第33話 正妻の愛人

 帝国内では婚姻と男女関係に関する厳格げんかくな取り決めがさだめられていた。まず一夫一婦制いっぷいっぷせい。結婚したならば、一生一人の相手と添い遂げよ、という道理である。


 抜け道はあった。夫の場合、妻を複数持つことはできないが、愛人やめかけなら、慣習上、容認されている。貴族の妻の場合、夫ほど自由というわけにはいかないが、男児を産み、後継ぎをつくった後なら愛人をもつことができた。たまにだが、痴情ちじょうのもつれで、夫と愛人で決闘沙汰けっとうざたになったり、妻殺しが起こったりすることもある。離婚だって、男側から申し立てた場合、容易にできるのだ。


 リリィには先ほどのアビゲイルの身の上話を聞いても、理解できないことがあった。後ろ盾のない未婚の娘の危うさである。法律も慣習も子を持たぬ女性の味方ではなかった。


 皇女は混乱したまま、それ以上アレックスに聞けないで、傷病兵たちの見舞いにまわった。重症の患者は多くない。大体が隣の床に横になっている者に軽口かるくちを叩いて陽気に振る舞っていた。


 リリィは一人一人の病床びょうしょうをまわり、声をかけていった。父の代わりにお礼を……。名誉のきず。犠牲。英雄的行為。仰々しいけれど、お粗末な言葉。


 兵士の一人一人がリリィにうやうやしく接した。病室で皇女は天使のように見えたに違いない。実際、兵士たちみんなが皇女の登場に胸を打たれていた。

 

 一階の重症患者たちの見舞いは試練だった。瀕死ひんしの者、脚が切断された者、目のつぶれた者、見えない敵に向かって吠え続ける者、あまりの痛みに痙攣けいれんする者……。目の覆いたくなる光景である。血の匂い、腐敗臭がした。彼らの前に立って、かける言葉も浮かばない。


 ある男がいきなりリリィの腕を掴んで言った。血のにじんだ包帯を目に巻いている。

「看護婦さん、俺は死ぬんだろう?死ぬんだろう?目も見えなくなって、腰だって骨ごと砕けちまった。一生食ってかれない。立ち上がることだってできない。俺は死ぬんだろう?体じゅう熱くって考え事だってできないんだ。どうか死ぬんだと言ってくれ」

 男はリリィをつかんで離そうとせず、哀願するような、啜り泣くような声をだした。


「包帯ですよ、視界を遮っているのは。あなたはまた自分の足で立てますわ。お願い、希望を失わないで」

 リリィはかすれた声で言った。


 傷病室の端の離れた場所に、一見無傷に思われる男が寝台の上で座っていた。医者は彼が精神錯乱に見舞われていると教えてくれた。何時間も、水もパンも食べずに宙を見つめているのだと言う。女中や看護婦を捕まえて、仲間が死んでいった様子を事細かに語る。どういう風に家族や恋人の名を叫んだか、戦友の内臓が出てきて、体の外と中がひっくり返ってしまったこと。聞くもおぞましい話だ。


「いやだわ、戦争なんていやよ」

 傷病室から退室し、廊下をしばらく歩くと、リリィはたえかねて、突然泣き始めた。アレックスが静かにリリィを抱きしめる。優しい思いやりに溢れた抱擁だ。


 だが、アレックスは知っていた。犠牲なくして帝国の繁栄はない。父は戦争をやめないし、自分だって必要とあらば、剣をぬき、名誉の遠征に行くのだ。

 兵士たちは涙を流さず、代わりに皇女が泣いた。

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