花桐(2)
今景に纏わりついた影がスッと消えていく。それを見て泉姫はホッと息を吐く。
「私の歌で上手くいくか自信がありませんでしたが、今景様の影がいなくなって安心しました」
そう言うと今景はゆっくりと体を起こした。今景はおもむろに泉姫の顔を隠している扇を取ると泉姫の頬を撫でる。
「!」
「愛しい泉姫。またあなたに救われました。一体なんとお礼を言っていいのでしょう」
「いえ。私は歌を詠んだだけです」
青い美しい瞳に見つめられ、泉姫は恥ずかしさから今景から顔を背ける。
「あの歌は泉姫が作って下さったものなのですね。だからか今までで一番体調がすぐれています」
今景は顔を背けている泉姫にグッと顔を近付ける。
「愛しい泉姫。この胸の浮くような気持ちを一体どう表現したらいいのでしょう。人間の世界ではこういう気持ちの時に口と口を重ねるのだと聞いたことがあります」
「! お待ちください。今景様!」
じりじりと顔を近付ける今景から泉姫は顔を背けたまま後退していく。
今景様に優しい言葉をとても嬉しいことですが。今まで男女の仲になったことがありませんから何か粗相をしてしまうかもしれません。それに……。今景様が勘違いをしているということもあり得ます。私が歌を詠んで今景様の影がいなくなったから、感謝と恋を同一に考えているのかもしれません。
泉姫は思わず隣にいる高桐に助けを求めて視線を送る。と高桐もすぐに気がつき「今景様」と声をかけた。
「泉様はお疲れです。しばらくは一人の時間が必要でしょう」
そう高桐に言われ今景は子供のようにムッと唇を尖らせる。
「分かっています。ただ泉姫から離れがたくなってしまっただけで」
今景はやっと泉姫の頬から手を離すとおもむろに立ち上がる。瞬間、今景の束帯が紺の直衣に戻った。
「!」
これも今景様の術、なのでしょうか。着替える手間がなくて便利ですね。
「それでは私は自室に戻ります。高桐、泉姫の着替えを手伝ってあげて下さい」
「かしこまりました」
「それでは泉姫、ゆっくりお休みになって下さい」
そう言って今景は御簾から出て行く。今景の後ろ姿を見送ってから泉姫は思わずホッと息を吐き出してしまう。
「すみません高桐。先程は大変助かりました」
「気にする必要はありませんよ。泉様がお疲れなのは本当でしょうから」
そう高桐に言われると先程寝たばかりだというのに瞼が重たくなるのを感じた。
高桐はどこからともなく白の
「これで過ごしやすいはずです」
「ありがとうございます」
「それから御髪を乱れていますから整えましょう」
そう言われ泉姫は自身の髪に触れる。
乱れているといえばそのような気も致しますが。そもそも私の髪は波打っていますから乱れることもないと思います。
そう思うもののせっかくなので高桐に任せることにした。
高桐は桐の花が彫られた簪を手に持つと、泉姫の髪を優しく梳く。
「痛くはありませんか」
「はい。とても心地がいいです」
泉姫は気持ちよさから思わず目を閉じてしまう。うつら、うつらとするものの泉姫は「このような場所で眠ったら高桐に迷惑がかかります」と意識を保つ。
眠ってはいけませんと思いながら泉姫は高桐との会話に集中する。
「そういえばその簪の桐の花はかなり緻密ですね。なんと素敵なのでしょう」
「…………そう思っていたことが私にもありましたね」
そう答える高桐の表情はどこか自虐めいた笑みを浮かべていた。その様子を見て思わず泉姫は後ろを振り返り、高桐の手に手を重ねる。高桐の手は今景と違い、鱗がないからか冷たくはあったがつるつるとしていた。
「高桐。もし私に出来ることがあれば何でも言って下さい。私がここに来て時間があまり経っていませんが、それでも今景様のことも高桐のことも大切で愛おしいと思っているのです」
「ありがとうございます。本当はそのような殺し文句を今景様に聞かせて差し上げたいですが」
「?」
「いえ。何でもございません。それではお休みになる前に一つお願いを聞いていただけないでしょうか」
高桐の言葉に泉姫はもちろんと力強く頷く。
「歌を詠んでいただきたいのです。今景様のためではなく、私の為に」
昔、今景様が歌を聞いて心が安らいだとおっしゃっていました。当時はよく分かりませんでしたが、今なら今景様のおっしゃっている意味がよく分かります。泉姫の歌声は澄んでいて心が洗われます。そして何より相手に対し心がこもっており、聞くだけで胸が温かくなるのです。
泉姫の歌を聞けばもしかしたらまた……人間を好きになれるような気がするのです。
泉姫は「私の歌で良ければ」と言ってからわずかに視線を上げ少し考え込んだ。
今まで挑戦したことがありませんが他でもない高桐のためです。やってみる価値は十分あるかと思います。
泉姫は一人頷くと真っすぐに高桐を見た。
「散りぬとも 忘ることなし
――――――――――
【歌解説】
散りぬとも 忘ることなし 小袿に 桐の花の 香ぞにほひける
(訳:桐の花が散ったとしても忘れることはないでしょう。小袿に桐の花の甘い香りがのこっているから)
(自作(泉姫))
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