第16話 戦争のない人生

 皇女は衣装部屋に残って、メアリーの夜会の準備を手伝うことにした。もっとお喋りがしたかったのだ。


 メアリーは慣れた手つきでどんどん準備を進めてゆく。ガウンを脱ぎ、鏡台の前に座る。白い豊かな胸が下着の中からのぞいた。メアリーは鎖骨さこつのあたりを物思わしげに見ている。鼻歌を歌いながら髪をとかす。髪は一回くしを通しただけでつやが出た。首筋と髪に香水をふりかけ、鏡の中からウィンクをよこす。リリィには何故なぜこんな混沌とした部屋で、テキパキと準備を進められるのかわからなかった。メアリーは着こなしがいい。化粧も上手だ。そばかすの散った青白い肌が、たくみな化粧で薔薇色ばらいろの頬に生まれ変わる。舞踏会では男性も女性もメアリーに視線が釘付けだ。


「今夜はマットに会う?」リリィがたずねた。

「彼、夜会に招待されてる?」メアリーが質問で返す。

「いえ」

「じゃあ会わないわ」


 メアリーをジュリア・テディアの夜会に送り出すと、自室に戻った。寝室は静かで寂しい。寝台の上にいばらの植物模様のガウンが置かれている。アビゲイルが命名日に着ていくドレスの見本に、と送ってくれたのだろうか。


 蝋燭ろうそくにあかりをともし、書見台の上に羊皮紙と羽根ペンを出した。ペンの先を赤いインクに浸し、心のうちをつづってゆく……



 私には夢があった。自由と冒険の船出ふなでに、人魚たちの歌声。未開の地に火を吹くドラゴン。の船には嵐も襲ってくるだろう。そうして多大な犠牲を払うだろうが、最後には完璧で幸せな結末が用意されているはずだ。旅の途中で「永遠の恋人」なる人に出会うかもしれない……

 夢を信じきれないとき、とてつもなく苦しい。ひとりぼっち。孤独で、人生もよろこびも何もかもわからなくなる。



 アビゲイルが部屋に入ってきた。今日は美しい赤毛をい上げずに垂らしている。リリィは弾みでインクを紙の上に散らしてしまった。気にせずに羊皮紙を引き出しにしまう。


「一人なのね。他の子たちとは喋らないの?」

 アビゲイルがリリィの乱れた髪をなおしてやって言った。


「今日は傷病兵のお見舞いに行くの。お父さまとの約束で」


 帝国のために戦った傷病兵の見舞いは皇帝と皇女の義務である。愉快なものではなかった。国の多大なる犠牲ぎせいと戦争の惨状さんじょう厳粛げんしゅくに受け止めなければならないのた。


「舞踏会のガウン、悩んでるわ。メアリーと相談して決めるの。お母様のお眼鏡めがねにかなわないと駄目ですもの。メアリーなら上手くやれるでしょうけれど……」


 不意にアビゲイルが普段と何か違うような気がした。落ち着かなげで、目が異様な光を放っている。はたから見たら、錯乱さくらんしているようにも見えたかもしれない。


 アビゲイルはリリィの困惑した表情に気付くやいなや、何も言わずに部屋から出ていってしまった。ふらついた足で慌てて。


 背筋に悪寒おかんが走った。アビゲイルの様子から言い知れぬ恐怖が伝わってきた。



 戦争はずっとリリィの近くにあった。たとえイリヤ城から出ることが許されず、戦士として武器をとることがなくてもだ。男の子たちは戦争や武器の話ばっかり。父のリチャードは貴族や軍人たちと常に鼻をつきあわせている。男たちは戦争の土産みやげに分捕り品を持って帰ってきた。父やアレックスが戦争に行っていない間の不安と寂しさ。


 戦争は男の聖地だった。だが、女たちの生活もまた、戦争を中心にして回っている。


 リリィは礼拝堂の中に入った。冷たい石の長椅子が何列も並んでいる。たいそう大きな銀製の燭台しょくだい蝋燭ろうそくには火がともされているが、司教の姿は見当たらず、無人のようだ。礼拝堂の天井は高かった。椅子に座って鮮やかな色遣いの天井画を見上げる。「裁きの神」の絵だ。天秤てんびんを右手に、剣を左手にもつ神……。神の人がまとうころもの赤が印象的だ。


 皇女は急におごそかな気持ちになって、祈るふりをした。お香の匂いがする。礼拝堂で人魚や魔女のことを考えた。祈るふりをして魔女のことを考えるなんて、不埒ふらちだろうか。


 背後から重々しい足音が聴こえた。リリィか面を上げ、振り向く。父だった。王冠をかぶり、青の絹地のマントをまとっていた。


「お父さま」リリィは立ち上がって、父の差し出した腕を取った。


「何を祈っていた?」

 リチャードが聞く。

 リリィは父が自分を誇らしげに見ているのがわかった。


「人魚を一目でいいから見たいって思ってるんです。それに私たちの繁栄はんえいのことも……」

 リリィの視線は遠いどこかを彷徨さまよった。


「私たちの繁栄か……。じきお前も結婚してここを出る年齢としだ。だが今日はいい。外で護衛ごえいが待っている。行こう」


 皇帝とその娘は夕闇の中に出て行った。

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