春月(2)

 頬に風が強く当たって泉姫は強く目を閉じた。だが徐々に頬に当たる風が緩やかになって泉姫はゆっくりと目を開ける。


「泉姫。どうぞ下を見てみて下さい」

「……下を、ですか」


 泉姫は風が瞼に当たりながらも大きく開いて、真下を見る。始めは真っ暗で何も見えなかったが、月の白い光の中やっと目が慣れてくる。真下には桜の木が並んでいて、ヒラヒラと風に乗って花びらが舞っている。「ギー」とどこからか虫の声が聞こえていて、風情があった。


「これはっ……」


 泉姫はその光景に思わず口をだらしなく開けてしまう。ふと上を見ると昔から見ている月と星明かりが近くにあって、ただただ泉姫は今見ている光景を目に焼き付けることしか出来ない。


「どうでしょう。とてもいい眺めでしょう」

「ええ。本当に」

「夏の光景も素敵なのです。蛍が舞って非常に幻想的です。夏も泉姫とこうして一緒に散歩をしたいものですね」

「っ」


 急に甘い言葉を言われ、泉姫は上げた顔を再び龍の背にくっつける。今景に赤くなった顔を見られないと分かってはいるものの、どこか恥ずかしくて顔を隠した。

 泉姫は今景の言葉に顔を隠しながら「はい」と確かに頷く。その返事に微かに今景が笑ったような気がした。


 赤くなった頬が落ち着いた頃、泉姫はわずかに龍の背から顔を離して再び景色に目をやる。

 だんだんと夜が更けていき、月がぼんやりと白く輝く。今景の青い鱗が白い月に照らされて艶やかに浮かび上がる。


 その光景に自然と泉姫の手は鱗を撫でていた。


 やはり今景様の姿は美しいです。それに龍の鱗は意外にも柔らかいのですね。


 泉姫が鱗を撫でていると急に今景の体がガクリと傾き始めた。


「! 申し訳ございません。くすぐったかったでしょうか」


 泉姫は急いで今景に声をかけるが今景からの返答はない。それどころか呻き声が聞こえてきた。ハッとして今景の様子を伺うと、暗闇の中でわずかではあるが龍の体に影が巻き付いているのが見えた。


「今景様!」

「私のことは、心配いりません……。泉姫はしっかりと。私の体に、掴まっていて下さい」

「!」


 泉姫は返事をするより早く、再び龍の体に手を回す。今景は泉姫がしっかりと掴まったのを確認してから、一気に地上に向かって急降下する。


 せっかく泉姫と一緒に散歩に行けたのに、こんなことになってしまって申し訳ないことです。何としても泉姫に怪我を負わせることだけは避けなければなりません。


 今景は歯を食いしばる。泉姫を傷つけないよう体を横に保ちながら地面に降下していき、腹ばいのまま土ぼこりを上げて着地した。


「今景様!!!」


 泉姫は今景から下りて顔の近くまで駆け寄る。今景は龍の姿ではあるが、苦しそうな顔付きであった。


 おそらく今のこの状況で今景様を救えるのは私の歌だけです。


 泉姫は懸命に頭を働かせる。そしてハッととある一首を思いついた。泉姫は逸る心を落ち着かせながらゆったりと歌を詠む。


「花鳥の ほかにも春の ありがほに 霞みてかかる 山の端の月」




――――――――――


【歌解説】


花鳥の ほかにも春の ありがほに 霞みてかかる 山の端の月

(訳:花や鳥の他にも春らしさはあると言いたげに、朧げに霞んでかかっていることです。山の端の月は)

(順徳院)


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