第32話 女奴隷

 皇子とその妹は傷病室から廊下に移動した。傷病室は〈皇帝の宿〉の一階と三階に複数ある。よっぽど重症じゅうしょうで、階段を上がるのも命に危険が及ぶ者だけが一階の病室に運ばれるのだ。二人はリー・トマスのいた部屋はうっちゃって、他の傷病兵たちの見舞いに行くことにした。


「父上とトマス卿は何を話してたんだ?」

 アレックスが早々に隣の部屋に入っていこうとするリリィを引き止めて言った。明らかに義兄は狼狽ろうばいしていた。


「わからないわ。明日にはメアリーとアビゲイルを連れてエル城に帰りたいっておっしゃってた。お父さまは止めようと説得なさっていたけれど」

 リリィが声を低める。


「なぜそんな急に……」

 アレックスが我を忘れて口走った。


「問題はメアリーじゃなくて、アビゲイルだそうよ。それ以上は聞けなかったわ。あの人、アビゲイルと結婚しなければよかったっね言ったのよ。メアリーとアビゲイルが可哀想かわいそうだわ」


「あんまりだ。宮廷を離れてエル城に行けば、あの人は絶望のあまり死んでしまうだろう」


 メアリーが宮廷を離れるようなことがあれば、相当そうとうこくなものになるに違いない。お父さまが気難きむずかのトマス卿を説得できたらいいけれど……!


 それにしても、アレックスの表情には何か鬼気迫ききせまるものがあった。普段の穏やかな兄に似つかわしくない。


「でもきっと大丈夫よ。お父さまがなんとかしてくださるわ。トマス卿だっていっときの気まぐれよ」


 リリィは兄があんまり恐ろしげな顔をするものだから心配になった。海の向こうへ遊学に行く前には見せなかった、真っ暗な表情である。


「リリィ、お前にはこれがどれほど深刻なものなのか、わかっていない。お前やメアリーには今まで言わずにきた。もし、噂が立てば、秘密が露呈ろていすれば、二人がどれだけ傷つくことか」


「アレックス、私はもう十五になるわ。秘密はメアリーとアビゲイルのために守る。真実を教えて」

 リリィは真摯しんしにアレックスを見た。


「イリヤでは奴隷市どれいいちおおやけに禁じられている。だが、隣国のエイダでも、海の向こうのドレントや大陸でも奴隷は多くいるし、野蛮な王が奴隷市を推奨すいしょうすることもある。

 

 アビゲイルはエイダで、まだ子どもだった頃に奴隷商人にさらわれて、ある裕福ゆうふくな貴族のもとに売られた。そいつは高貴な身分に生まれながらも、残酷で見下げ果てた根性の持ち主だった。アビゲイルがつらい境遇だったのは言うまでもない。暗い少女時代だった。


 十年ほどその主人のもとにいたが、ある折にトマス卿と出逢い、身請みうけされたわけだ。アビゲイルは新しい主人の領地についていき、やがて身籠みごもって女の子を出産した。リーは当初アビゲイルを正式な妻にするつもりなどなかっただろう。だが、女奴隷は我らが親愛なるの目にとまり、リーはアビゲイルを皇妃の侍女として譲り渡すか、婚姻関係こんいんかんけいを結び、皇女の乳母にするかの二択を迫られた。結局、彼は美しい女奴隷を妻にめとり、宮廷に出入りさせるようにしたのだ。


 だが、ヘレナにもどうにもできなかった問題が残った。アビゲイルの過去とメアリーの出自しゅつじのことだ。奴隷たちは、特に、その内の女たちは想像を絶する虐待ぎゃくたいと暴力にさらされてきた。宮廷では知られない方が良い過去だ。もし、噂が立てば、メアリーの名誉に一生の傷がつく。結婚にも支障ししょうをきたすはずだ」


 アレックスはアビゲイルの身の上話をしてる間、静かで正義感に満ちた声を保った。話し終えると、目を伏せ、廊下の遠くの方に視線をとばす。廊下の先には曲がり角とありふれた甲冑かっちゅう以外何もなかった。


 リリィはアビゲイルにそんな壮絶な過去があろうとは思いもしなかった。背がすらりと高く、いつでも優しく、美しい赤毛のアビゲイル。まるで母そのもののような人だ。言うべき言葉が見つからない。胸が痛くなった。


「もしリーがアビゲイルをめかけの身分におとすようことがあれば、メアリーの将来だって危ないんだ……」


 そう言った時の兄の表情は、切ないほどに優しいのだった。

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