第9話 ラム酒にまつわる秘密

 イリヤ城に帰った途端、皇子とメアリーの間の気まずい空気はとけてなくなる。メアリーは覇気はきをとり戻りして饒舌じょうぜつになり、アレックスはメアリーを「単なる妹の親友」として如才なく扱うはずだ。イリヤ城ではアレックスとメアリーの仲を気にかける者はいなかった。むしろトルナドーレ兄弟とメアリーの仲の方がみんなの関心の的だったのだ。


 ジョンはメアリーの特異な考え方や行動をあげつらってはからかうという悪い癖があった。メアリーは全く無視するか、達者な口で言い返してジョンを鼻で笑っていたが、本音では鬱陶しく思っていたはずだ。ところがなんとも厚かましいことに、ジョンは舞踏会の度にメアリー嬢のエスコート役に申し出るのだ。それが撥ね付けられると今度は宮中、一曲だけでも踊ってくださいませんか、と慇懃いんぎんな口調で誘ってくる。さすがのメアリーももっともな理由なしにダンスの誘いは断れなかった。


 メアリーは抜け目がなく、道化じみたところのあるジョンよりも弟のマティアスの方が好きだった。マティアスとは波長があったのだ。それに彼はメアリーの傷つきやすい自尊心も理解していた。


 ジョンも可哀想に!いつも弟よりも先にエスコートを申し出るのに、メアリーがエスコート役に選ぶのはマティアスの方だ。だが、ジョンはそんなことで落ち込まない。メアリーもいつか青二才のマティアスなど飽きて、大人の男の魅力に気づくさ、などと言ってたかを括っている。ほんの一歳違いなのだが。とにかく、ジョンの根拠のない自信のおかげで険悪な兄弟喧嘩を避けられたのだ。


 ある冬の日、メアリーとリリィは皇女の私室でぼんやりと、将来の夢や行ってみたい場所などについて語らっていた。外は雪が積もりに積もって、身をさすような寒さである。リリィは外の寒さなんか知らずに暖炉の近くの地べたに座ってぬくぬくとしていた。


 不意に窓に何かぶつかる音がした。軽い音だ。メアリーが即座に立ち上がって、両開きの窓の近くに行く。また、何かが当たった。メアリーが怪訝けげんな顔をする。リリィはいきなり好奇心を覚えた。何か素敵なことが待っているような気がした。皇女の目が俄然がぜん生気を帯びキラキラと輝く。


 メアリーは思い切って窓を開けた。

「いやだ」

 メアリーが弾けるような声を出す。同時にピューピューと音を立てて、寒風が部屋の中で吹き荒れた。思わずリリィが身をすくめたほどの寒さである。

 メアリーはかまわずこちらを振り返って笑みを浮かべた。

 すると窓の外から、白い雪玉が飛んできた。雪玉が赤い絨毯の上に落ちて粉々になる。


「来て、マティアスよ」

 メアリーがクスクス笑いながら言う。リリィが窓辺に駆け寄った。

 外を覗くと、中庭からマティアスが大きく手を振っているのが見える。陽気な笑みを浮かべていた。二人も手を振りかえした。


「何してるのよー?」

 メアリーが叫ぶ。


「君たち〈崖の家〉に来なーい?」

 マティアスが叫び返す。

「無理よー!こんな雪なんですものー!」

「ラム酒があるよー!君たちのために手に入れたんだ!船乗りの飲み物が欲しいって言ってただろ」


 リリィは思いがけないラム酒の登場に、居ても立ってもいられなくなった。メアリーもリリィも船乗りにこれといった理由なしに憧れていたのだ。

 マティアスの提案は魅力的だったが、危険すぎた。〈崖の家〉に行けば確実にアレックスに会えるだろうけれど、来る途中に雪に埋まって窒息死でもしたらシャレにならない。

 今度はメアリーが無茶を言う番だった。マティアスにラム酒を持って〈皇妃の館〉のリリィの私室に忍び込むように言ったのだ。マティアスは既に酔いがまわって高揚状態だったし、リリィだって二人を止めようとはしなかった。


 皇女の私室に侵入するのはわけないことだった。マティアスは怪しまれる身分ではないし、皇女の私室の前には衛兵が配置されていないのだ。


 マティアスは大して苦労することもなく部屋にたどり着くと、少女二人の抱擁と嬌声で迎えられた。が、睡魔にやられてしまうのもあっという間だった。長椅子の上に毛皮の毛布をかけて寝かされ、後はメアリーとリリィがチビチビとラム酒を飲むだけだ。


