第14話 天文台の塔の上で

 アレックスは約束通り、密会の場所に天文台を選んだ。天文台は〈皇帝の宮〉や〈皇妃の館〉から遠いので人目につきにくい。

 護衛役の従者エドとは天文台の下で合流した。エドは文字通りリリィをお姫様扱いする。うやうやしい青年だ。


 天文台の上には白くまるい月が浮かんでいた。兄に付き添われて螺旋階段らせんかいだんを登ってゆく。上にたどり着くまでに、とてつもなく長い時間が過ぎたような気がした。


 天文台はイリヤ城の中でもっとも高さのある塔である。リリィは一度も足を踏み入れたことがなかった。そもそも人の出入りが滅多にない建物である。下仕えの者も勝手に入ることはできない。掃除や身の回りの世話はもっぱら学者の弟子たちが担当していた。噂によると、天文台には世捨て人の天文学者がいるらしい。リチャードがその天文学者をからかくまっているという話もある。


「アレックスの先生に会うの?もしかして夜中にしか起きてないのかしら」

 リリィが鈴の音のような声を出した。


 アレックスの家庭教師の一人がその学者だった。だがら二人は天文台に立ち入ることができるのだ。教師の専門分野を考えれば、皇子が夜更けに訪ねてきたとしても不思議はない。


「いや、生憎あいにくだけど、僕の先生は男だ。それに間違っても父は魔女を僕の家庭教師に雇わない」

 アレックスが正論を言う。


「じゃあどんな人なの?名前は?」

 リリィは好奇心を抑えられなかった。眠気が取れてきたのだ。


「魔女は魔女です、姫君」

 わきからエドが言った。


「でも魔女にだって名前があるでしょう?」

 リリィは納得できなかった。エドの言い分では何の説明にもならない。


「リリィ、魔女には名前はないんだ。もしあるとしたら、罪なき人から盗んだ名前だ」

 アレックスが断固とした口調で言った。リリィもそれ以上追及しない。兄の厳しい声に驚いたのだ。

 

 三人は階段の一番上まで来ていた。リリィはエドの手をぎゅっと握った。エドは果敢にもリリィに笑いかけて、手を離さないでいてくれる。


 塔の上は吹きさらしだった。天井もなく、四方の壁もない。

 満天の星が空に輝いていた。夜風が吹いている。昼間なら、この塔の上からイリヤ城の全景や海と断崖、〈王の森〉やさらにその先まで見えたことだろう。だが、夜の景色もなかなかの絶景だった。満天の星々に、赤い断崖と黒く光る海、海、海……。海がどこまでも続いている。海は鋭利な黒曜石のナイフのようだった。

 

「魔女が来るまで少し時間がある。眺めを楽しもう」

 アレックスが言う。

 リリィは壮麗な眺めに胸が熱くなった。言葉も出ないくらい……


 天文台の中央には、灰色の、ざらざらとした石造りの望遠鏡が設置されていた。リリィは物珍しさに兄のそばを離れて駆け寄る。


 望遠鏡は巨大だった。六歳のリリィの七倍ほどの幅と高さがある。天文学者のその弟子たちは天体観測に夜な夜なやってくるのだ。星空をのぞき込むには、この巨大な望遠鏡の中に入って、さらに階段を三段上がらなければならない。


 不意に背後で扉の開く音がした。魔女の到着だ。アレックスとエドの顔に緊張が走った。


 魔女は二人の衛兵に囲まれていた。アレックスが手配しておいた案内係である。魔女の顔は目深まぶかにかぶった頭巾ずきんでまともに見えない。


「妹だ。丁重に扱うように」

 アレックスが前に進んで言う。


「噂の皇女だね」魔女がしわがれた声で切り出した。「まるでお姫様だ。優しいお兄さまと衛兵たちに囲まれてね。きれいな瞳をしているよ。罪のない澄んだ瞳だ。この瞳は皇帝にも皇妃にも似ていない。アレックス、あんたにも似ていないが……」


 アレックスは魔女の曖昧な物言いに顔を険しくした。得体の知れない人物に謎かけされるのは不愉快なものだ。


「リリィ、こっちにおいで。そう男たちに囲まれていては、ろくに話もできない。あんたの小さいきれいな手を貸してくれないかね」


 リリィは兄たちを振り返った。アレックスがうなずく。恐る恐る魔女に近づいて手を差し出した。しぼんだ目がこちらをのぞく。恐ろしかった。両の目の色が違ったのだ。黄色と黒色。あやしげに光って、一時もリリィから視線をらさない。獲物を前にした猟人かりびとのように。


 思いがけず、老婆の手は湿っていた。

「あなたが魔女?」

 リリィが聞く。予想した通りの姿ではあった。吟遊詩人のうたや童話に出てくるような魔女である。


 おののいていたはずが、魔女の目を見ると恐怖がしぼんでいってしまった。もう怖くない。それどころか、不揃ふぞろいの目を見ると、ずっと前から友達だったような気さえする。リリィは言葉を交わす前から魔女に共感し、すっかり信じ切ってしまった。


「魔女だとも、お嬢さん。悪いことはしないがね」

 しゃがれ声で答える。


「もちろん、貴方あなたが悪いことなんでするはずないわ。だって、あなたと私は友だちなんですもの。私、あなたが大好き。ところであなた、名前はなんて言うの?」

 リリィが息を弾ませて言う。俄然がせん頬が赤みを帯びた。


 魔女は表情のない顔でしばしの間、リリィを見つめた。何かをためらっていたのだ。

 老婆は身振りでリリィにもっと近くに寄るよう伝えた。


「今日は教えられない。こんな大勢いてはね、全然だめだよ。だがいい。お姫様はこのわしとまた会うだろうからね」

 魔女が耳もとで囁いた。

 

 リリィが身震いして魔女を見つめた。


 アレックスはをエドと共に先に寝室へ帰した。妹が魔女に魅了されているのに気づいて、耐えられなくなったのだ。

 リリィは帰る道すがら何度も魔女の方を振り返った。胸が張り裂けそうなほど悲しく、切なかった。

 

「また会えるよ。皇女さま」

 振り返るたび、魔女が片手をあげる。


 妹が天文台からいなくなった途端、アレックスは魔女に詰め寄った。一体妹に何をしたのか、洗脳でもしたのか。それとも怪しい魔術でも施したのか。

 

 魔女は一瞬よろめいた。戦い盛りの若者に攻撃されては太刀打ちのしようがない。


「魔術なんて。そんなものしていないよ。あの子には見えないものを見抜く力がある。あんたと違って、目が澄んでいるのさ」

魔女はそう言うと不敵の笑みを浮かべた。


 

 アレックスはその晩に目当ての秘薬を受け取った。リリィには二度と会わせないと言ったが、魔女に気にするような気配はない。これからは皇女を魔女から守らなければならない。魔女に近づくことのないように。


 朝起きるとメアリーの枕元に小瓶が置いてあった。飛び上がってりんごの木の下に行く。アレックスが木の上で悠然として笑みを浮かべていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る