第15話 呼び名

 後日、火曜日のこと。


「よ」

「おはほよよん」


 今日も今日とて終礼終わりの部活動。特別準備室に入ると同時に交わされる、変わらない挨拶に日常を感じられる。

 だが俺にとっては、無垢なる月涙つきなみさんに尾棘おとげ綱道つなみちとか言う悪魔から頼まれた残酷な事実を伝えなくてはならない厄日。損な役回りだ。


 無論、どこかの誰かさん二人の所為せいで部分倒壊してしまった『平穏な日常』という名の建築物を保守するためには必要な事なのだが。

 二人とも席に着いたら試合開始のゴングが鳴ったのと同じ。それまでに準備は済ませておかなければならない。

 月涙さんの定位置。左から四番目の窓の前でなびくスカートが目に入っている内はまだ間に合う。


 俺は座る前に鞄の中に手を突っ込み感触を確かめる。

 ブツ良し。

 

 ここに来る前にトイレで声の調子も確認している。

 滑舌かつぜつ良し。

 

 伝えるべき事柄は、今週木曜日の宿泊部の時間帯に尾棘と会うよう頼むこと。人目に付きにくいのは結局部室だろうと考え、俺の独断と偏見によりマッチング場所は部室に決定した。そしてもし断られたときは、俺と月涙さんの置かれている状況を説明しなければならない。

 以上、内容も良し。


 電車の運転手が指で指し示しながら確認を行うように、一つ一つ丁寧に脳内でシミュレートした。

 俺は席に着く。

 頭の後ろでちっちゃく結わえたポニーテールっ子も椅子に座る。

 決戦の舞台が幕を開けた。


「なあ」

「ねえねえ」


 同時に切り出される言葉。幸先が悪い。


「あ……」

「先言っちゃっても良い?」


 詰まった時点でそれまでだろう。タイミングの悪さに歯がみしながらも彼女の方に手を向け、先を譲る姿勢を見せる。


颯希さつき君、私の事呼んでみて?」

「……月涙つきなみさん?」


 これであってる?と聞くように首を傾げながら答える。質問の意味がみ取れず正しく答えられているか自信が無かったため、か細い声になってしまった。


「だよね~。私、それじゃ駄目だと思うのっ」

「と言うのは?」

「私の名字言ってみて?」

「月涙」


 今言ったばかりなのに何を言っているのだろうか。聞いてない訳がないし。


「じゃあ私の名前言ってみて?」

「……雫紅しずく


 下の名前を呼ぶのは緊張する。普段名前で呼ぶのなんて妹くらいなので、同学年の女子を呼ぶとなるとそこそこ気合いを入れなければならなかった。


「そう私のことを正しく呼ぶとすれば『月涙』か『雫紅』の二択なの。『月涙さん』なんて人はいないよね」

「それはただの敬称って言うか、距離を取った言い方って言うか───」

「それだよそれそれ。私との関係に距離なんて要らない」

「なにが言いたいんだ?」


 そう聞くと彼女はえへへへっと照れ笑いして俺のことを真っ直ぐ見ながら、


「雫紅って呼んでほしいな♪」

「却下」

「早くない?」

「それ言いだしたらそっちこそ俺のことを『颯希君』って呼ぶだろうが」

「ほよ、だから私もそれやめようと思ってる。颯希って呼ぶから雫紅って呼んで?」

「いやいやいやいや、ちょっと待て。それはキツい」

「大衆の面前が無理ならせめて二人の時だけでもさ」

「えー………」


 どんな罰ゲームよりも羞恥心しゅうちしんくすぶられる。例え周囲に誰も聞いている人がいない、一人の時につぶやくだけだとしても、だ。

 教室でクラスの面々の会話を盗み聞きしている限りでも、男子の中で雫紅と呼び捨てにしている人はいなかった気がする。そりゃあ女子ではそう呼ぶ人も居た筈だし、尾棘とはまた違った方向性の人材として、ファンクラ設立を考えているような連中は雫紅ちゃんなんて言っていた気もするが。


「善処してね?」

「……………」


 おぼこい目をきゅっと細めながら口元をほころばせる。


「私の話はこれでおしまい。ごめんね、さえぎっちゃって。颯希はなんだったの?」

「……あ、ああ、俺な」


 心の準備が出来てないまま名前で呼ばれ心臓がぜそうになる。

 言い方変えるって聞いたけどいきなりはやめてほしい。

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