甘雨(1)

 今景は既に泉姫を気に入っていた。はじめは泉姫の歌を所望していただけだったが、泉姫と実際に話してみると素直で可愛らしい女性で今景はもっと泉姫と近づきたいと思う。だが。


 そういうわけには行かないのでしょうね。無理にこの場所に連れてきてしまいましたし、きっと泉姫はお疲れのことでしょう。


 今景は「もっと話したいのは山々ですが、まずはこの場に馴染むことが大切です」と御帳から離れる。

 泉姫は物足りなさを感じるものの、今景は気を遣っているのだろうと察し素直に頷く。


「またしばらく経ったら会いに行きます」


 そう言って今景はゆっくりと立ち上がった。けれども足音が聞こえない。


「今景様? どうかなさいました?」


 泉姫は御帳から再び顔を覗かせた。その瞬間、思わず泉姫は立ち上がってしまう。今景が頭を抱え蹲っていたのだ。

 泉姫は御帳から出て今景の肩にそっと触れる。冷たく、ざらざらとした感触に手を引きそうになるが堪えた。


「今景様、今景様。しっかりなさって下さい」

「泉姫。このようなところを見せてしまい情けないことです。私なら大丈夫です。少し眩暈がしただけですから」

「ですが」


 そう言うものの今景の表情は先程見た表情よりも暗くなっていく。それどころか体に影が巻き付いているのが見えた。


「!」


 この影は一体何でしょうか。


 泉姫は影に手を伸ばした。


「いけません」

「!」


 今景に伸ばした手を掴まれた。男性に触られたことのない泉姫は目をパチクリとさせる。今景は泉姫から手を離しまた蹲る。


「この影のせいで眠れない日々が続いているのです」

「私、誰か呼んで来ます」

「いえ。それには及びません。もうこちらに来ている頃です」


 来ている?


 泉姫が思わず首を傾げると「失礼致します」と声がして、女性が入ってきた。女性は今景と違い、顔が鱗に覆われていない。瞳も黒だし、髪も泉姫と違い真っすぐで艶々とした黒髪だ。女性は両手で風呂敷を抱えている。泉姫が家から持ってきた歌集や歌物語を包んだ風呂敷だ。

 女性は泉姫の目の前に立つと風呂敷を泉姫の足元に置いた。


「今景様をどうにかして下さい。そのために来たのでしょう?」


 女性はそう冷たい声で言って泉姫を睨む。初対面でいきなり睨まれたことなど泉姫にはもちろんない。泉姫は思わず三歩後ろに下がった。

 その様子に今景は頭から手を離し、肩で息をしながら「おやめなさい、高桐たかきり」と言葉を紡ぐ。


「泉姫はわざわざこちらに来て下さったのです。そのうえ、私の体も気遣ってくださっているのです。そのような言い方をするものではありませんよ」

「…………」


 高桐と呼ばれた女性は眉をひそめて返事をしない。それどころかわざと目線を合わせないように顔を背ける。

 その間にも今景の表情は苦々しく、体に纏わりつく影が濃くなっていく。


 一体どうしたらいいのでしょう。高桐様は私が今景様をどうにか出来るというようなことをおっしゃっていたけれど。


 泉姫はおろおろと視線をさ迷わせてからグッと覚悟を決めて後退した分、足を前に出す。


「わ、私に何が出来るでしょうか」


 掠れた声で問いかける。「無理をする必要はないのですよ」と今景は返したが泉姫は頑なに首を縦には振らなかった。


「私がこの場に来たことはかなり強引でしたが。それでも目の前で苦しんでいる今景様を放っておくことなどどうしてできましょう」


 その瞬間、高桐の瞳がキラリと光るのが見えた。高桐は「人」という生き物が嫌いだった。利用するときだけ利用して、普段は自分たちを恐れる。それが人間という生き物だ。


 なのにこの人間は私達を恐れるという気持ちはないのですね。そもそも顔を見せて今景様を心配して下さる時点で彼女は変なのかもしれません。


 そう心では泉姫を認め始めているものの、なかなか高桐は素直に態度に表せない。高桐は顔を背けたまま「歌を詠んであげて下さい」と話す。


「今景様はあなたの歌があれば眠れるとおっしゃっていました。ですからどうか歌を詠んであげて下さい」

「歌を……」


 そう言われたものの咄嗟に歌が思い浮かばない。そもそも泉姫は今景と会ったばかりで長い時間を過ごしてはいない。それゆえどういう系統の歌が好きなのか分からなかった。

 その間にも今景の体に巻き付いた影は黒くなっていき、終いには今景はゴホゴホと苦しそうに咳込み始めた。


「今景様!!!」


 高桐は今景の背中をさする。今泉はそんな高桐の様子を見て「おそらく今景様はずっとこんな状態なのでしょう」と推察する。


 私に出来ることは歌を詠むことだけです。けれども適当に歌を詠むのはどこか違う気がします。ですがいつまでもこのままというのは……。


 泉姫は視線をさ迷わせる。ふと高桐が下に置いた風呂敷に目線がいった。


「っ!」


 確かあの歌集に……。


 泉姫は衝動的に風呂敷を広げ『古今和歌集』と書かれた巻物を広げる。そして――ある一首を見つけた。


 この歌ならば。この歌ならば今景様に似合っているはずです。


 泉姫は巻物に目をやってから今景を真っすぐ見つめる。そして息を大きく吸った。


 ――どうか今景様の状態がよくなりますように。


「わが君は 千代に八千代に さざれ石の いはほとなりて  苔のむすまで」




――――――――――


【歌解説】


わが君は 千代に八千代に さざれ石の いはほとなりて  苔のむすまで

(訳:あなたにずっと生きていてほしい。小石が大きな石になって、苔が生えるぐらいまで)

(読み人知らず)


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