夕月

 夕焼けの橙の光が泉に差し込んでくるころ、高桐は泉姫の元を訪れていた。高桐はキラキラとした表情を泉姫に向ける。


「聞きましたよ。今景様と『でぇと』されるんですってね」

「『でぇと』とは何でしょうか?」


 聞いたことのない言葉に泉姫は首を傾げる。すると高桐は「海を越えた西の国の言葉でございます」と何故か頬を赤くしながら泉姫に詰め寄る。


「西の国では男女の仲になる前に二人で出かけてお互いに距離を縮めて、最後には慕いあっているかを確かめるそうですよ」

「?」


 何故わざわざそんなことをするのかと泉姫はさらに首を捻った。というのも平安時代では男性が女性の家に通うことで男女の仲になる。お互いに慕いあっているかを確かめ合う時間などないし、それが当然だと思っていたからだ。


 高桐は「よく分からないですよね」と言いつつも「でも素敵ではないですか」と苦笑いを返す。


「お互いに仲を確かめ合って好きな人と一緒にいられるということは」


 そう言われると泉姫は確かにと納得してしまう。


 ここ最近はいろいろなことがあって考える余裕がありませんでしたが。そういえば自分は複数の女性と関係を持つ男性が苦手でした。そう思うと『でぇと』をしてお互いに相手と……今景様と仲を縮めることは自分に合っている気がします。


 そこまで考えて泉姫は急に体温が上昇していく。いつの間にか今景のことを考えている自分に気づいてしまったからだ。


 高桐はそんな泉姫に温かい目線を向けてから「それじゃあ支度しましょうか」と化粧品を取り出す。


「せっかくの『でぇと』ですから着飾りたいのですが。散歩ですからね。あまり重たいものは着られません。なので今回は髪型と化粧に気合を入れましょう」


 そう言って高桐は桜の簪を取り出した。それを見て泉姫は思わず「桐の花ではないのですか」と問いかける。


「ええ。泉姫は桜の花がお似合いですから」

「そうでしょうか」


 波打った黒髪と淡い桃色。似合うとはなかなか思えないです。


 泉姫がそんなことを思っていると高桐が髪の毛をグイッと上げて来た。


「!?」


 髪の毛を降ろすのが常識とされているので泉姫はギョッとした顔を見せる。


「高桐? 髪の毛を上げるのは抵抗感があります」

「それは分かってはいるのですが。このままでは動きにくいでしょうし、綺麗な御髪が地面についてしまいますよ」

「……かなりの量を歩くのでしょうか」


 泉姫が不安げにすると「それはないと思いますよ。乗せてくれると思いますし」と返される。


 乗せてくれるとは何でしょう……と思いながらも泉姫は口にすることはなく、高桐による支度は順調に進んでいく。

 高桐はかなり高い位置で髪を丸く束ね、桜の簪でまとめる。高い位置で髪を束ねたとはいえ膝裏まで長さがある。


 高桐は泉姫から少し距離をとって全身をくまなく眺めた後、満足そうに一人頷いた。


「あとはお化粧を簪の桜に合わせて桃色を多めにしましょう」

「お、お願いします」


 高桐の勢いに押され泉姫は頷くことしか出来ない。高桐が筆を持って泉姫に近づく。泉姫は思わず目を閉じた。瞳に、頬に粉が塗られていく感触がする。


 どのくらい時間が経っただろうか。


「出来ましたよ」


 高桐に声をかけられた頃には夕日が完全に沈む前だった。

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