寂寞(1)

 あれから今景に影は巻き付いていない。ここ数日はかなり調子が良かった。というのも今景が泉姫に歌をせがんでいたからであった。


 今景は泉姫のいる御簾に「失礼します」と入ってくる。突然入って来られて泉姫は物凄い勢いで扇をとり、顔を隠した。


「今景様。声をかけてから少しの間待っていただけると助かります。顔を隠したいのです」

「泉姫が顔を隠す必要などありませんよ。私は泉姫の歌も御顔立ちも。全てが愛おしいのですから」

「……今景様。私を騙そうとしても、もう騙されませんよ」


 実はこういったやり取りはもう何度もしていた。さすがの泉姫も言われ慣れてきて前よりは驚かなくなったが、それでも火照った頬の熱は消える事は無い。


 今景は大胆に泉姫がいる御帳をめくって入ってくる。


「!」


 泉姫が声を上げる間もなく、今景は泉姫の膝に頭を乗せて横たわった。


「! き、今景様」

「今日はこうしていたいのです」

「今日はと言いましても。これは節操のない振る舞いですよ」

「致し方ありません。泉姫を前にしては理性が保てなくなってしまうのですから」


 そう言って今景は泉姫に目を向ける。泉姫は扇で顔を隠しているのに、見つめられているような気がして思わず顔を背けた。


 やはり何度熱烈な言葉をかけていただいても慣れないものですね。今景様は恋と感謝の気持ちを同一に考えているのだと思いますが。それでもこちらとしては何度も甘い言葉をかけられているものですから胸の潰れる思いがします。


「今日はどういった歌を歌いましょうか」


 泉姫は恥ずかしさから自分から声をかけた。


「そうですね」と今景は泉姫の波打った髪の毛先を撫でる。


「泉姫の歌が聞きたいのはもちろんですが。今は泉姫自身のことが知りたいのです」

「私のこと、でございますか」

「どういう風に育ってきたのか知りたいのです」

「大変申し訳ないことですが……面白い話はないですよ」


 特に恋愛方面は良い話が全くありません。むしろ今景様の話の方が興味深いお話がたくさんあるかと思うのですが。


 今景は泉姫の髪をいじりながら「そのようなことはありませんよ」と笑う。


「私にとっては貴重なお話です。さあ、勿体ぶらずお聞かせください」


 そう言われると返す言葉がない。泉姫はちょっと目線を上げて考え込む。


「ではまずは私の生まれ育った家ですが」

「たしか泉姫、の名の通り。泉の近くに家があるのでしたよね」

「ええ。父は宮中の警備をしている舎人とねりですが、時には貴族の方々が外出されるときに警備をしていることもあります。貴族の方々と関わることが多くなった父は、私に貴族がどういった暮らしをしているのかよく聞かせてくださいました。そのためか私も貴族の嗜みである和歌などが自然と身についていったのです」


 今景は「なるほど」と一人心の中で頷く。


 最初に私に詠んで下さった歌が『古今和歌集』という巻物に載っていると言っていましたが。咄嗟に適した歌が思いつくあの知識量。泉姫の豊富な歌の知識はこうして得られたのですね。


 泉姫はそっと視線を下げて扇から顔を覗かせる。今景はジッと口を出さず泉姫を見ていた。今景は泉姫の話に口を出すことはない。だが青い瞳は優しく続きを促していた。泉姫は青い瞳に胸を高鳴らせながら口を開く。


「私に歌を詠む才があると知るやいなや、たくさんの殿方が私の元を訪れましたが。私の容姿が劣っているので、男女の仲になるまでもなく終わってしまいました」

「…………」


 今景はしばらく黙ると「では私は幸運でしたね」と心底嬉しそうにはにかんだ。


「!」

「その見る目のない人間のおかげで泉姫と出会えただけでなく、契りを結ぶことも出来るのですから」

「契り!?」


 泉姫は思わず声を荒げてしまう。そんな泉姫を見て今景は泉姫への愛しさを募らせていった。

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