第8話 犬にまつわる惨めな思い出

 リーは狩猟用のハウンド犬と城の中庭に生えるりんごの木々をこよなく愛していた。人よりも物言わぬ犬が、芳しい香りを放つりんごが好きなのだ。

 

 エル城にはハウンド犬が全部で十三匹いる。そのどれもが主人に忠実だった。


 ところがメアリーはこの図体のでかい犬たちが大っ嫌いなのだ。犬たちは人懐っこくて、メアリーが逃げ惑って悲鳴をあげても構わずじゃれついてくる。ハウンド犬に出会ったら最後、ガウンやマントは毛だらけ、レースはズタズタ、顔は犬のよだれでひどい有り様だ。


 あれはメアリーが五歳の誕生日を迎えた日だった。その日はエル城の自室で乳母とお人形遊びをしていた。お人形はエル城には帰らず、イリヤ城でリリィと過ごしているアビゲイルからの誕生日の贈り物で、メアリーは至極ご機嫌だった。丸っこい頬に赤胴色の巻き毛のそのお人形はとても可愛らしかったのだ。


 朝届いた贈り物を夕方まで肌身離さず持っている。腕に抱いて、お歌を歌ってやったり、美しい髪の毛を櫛でといたりした。


 乳母がお嬢さまのお相手に疲れて、船を漕ぎ始めた頃。メアリーも眠気を覚えて、お人形の寝かしつけにかかった。


 ところが一瞬の出来事。部屋の扉がギーっという音を立てたかと思うと、勢いよく開いて、大きなハウンド犬が飛び込んできたのだ。乳母は寝ていてメアリーには成す術がなかった。


 あわれ赤毛のお人形はハウンド犬に誘拐された挙句、斬首されてしまったのだ。 


 無残な姿で人形のお友達が返ってくると、メアリーは泣いてしまった。乳母がメアリーの泣き声を聞きつけて慌てて起き上がったけれど、後の祭りだ。人形は元には戻らない。


 メアリーはこの日から犬のことが嫌いになった。

 


 皇帝の領内には〈王の森〉と呼ばれる主に狩猟用の森があった。所有するのは皇帝なのに、「王の森」とは変な名前である。


 リチャードはこの森の管理をリー・トマスに任せていた。節度を守りさえすれば狩猟だってしていい。リーの狩猟好きをよく知っていたのだ。


 アレックス皇子は、用事のない日などに森に出掛けては、リーと鹿を追い回したり、「男同士の会話」を小屋の中で楽しんだりした。


 秋頃、メアリーは父の城に使い古した長持ちと共に帰る。メアリーの祖母の祖母の代から使われてきたものだ。長いひとりっきりの旅路、狭い馬車の中、その長持ちにもたれかかって眠る。うっかり窓を開けて寝ようものなら、赤い砂ぼこりが横顔に積もって大惨事になる。次の日には、半顔が乾燥してひび割れだらけになるのだ。


 秋の帰省はヘレナが決めたことだった。ヘレナはリーとメアリーの親子を気に入っていた。親子仲を深めようという魂胆があってこんな提案をしたのである。当のリーはヘレナが苦手だった。だが、拒絶の仕方がごくささやかなので、ヘレナもリーに嫌われていることに気付かない。妻や娘、果ては皇女にまで、不躾ぶしつけな態度を取るリーが、なぜヘレナには最低限の礼儀を守ったのか、一見不思議なものである。だが、リーもヘレナに嫌われればイリヤでの地位が危なくなるのがわかっていたのだ。彼も馬鹿ではない。皇妃に嫌われたらイリヤの貴族社会では名前がなくなるも同然、反対に出世しようとするならば、皇帝に好かれるよりも皇妃のお気に入りになった方が早いのだ。



 夏の終わり、リリィは馬車に乗って去ってゆくメアリーを見送る。メアリーは道中での汚れを見越してか毎年、灰色の地味なドレスを着ている。アビゲイルもお見送りに来ていた。滔々とうとうと注意を言い聞かせることもなく、「自由を謳歌おうかしてきなさい。お父様の話し相手になってあげるのですよ」などと言う。


 アビゲイルの助言は無意味だった。リーは娘との時間も会話もまったく望んでいない。メアリーが到着したのを確認できただけで、挨拶もせず、〈りんご園〉に閉じこもってしまうような父親だ。


 メアリーの家はエル城ではなく、イリヤ城なのだった。父の城での生活は快適ではなかったし、話し相手もいない。メアリーは誰か自分のことを誉めそやしたり、自分の行動に感銘を受ける人がいてこそ満足するような性格である。エル城での生活は苦痛でしかないのだろう。


 父は自分のことも母のアビゲイルのことも愛せない冷たい人間なのだ、と枕を濡らすこともあった。ひたすらリリィやヘレナが恋しい。煙でくすんだ大広間での食事が懐かしかった。


 暇つぶしに塔の上に上がって、窓から景色を覗いてみても、見えるのは鋭利な山々と霧、エル城の巨大な石門だけ。

 門は並の城壁ほど高く、堅固で、開閉には何人もの男たちの手が必要だった。メアリーはこの石門が開く音で早朝、午睡の時間に目が覚める。リーが狩りに行き、狩りから帰ってくる音である。


 いたずらに皇女への手紙をしたためることもあった。召使いの少女を呼んで話し相手にさせようともする。ところが、この少女でさえ、仕事に忙殺されていたのでメアリーの遊び相手になってやれないのだった。

