春月(1)

「出来ましたよ」と高桐に声をかけられてから数秒後、「準備はどうでしょう」と御簾の向こうから声がかかった。声の主はもちろん今景である。

 泉姫はハッとして、扇で顔を隠してから「ええ」と返事をした。

 それを見ていた高桐はこんなに素敵なお化粧を今景様に見ていただけないとはもったいないことですとガッカリと肩を落とす。


「それでは失礼します」と今景は御簾の中に入ってきた。


「!」


 かと思えば今景は泉姫の姿を見た瞬間、不自然にピタリと足を止めた。今景の視線は泉姫をジッと見ている。


 高桐にお任せしたから今の私の姿はそんなに変ではないはずなのですが。


 そう思い悩む泉姫の気持ちなど露とも知らず、今景は泉姫の髪を上げた姿がこれまた素敵で思わず足を止めただけであった。


 いつもの泉姫も素敵ですが、こうやって御髪を上げているとぷっくりとした首筋が見えてより一層魅力的に見えます。


 今景は一人心の中で頷いていると泉姫に「今景様」と声をかけられ、今景は泉姫から視線を外した。


「すみません。泉姫の装いに思わず見惚れてしまいました」

「!」


 また今景様はこのような……。


 泉姫は火照った顔を隠すため、さらに扇を顔に近付ける。今景はそんな泉姫に優しく微笑みながら手を差し出した。


「それでは参りましょう。泉姫」

「はい」


 泉姫は今景の手を取りゆったりと廊下を歩きだす。上空からは夕日の橙色の光が差し込み、外を泳ぐ魚は鱗が反射して光り輝いている。歩いているとそのうちに小さな橋と赤い鳥居が見えてきた。


「今景様。この場所は」

「ええ。儀式の場です」


 鳥居を二人でくぐる。辺り一面桜の花びらが舞っている。花びらは夕暮れの橙に染まり、幻想的な光景が広がっている。

 そんな橙色の花びらの中央に今景は佇み、頭上を見上げた。


「この場所が一番本来の姿になりやすいのです」

「本来の、お姿?」


 その今景の言葉に泉姫は嫌な予感がして冷や汗を掻く。


 そういえば高桐が「乗せてくれると思います」と意味深な言葉を言っていましたが。まさか……。


 そんな泉姫の嫌な予感を肯定するように今景は上空に手を伸ばすと体が細長く伸びていく。そしてみるみるうちに龍の姿になった。龍の姿となった今景の青い瞳が泉姫に向けられる。


「それではどうぞ私の背中にお乗りください」

「!」


 まさか、と思ってはいましたが。やはり今景様に乗って地上に出るのですね。


 泉姫が戸惑っていると「遠慮はいりませんよ」と再度今景から声がかかる。


「いえ。そういうことではなく」

「?」


 今景は龍の姿で軽く頭を横にコテンと倒す。首を傾げているのだと気付いた泉姫は「ですから」と口を開く。


「ですから。その。はしたないと。お、思うのです」

「はしたない?」

「女性が男性の上に跨る……などと」


 扇の下の顔は真っ赤である。泉姫は忙しなく目を泳がせた。

 そんな泉姫の様子は今景には見えないが泉姫の顔は大層面白いことになっているのだろうと思うと、今景は大口を開けて笑ってしまう。


「今景様?」

「いえ。すみません。泉姫。あなたは私の姿が龍に変わっていたとしても男として見て下さるのですね。それとも私のことをかなり意識して下さっている、ということでしょうか」

「え……」


 その言葉に泉姫はさらに顔を赤くする。


 本当はもう少し泉姫をからかっていたいのですが。


 今景は再び頭上に目を向ける。空は夕暮れの橙の中に夜の黒が混じってきている。


「ここでもう少し話していたいのは山々ですが。もうそろそろ散歩に参りましょう」

「ですが」

「私のことはお気になさらないで下さい。そうですね。牛車と思っていただければ」

「そ、そんな風には」


 今景の青い瞳が泉姫を見つめる。今景の瞳を受け止めながら泉姫はそんな風に思えたらどれだけ楽でしょうと心の中で返す。


 ですがこのままでは散歩をするという約束を破ってしまうことになります。


 泉姫は考えた挙句、顔を隠していた扇を優しく地面に置いた。そして龍となった今景に近づく。


「それではお願いします」


 泉姫の言葉に今景はグッと体を地べたにつける。泉姫は龍の細長い体に腰かけてから片足を上げて今景に跨った。


「落ちないようにしっかりと体を掴んでいてください」

「はい」


 泉姫は上半身だけうつぶせになるような形を取り、龍の動体に手を回した。ギリギリではあるがなんとか左右の手の指先だけでも組むことが出来た。


「それでは上空に上がりますよ」


 そう言って龍は体を泉姫に配慮しながらゆったりと起こすと、勢いよく浮かび上がった。

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