第15話 あまやかな匂い、胸の痛み

 エル城でメアリーが唯一、心躍らせるのはアレックスが来てくれた時だけだ。〈王の森〉からイリヤ城への帰路に寄ってくれるのだ。リーとアレックスは懇意の仲だった。狩猟の季節には、リーの招待を受けて、アレックスがエル城に数週間ほど滞在することもあった。メアリーはアレックスと共に回廊を散歩するのを好んだ。毎年秋ごろの恒例の習慣である。


 十五歳の命名日を迎えた日のこと。今から三年近く前のことである。

 メアリーは誰にも祝いの言葉もかけられず、中庭まわりの回廊で立ち尽くしていた。中庭には父が手塩にかけて育てた、りんごの木の実がなっている。鮮やかな赤色のや青リンゴがずっしりと、たわわになっていた。甘ったるい匂いが鼻につく。メアリーが中庭に入ることはなかった。父の大事なりんごの木があるから。

 まったくの独りぼっちだ。エル城でメアリーのことを気にかける人なんていない。どうやらメアリーは「エル城の令嬢」ではないらしい。リーの一人娘だというのに。


 肌寒くほこりの舞うこの城で、皇子の気を引こうとする。猫のように移りげな瞳にさらさらと流れてゆく金髪。胸から腰にかけての体つき。肩と肩が触れ合っては離れる。試しにギョッとするような奇抜なことを言ってみせる。皇子はそれに驚きもせず、穏やかだがユーモアの一つも混じえない返答をする。メアリーの派手好きで突飛な性格に慣れっこなのだ。


 メアリーはアレックスに恋していた。皇子に恋するのは当然のことだった。皇帝の嫡男ちゃくなんなのだ。ハンサムで理性的。国中の令嬢たちの目はアレックスに釘付けだ。若いイリヤ娘たちの一番の花婿候補である。メアリーが一番のものを欲しがるのは、何も恋人や花婿の話だけではない。

 

 とはいえ、仮にアレックスが好いてくれたとしても、皇子と家臣の娘の恋愛は許されはしない。ただのたわむれ程度の恋だ。彼が好きだった。善良でハンサムな彼が。


 すぐに彼の眼中にメアリーなどいないことを悟った。もちろんアレックスはメアリーに優しかった。夢中になって喋りすぎても辛抱強く最後まで聞いてくれるし、体調にも気遣ってくれる。アレックスは間違いなく好青年だった。いな、それ以上だった。帝国一の騎士で皇帝の世継ぎである。


 彼らしい配慮と思いやりの隙から、無関心さがのぞく。妹の親友への愛情より他のものは読み取れなかった。


 激しい慕情ぼじょうで胸をこげつくしていても諦めなければならなかった。こんな風に一方的に想い続けるなんてみっともない。何よりもメアリーの自意識がアレックスへの激しい想いを痛烈に批判するのだ。

 それでもメアリーは傷ついた恋心を無視してアレックスに会い続け、彼を振り向かせようとした。結局、愛していたのだ。


 アレックスが現れるのを待って、回廊を彷徨さまよい歩いていると、りんごの甘い、芳香が匂った。その度、苦い失恋が胸に焼きついて、喉の奥がつっかえるような感覚がする。


「いつもこの繰り返しね」

 ある時、メアリーは回廊のアレックスの隣でつぶやいた。

 毎年秋が来れば、この愚かな恋を繰り返す。無為に期待して、向こうになんら特別な感情などないことを思い知って。

 アレックスは拒絶の仕方さえ優しいのだ。その善良さに嫌気がさす。いっそ悪い男だったらいいのに。


「君はここが気に入らないんだな」

 アレックスはメアリーの独り言を別の意味に解釈した。メアリーはエル城に来ると塞ぎがちになり、アレックスの前では余計に口数が少なくなる。

 メアリーはイリヤ城にいる時のように、アレックスがうちとけた、屈託のない態度をしてくれればいいのに、と切に願った。妹かなんかのように軽口を叩いてくれたらいい。こんな表面を滑るような、他人行儀な会話なんて!


 彼は上半身には白いチュニック一枚だけを着ていた。乗馬の帰りだと言っていたっけ。チュニックは湿っている。汗の匂いがした。未知の、まったく知らない他人の匂いだ。実はメアリーには縁もゆかりもなく、思い慕うことさえも禁じられている男の匂い。

 メアリーはその匂いに、落ち着かない気持ちになり、胸騒ぎさえしたほどだった。だがそんな気持ち、にも出さない。


「ここは退屈だわ。もちろんあなたやリリィにとっては魅力あふれる場所なんでしょうけれど。近くには優美な鹿が舞う森があるし、山の冷たい空気は己を鍛錬たんれんするにはうってつけですもの」

 メアリーが気怠げな声色で言った。

「その通りさ」アレックスが急に活気付いて言う。「もったいないなぁ。妹だったら大喜びで来るだろうに」

 メアリーはリリィを恨みがましく思った。アレックスはメアリーなんかよりリリィのことの方がずっと大切なのだ。その瞬間、アレックスが大っ嫌いになった。彼は明るい目の色をして遠くを見つめている。


「リリィはどうなるのかしら」

 悲しいのを押し殺して話を続けた。彼は妹の話題の時だけ、本当に関心を寄せてくれるのだ。

 ところがアレックスはたじろいだように慌てて視線をメアリーに戻した。たぶんメアリーが食い入るようにアレックスを見つめていたせいだろう。


「僕には何も言えないな。父が決めることだから」

「私、リリィの侍女として、結婚した後も仕えるつもりよ」

「それは心強いな。でも妹といるのは退屈しないか」

 メアリーはちょっと微笑んだ。

「彼女とは気が合うのよ。お兄さま方には理解できないかもしれないけれど」


 メアリーはふとした瞬間にこの時のやり取りを思い出す。盗み見た彼の横顔や彼のにおい、それからりんごの香りと共に。

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