 あとは我と我が身を嘆くか、鏡の前に立ってどのドレスが一番自分をひき立てるかを吟味するしか、やることはないのだ。



 エル城でメアリーが唯一、心躍らせるのはアレックスが来てくれた時だけだ。〈王の森〉からイリヤ城への帰路に寄ってくれるのだ。リーとアレックスは懇意こんいの仲だった。狩猟の季節には、リーの招待を受けて、アレックスがエル城に数週間ほど滞在することもある。メアリーはアレックスと共に回廊を散歩するのが好きだった。


 十五歳の誕生日を迎えた日のこと。今から三年近く前のことである。

 メアリーは誰にも祝いの言葉もかけられず、中庭まわりの回廊で立ち尽くしていた。中庭には父が手塩にかけて育てた、りんごの実がなっている。鮮やかな赤色のや青リンゴがずっしりと、たわわになっていた。甘ったるい匂いが鼻につく。中庭に入ることはなかった。父の大事なりんごの木があるから。りんごを傷つけて父を怒らすといけないから。

 まったくの独りぼっちだ。エル城でメアリーのことを気にかける人なんていない。どうやらメアリーは「エル城の令嬢」ではないらしい。リーの一人娘だというのに。


 肌寒くほこりの舞うこの城で、皇子の気を引こうとする。猫のように移りげな瞳にさらさらと流れてゆく金髪。胸から腰にかけての素晴らしい体つき。肩と肩が触れ合っては離れる。試しにギョッとするような奇抜なことを言ってみせる。皇子はそれに驚きもせず、穏やかだがユーモアの一つも混じえない返答をする。メアリーの派手好きで突飛とっぴな性格に慣れっこなのだ。


 アレックスに恋していた。皇子に恋するのは当然のことだ。皇帝の嫡男ちゃくなんである。ハンサムで理性的。国中の令嬢たちの目はアレックスに釘付けだ。若いイリヤ娘たちの一番の花婿候補である。メアリーが一番のものを欲しがるのは、何も恋人や花婿の話だけではない。

 

 とはいえ、仮にアレックスが好いてくれたとしても、皇子と家臣の娘の恋愛は許されはしない。ただのたわむれ程度の恋だ。それでも彼が好きだった。善良でハンサムな彼が。


 彼らしい配慮と思いやりの隙から、無関心さがのぞく。妹の親友への愛情より他のものは読み取れなかった。


 激しい慕情ぼじょうで胸をこげつくしていても諦めなければならなかった。こんな風に一方的に想い続けるなんて惨めだ。

 それでもメアリーは傷ついた恋心を無視してアレックスに会い続け、彼を振り向かせようとした。結局、愛していたのだ。


 アレックスが現れるのを待って、回廊をさまよい歩いていると、りんごの甘い、芳香が匂った。その度、苦い失恋が胸に焼きついて、喉の奥がつっかえるような感覚がする。


「いつもこの繰り返しね」

 ある時、メアリーは回廊のアレックスの隣でつぶやいた。

 毎年秋が来れば、この愚かな恋を繰り返す。無為に期待して、向こうになんら特別な感情などないことを思い知って。

 アレックスは拒絶の仕方さえ優しいのだ。その善良さに嫌気がさす。いっそ悪い男だったらいいのに。


「君はここが気に入らないんだな」

 アレックスはメアリーの独り言を別の意味に解釈した。メアリーはエル城に来ると塞ぎがちになり、アレックスの前では余計に口数が少なくなる。

 メアリーはイリヤ城にいる時のように、アレックスがうちとけた、屈託のない態度をしてくれればいいのに、と願った。妹かなんかのように軽口を叩いてくれたらいい。こんな表面を滑るような、他人行儀な会話なんて!


 彼は上半身には白いチュニック一枚だけを着ていた。乗馬の帰りだと言っていたっけ。チュニックは湿っている。汗の匂いがした。未知の、まったく知らない他人の匂いだ。実はメアリーには縁もゆかりもなく、思い慕うことさえも禁じられている男の匂い。

 メアリーはその匂いに、落ち着かない気持ちになり、胸騒ぎさえしたほどだった。


「ここは退屈だわ。もちろんあなたやリリィにとっては魅力あふれる場所なんでしょうけれど。近くには優美な鹿が舞う森があるし、山の冷たい空気は己を鍛錬たんれんするにはうってつけですもの」

 メアリーが気怠げな声色で言った。


「その通りさ」アレックスが急に活気付いて言う。「もったいないなぁ。妹だったら大喜びで来るだろうに」

 メアリーはリリィを恨みがましく思った。アレックスはメアリーなんかよりリリィのことの方がずっと大切なのだ。その瞬間、アレックスが大っ嫌いになった。


「リリィはどうなるのかしら」

 悲しいのを押し殺して話を続ける。

 ところがアレックスはたじろいだように慌てて視線をメアリーに戻した。たぶんメアリーが食い入るようにアレックスを見つめていたせいだろう。


「僕には何も言えないな。父が決めることだから」

「私、リリィの侍女として、結婚した後も仕えるつもりよ」

「それは心強いな。でも妹といるのは退屈しないか」


 メアリーはちょっと微笑んだ。

「彼女とは気が合うのよ。お兄さま方には理解できないかもしれないけれど」


 メアリーはふとした瞬間にこの時のやり取りを思い出す。盗み見た彼の横顔や彼のにおい、それからりんごの香りと共に。

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