甘雨(2)

 今景は体がスッと楽になるのを感じた。体を取り巻いていた影はもうない。今景は頭から手を離して立ち上がった。

 泉姫の歌声の良さもそうだが、歌選びも良い。状況にあった歌を泉姫が読んだことで今景の体は今までにないほど軽くなっていた。


「起き上がって大丈夫なのですか」


 泉姫はそっと今景に近づく。今景は「ええ」と頷いてから泉姫の波打った黒髪の毛先をおもむろに手に取って口づけた。


「ひッ!!!」


 急なスキンシップに泉姫はみっともなく大声を出してしまう。しかし今景はそんな泉姫を気にする事は無く、今度は泉姫の頬に触れた。


「き、今景様!? 一体どうなされたのですか」

「泉姫、ありがとうございます。あなたの歌のおかげですっかり体が良くなりました」

「それは良かったです。それで。この手は一体何でしょうか」


 そう問いかける泉姫の顔はすでに恥ずかしさで紅葉のように真っ赤に染まっている。今景はその様子も可愛らしいと思い、さらに自身の親指で泉姫の唇に触れた。


「泉姫のことを思うと触れたくなってしまったのです」

「ふ、触れたいですか」

「ええ。泉姫の歌が素晴らしいのはもちろんですが、私を気遣ってくださる姿が心に刺さりました。どうやら泉姫に恋をしてしまったようです」


 泉姫は目を泳がせながら「あの今景様」と口を開いた。その瞬間、泉姫の視界がグルリと回転し、泉姫は今景によって床に押さえつけられていた。


「!!!」


 まさか、と泉姫は目をパチクリさせる。


 このまま床を共にすることになるのでしょうか。


 そう思った瞬間、今景からすぅすぅと音が聞こえ泉姫は思わず今景の顔を見た。今景の美しい青色の瞳は閉じられている。


「今景様?」


 泉姫が声をかけるも今景は答えない。


 もしかしてお休みになられていらっしゃる?


 泉姫が何も出来ないでいると高桐が「どうか寝させてあげてください」と口を開く。


「あの影に憑りつかれてからというもの。今景様は眠れない日々を過ごしたのです」

「あの影は一体何なのですか」


 そう問いかけると高桐はわずかに目線を下げて「分からないのです」と答えた。


「いつも通りに雨を降らそうとした時に地上から影がやって来て今景様に纏わりついたのです。それから今景様は体調を崩すようになり、雨を降らすことが難しくなってしまいました。そのせいで体調だけでなく精神も病みつつあったのです。ですが」


 高桐は真っすぐに泉姫を見つめる。


 このお方を認めましょう。本来なら嫌いな「人」に頭など下げたくありませんが。今景様を助けて下さいました。なにより本当に心から今景様を気遣って下さっているようです。やはりこのお方は「いい意味で」変なのでしょう。


 高桐は深々と頭を下げた。


「あなたのおかげで今景様が救われました。ありがとうございます」


 その言葉に泉姫は心が温かくなる。


 最初は恐いお方かと思いましたが気のせいだったのかもしれません。今景様も最初は龍の姿でしたから恐ろしかったですが。何事も最初から決めつけてはいけませんね。

 私の歌で今景様の体調が良くなり、そのおかげで雨が降って世の中も良くなるもですからここに来たことは良い事なのかもしれんません。


 泉姫は今景を起こさないよう上半身だけ体を起こし、高桐に微笑んだ。


「いえ。私でお役に立てたのならここに来た甲斐がありました」


 その様子を見て高桐も自然と笑みがこぼれた。


「ひとまずはこの場所でも眠れるようにふすま(長方形の一枚の布地。就寝時に体にかけて用いる掛け布団のようなもの)でも持って来ましょう」


 そう言って御簾を出た高桐は自分自身でも分かる程に上機嫌だった。

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