雨間(4)

 泉姫はゆっくりと瞼を上げる。


 あの後私は……。泉の中に引きずられて……。一体どうなったのかしら。


 泉姫はゆっくりと体を起こす。どうやら御帳の中の畳に寝かされていたらしい。一瞬自身の屋敷で寝ているのかと思ったが、すぐにそうではないと気付く。自分の屋敷で使っている畳よりも、あまりにも丈夫で高価なものだったからだ。

 泉姫はそっと御帳から身を乗り出す。周りは御簾と龍が描かれた壁代かべしろ(御簾と一対で使用される。御簾の内側に使われ、視界を防いだり寒さをしのいだりするために使用される)で囲われている。隅には黒塗りの厨子棚ずしだな(棚の一部に両開きの扉がある物入)が置かれており、厨子棚の上には梅の匂いがする香や化粧道具が置かれていた。


 ここは一体どこなのでしょうか。


 泉姫の心臓はバクバクと音を立て頬から冷や汗が流れる。その場から離れたい気持ちが大きくなり片膝を立てた。

 その時。微かに足音がして「起きていますか」と外側から声がかかった。中世的な声だ。泉姫は咄嗟に返事をしようとするものの顔を隠す扇が見つからない。泉姫は再び御帳へ入り体を奥へ寄せる。


「は、はい」


 少し緊張した声で返事をしてみる。すると御簾をめくる音が微かに聞こえ、御帳の前に誰かが座った気配がした。


「どうかそんなに怖がらないで下さい。私はあなたを獲って喰おうというわけではないのですよ。私の話を聞き、そして助けてほしいだけなのです」

「……助ける? 私は龍が歌の上手い若い娘を欲しがっていると聞いていたのですが」

「ええ。歌の上手い若い娘を欲しているというのも本当です。というよりも、あなたが欲しかったのです。このあたりで歌の上手い、若い娘というとあなたしかいないでしょうから」

「……」


 今までそういうことを言われなかった泉姫は思わず身じろぎしてしまう。龍はそんな泉姫に構わず淡々と話を進める。


「実はここ最近きちんと眠れていないのです」

「眠れていない、ですか」

「ええ。だから私の天気を操る能力に乱れが生じてしまっているのです。そんな時に微かですがあなたの歌が聞こえたのです。澄み切った、心が洗われるような、どこか愛しさも感じる。そんなあなたの歌を聞けば私もゆっくり眠ることが出来ると思ったのです」


 泉姫は「龍に歌を褒められるなんてとても嬉しい事ですが」と言葉を濁す。自身の波打っている髪に手を伸ばした。


 本来なら私の歌のおかげで雨を降らせることが出来るのですから、この容姿は隠し通すべきでしょうが。

 泉姫は龍の偽りのない真っ直ぐな話に心動かされてしまう。


「……実は私の容姿は褒められたものではないのです」

「………………」


 龍の返答はない。シンとした空気に耐えられなくなって泉姫はジッと畳に目をやる。けれど龍はそんな泉姫の考えとは真逆で、泉姫に少し興味を持ち始めていた。


 普通ならば自分の欠点というものは隠しておきたいものです。とくに今の状況なら尚更。それなのにわざわざ欠点を伝えてくるとは。どうやら私は素敵な姫君と巡り逢うことが出来たようです。


 龍はスッと息を吸って「どうかお顔を見せて下さい」と声をかけた。


「ですが」

「あなたが醜いというのなら、私の顔などもっと酷いものです。何せ鱗だらけなのですから」


 泉姫はハッとして畳から目の前にいるであろう龍に目を向ける。そして意を決しておずおずと顔半分だけ御帳から出す。


「!」


 龍と目が合った。

 龍の姿は泉姫と同じく元服直後くらいの年恰好をしていて、服装も人間が着る紺の直衣のうし(平安時代の上流貴族の平常服)を着ている。だが、それ以外は人と異なっていた。顔は薄い青の鱗で覆われており、瞳も黒ではなく鱗と同じ青色をしている。なにより烏帽子えぼうしを被っておらず、背中くらいまである薄茶色の髪を結っておらずそのまま流していた。

 泉姫は目が合っているにも関わらず、龍の容貌が異質すぎて顔を逸らすことができない。

 龍はそんな泉姫に穏やかな笑みを浮かべる。


「私にはそんなに醜い姿と思えません。何よりあなたの黒髪は波紋を立てる水面のように見え、私の目には愛おしく思えます」

「……そ、そう、ですか」


 あまり自身の容姿を褒められたことがなかった泉姫は頬を赤くしてしまう。泉姫は俯きながらも再び龍の顔を見る。

 よくよく見ると容貌は異質であるが瞳は知性を感じ髪もよく手入れされている。笑うと穏やかな雰囲気が滲み出るのが好印象だ。


「……あなたも。私にはそんなに醜い姿に思えません。もちろん龍の姿で現れた時は恐ろしさを感じましたが、今は不思議なことにあなたをもっと知りたいと思っているのです」

「そのようなこと、始めて言われました。時々人間の前に姿を現すことはありますが。たいていの人達は私の姿を見ると怯えて逃げてしまうものですから。どうやらお互い感性が似た者同士のようですね」

「ええ。そのようです」


 泉姫がふふっと口を手で覆いながら笑うと、龍も穏やかに笑う。泉姫はその姿に安心して「まずは」と口を開いた。


「まずはあなたの名前を聞かせてはいただけませんか。私は周りから泉姫、と呼ばれています」

「私のことは今景きんけい、とお呼びください」

「今景様……」

「突然このようなところに連れてきてしまって申し訳ないと思っていますが。私はあなたと出会えて心から良かったと思っています。どうかこれからよろしくお願いします、泉姫」

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