「私、アレックスを愛してるわ」

 出し抜けに、メアリーが言った。リリィは驚いた。メアリーは酔っているに違いない。そうでなければ、アレックスへの恋心を告白できるわけがない。

 メアリーはうつむいて、男女の人魚が描かれた絨毯を睨んでいた。正気を失っているようにも見えた。ゾッとするほど暗い目をしている。だが、あまりに切羽詰まった様子で悲しそうなので、リリィは下手なことが言えなくなってしまった。


 メアリーはその晩話したことを翌朝には綺麗さっぱり忘れていた。リリィは敢えて思い出させようともしない。ただ胸の中に秘めて、メアリーの恋を見守ることにした。



「私にしてみたいことがあるとすればね、それは恋よ。侍女たちだってみんな恋してるのに、私はまだ一度もしたことがない」

 義兄との乗馬中、リリィが唐突に言った。

 昼下がり、太陽がまぶしくて目を細める。春の匂いがした。〈競技場〉近くの中庭の、道脇に黄色いたんぽぽの花が咲いている。リリィは横掛けの婦人用のくらには乗らず、またがって乗馬していた。馬のひづめの音と、腹にくる振動が心地いい。


「お兄さまは恋したことがあって?」

 リリィがはにかんで聞く。


 アレックスはいつにましてもハンサムだった。こんがりと焼けた肌と、優雅に馬を乗りこなす姿。太陽に目を細める仕草だっていい。

 皇子は最愛の妹と乗馬に来れて上機嫌だ。最近はリリィと過ごそうとしてもヘレナの邪魔が入ることが多い。皇妃はアレックスもリリィもそれぞれ別に憎んでいたけれど、二人が仲良くするのはもっと許せないことらしい。リリィはアレックスと一緒にいたことが伝わると、わざわざ皇妃本人に責め立てられるのだった。アビゲイルでさえ皇女がアレックスに会うのを止めようとする。


「恋は喜びや幸福よりも苦難の方が大きい。リリィの考えているようなものなんかじゃない。砂糖菓子のような……。全然違うんだ。こんなこと話してもわからないだろうけど!」

 アレックスの顔に苦痛のかげがよぎった。だが、リリィには兄が幸福そうに見えた。恋の痛みなど愛し愛されることの悦びと比べたらないも同じ、というように。進んで愛の生贄いけにえに身をささげていたのだ。


 リリィは胸が痛くなった。アレックスには愛するひとがいる。それもきっとメアリーではない……


「じゃあ今愛する人がいるのね?」

 さりげなく探りを入れる。

「いるかもしれないさ」

 アレックスが弾んだ口調で言う。まるで今恋していることを暴露しているのと同じ返事だ。

「逆にリリィにも恋してる相手がいるのかい?」


「まさか、いないわ。でも侍女たちが自分たちの恋人のことばっかり話すから」

 リリィがしどろもどろになって答える。なぜアレックスの質問がそんなに恥ずかしいのか分からなかった。恋した本人というわけでもないのに。


「それはちょっと興味深いな。侍女たちにそんなに秘密の恋人がいるなんて」

「あら、秘密にしてるわけじゃないと思うの。だって悪いことは誰も何ひとつしてないんだから。ねえ、お兄さまは侍女たちのうちだったら、誰を恋人に選ぶかしら。教えてちょうだい」


 アレックスが悪戯っぽい顔をした。妹からこんな質問がきたのが面白かったのだろう。

「みんな素敵なお嬢さんさ。彼女たちに交際を申し込んだところで、継母殿に差し止められるのがオチだろうけれど」

 アレックスはのらりくらりとして、中々なかなか答えない。


「仮定の話よ。たとえばメアリーなんか。可愛いし舞踏会では引っ張りだこじゃない?」

 リリィは親友の一番の秘密を露呈ろていさせるのではないか、と胸がドキドキした。うまくいけば恋のキューピッドになれるのだけど……


「メアリー?」

 アレックスの面持ちが変わった。おどけた調子がなくなって一瞬考え込むような顔をしたのだ。

「赤毛のあの娘……。そりゃあメアリーは魅力的だよ。残念なのは僕と親しすぎることくらいだなぁ」

「赤毛が好きじゃないの?今はメアリーだって金髪よ」

 リリィが悲しそうな声を出す。

「赤毛は好きだよ、母上の命に誓って。だけど、メアリーと僕は合わない。彼女だって崇拝者に囲まれて、相手はだ。僕のことは眼中にないし、別に魅了する必要もないだろ。ジョンなんて婚約者がいるのに彼女に熱を上げている」

 なぜかアレックスは後ろめたそうな顔をした。

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