げた。そのせいで龍の青い鱗が暗闇の中で輝く。
「!」
今景様!
泉姫は今景を庇おうと両手を大きく広げて頼貞に向き合う。頼貞は泉姫の父といえど男性だ。普通ならば男性に顔を見られないよう隠すものだが、泉姫はもはや自分の顔を隠そうとは思わなかった。
頼貞は厳しい目で泉姫の後ろにあるものを睨む。
「泉姫。その後ろにある恐ろしいものは何なのですか」
そう言いながら頼貞は背負っている矢籠を下ろし、松明を掲げながら矢を取り出す。
「ち、父上!?」
「もしやこの物の怪から逃げてここへ……。泉姫。さぁ、早く私の後ろへ。このような物の怪、私の弓矢で」
「父上!!!」
泉姫は今までに出したことのない大声で頼貞を諫めた。そのせいでゴホゴホと大きく咳き込む。
「ち、父上。どうか、話を聞いて下さい。ここにいるのは物の怪ではなく、雨を降らすことのできる龍です」
頼貞は目を見開いて泉姫と龍を交互に見る。泉姫は畳みかける様になお話し続ける。
「この龍は今景様とおっしゃいます。泉の中で大変よくしていただきました。今は細かく話をしている時間が惜しいのです。どうか今景様に力を貸してください」
今景は小さく呻くと目だけを頼貞へ向けた。その今景の青い瞳に頼貞は自然と足が伸びていた。
なんと美しい瞳なのでしょうか。この暗いなかでもはっきりとその美しさが見てとれます。
頼貞は矢を籠に戻し、今景の前に立つ。龍の細長い姿は恐ろしくもあったが、同時に神秘的で美しいと感じてしまう。泉姫の父だけにやはり娘と同じ感性の持ち主であった。
頼貞はかがんで龍の姿の今景の頬にそっと手を添える。そして再び立ち上がって泉姫に強く頷いた。
「この姿でここにジッとしているのもお辛いでしょう。信頼のできるものを何人か呼んで人目のつかないところまで運ばせましょう」
その言葉に泉姫はパッと笑顔を見せた。
「ありがとうございます、父上」
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