祈雨(2)

 御簾から出て廊下に足を踏み出すと、泉姫は「あっ」と小さく声を上げた。泉姫の視線は庭にある。庭には砂利が敷き詰められ、ところどころに松が植えてある。ここまでは至って普通の庭だが、その庭を右へ左へ色とりどりの魚が泳いでいたのだ。

 不思議で、だが、幻想的な景色に泉姫は思わず足を止めてしまう。


「どうかされましたか」


 足を止めた泉姫に高桐はすぐに気付いて声をかけた。


「ここは水の中なのでしょうか」

「ええ、そうですよ。今景様は泉に住んでおられますから」

「それなのに私の息が苦しくならないのはなんとも不思議ですね」

「それは今景様が泉様にそういった術をかけておられるからです」

「術、ですか」

「ええ。海を越えた西の国では魔法と呼ばれるそうですが。まあ何にせよ今景様は神ですから。だいたいのことは思うがままです」


 泉姫はなんだか凄い人物に気に入られてしまったみたいですね、と今更ながら今景の凄さを思い知る。


 泉姫は夢心地で、再び高桐の後を着いて廊下をおずおずと歩いていく。すると視線の先に小さな橋と赤い鳥居が見えた。鳥居の先は不思議なことに暗くて何も見えない。


「あの鳥居の先に今景様はおります」


 泉姫は高桐と一歩ずつゆったりとした足取りで橋を渡って鳥居をくぐる。と、一瞬にして視界が変わった。

 鳥居の中には大きな滝が流れており、岩壁が周囲を取り囲んでいる。岩壁に沿うように桜が植えてあり、泉の中だというのに桜独特の香りが鼻に届いた。

そんな桜の中央に今景はいた。今景の服装は紺の直衣でなく、渋い橙の束帯そくたい(平安時代以降の上流貴族が着ていた儀式に用いる服)を着ていた。だがやはり烏帽子は着けていない。

 今景は泉姫に気づくと分かりやすく顔を赤らめる。


「泉姫、待っていました。その服装もとてもお似合いです」

「ありがとうございます……」


 そういう言葉を言われ慣れていない泉姫はモゴモゴと口を動かし、頬を赤らめる。その様子に高桐は「ほら今景様も似合うとおっしゃると言ったではないですか」と笑う。


「本当はもっと泉姫の姿を見ていたいのですがそういうわけにはいきません。泉姫がわざわざ来て下さったのですから雨を降らさなければなりません」


 そう言うと今景は頭上に手をかざした。上空には魚がたくさん泳いでおり、日の光が淡く差し込んでいる。

 泉姫が日の光に思わず目を細めた時、今景の姿が変わり始めた。鱗が艶々と輝き始め、体が細長く伸びていく。やがて泉姫がここに来る前に見た龍が姿を現した。龍はふわりと泉姫の上空を泳ぐ。鱗が光に当たってキラキラと輝き、泉姫は思わず扇から顔を覗かせ「綺麗」と呟いてしまった。


 ここに来る前はあんなに恐ろしいと思っていた龍の姿なのに不思議なものです。今では龍の姿が美しく、その美しさにただただ見とれるしかありません。


 龍は上へ上へと泳いでいき、ついに泉姫の視界から消えた。しばらくしてから上空の様子がおかしいことに気付いた。まばらに上空に波紋が現れ消えていくのだ。波紋は時間が過ぎるほどににたくさん現れ、消え、現れ、消える。消えた波紋に重なるように新しい波紋が広がっていく。泉姫は思わず高桐を見た。


「! これは一体何なのでしょう……」

「今景様が雨を降らせているのです」


 雨が降るのは約二か月ぶりの出来事だった。


 泉姫はホッと息を吐く。これで作物が実ると思うといつの間にか緊張していたのか、少しばかり肩の荷が下りた。


 高桐は波紋が浮かぶ上空を指差す。


「ここは泉の中ですから。雨を降る光景を普通には見られませんが。かわりに下から雨が降っている光景を見られるのです」

「それで上空に波紋が出来るのですね」


 泉姫は顔を隠すのを忘れて、その光景に見入っていた。

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