第8話 天井に泳ぐ人魚

 ジョン・トルナドーレの懸念けねん杞憂きゆうになった。アレックスが延々と人魚の伝説を話し続けるなんてことはなかった。話題はリロイ家の英雄や人魚の伝説から戦場での思い出話に代わり、これには程度の差こそあれ、四人全員が興味を示した。戦争は日常茶飯事にちじょうさはんじで、女の子でさえ、剣技や戦闘での名誉を重んじ、他国の愚かさと自国の正当性を信じている。リリィはもっと幼い頃、父に騎士にしてくれるよう頼んだこともあった。もちろん願いは叶わなかった。皇女たる者が戦場に立つなど許されるはずがない。だが、父はアレックスから剣術や弓術を教わるのを止めはしなかった。メアリーの方は戦争よりもドレスや化粧に興味があったが、家族も出征する身なので、無関心でいられるわけでもない。


 アレックスとジョンはすでに出陣を経験している。初陣ういじんは共に十六歳の時である。度々話題に上がるのはエイダ王家との争いの戦局についてだった。国境沿いに流れるドゥーサ川の通行権について争っているのだ。

「お父様の見立てでは、もっと早く勝負がつくはずだったのよ」

 リリィが難しそうな顔をする。

「そうだったな。最近では父上の軍も撤退を始めている」

 アレックスが相槌を打った。

「ドゥーサ川の通行を諦めるなんて、お父様らしくないわ」

 河川の通行は物品・食糧の輸出入に欠かせない。イリヤ城の脇を流れ、海まで続くドゥーサ川はイリヤが手放していいものではなかったのだ。

「諦めることはないさ。今まで通り、エイダもイリヤも河を独占することはないよ。しゃくだけど、奴らと戦場で顔を合わせないとなると、気分も晴れやかってもんさ」

 ジョンは彼らしく楽観的だった。一度はこの戦いに参加したのだ。だが、祖父の頼みと皇帝からの命令あってイリヤ城に帰ってきている。代わりに弟のマティアスが戦争行きになったが、ちょうど三日前、マティアスまでもがイリヤ城の〈兵舎〉に送り返されてしまった。リチャードもどうやら本格的にエイダとの戦争を終わらせるつもりらしい。

「イリヤがエイダに負けるなんて、ちょっと考えられないわ。あなた達のお父様、ドゥーサ川にはこだわりがないのね」

 メアリーもそうは言ってみたものの、戦争には辟易へきえきしているらしい。父のリー・トマスが今戦っているのだ。父親のことは好きじゃなかったが、命を危険にさらしているのではどうしても心配になる。

 リリィは欠伸をもらすと、気難しそうな表情をしたメアリーの手を取った。メアリーが表情を和らげ、親友の肩にもたれかかる。


「そろそろ寝る時間だ。お嬢さん方、今のうちに寝室に行った方がいい。こんなところで寝てたら風邪をひく」

 アレックスがリリィの眠たげな顔を見ていった。本来ならリリィも寝ている時間である。眠たくなるのも当然だった。リリィも滅多にない機会に、意地で徹夜するつもりだったのだ。結局、リリィとメアリーは居間から退場して、各自の寝室に戻った。

 メアリーが隣の部屋から話しかけてくるのが聴こえる。だが、リリィも睡魔すいま朦朧もうろうとした頭では何も聞き取れなかった。ただ、ガウンを脱いでベットに入るので精一杯。そして、布団をかぶるなり眠ってしまったのだ。


 翌朝。目を開くとまず人魚が目に入った。嘘や冗談なんかではない。天井に人魚の絵が描かれていたのだ。真珠の冠をかぶった王女と若者。二人の周りにも人魚たち。長い槍を手にしている。どうやら婚礼の様子らしい。周りの者たちが若い二人を祝福していた。色鮮やかな絵画だった。

 陽の光が窓の隙間から差し込んでくる。リリィは瞼をこすりこすり、上半身を起こした。ベッドから出て窓を開ける。お昼前の陽光は少しまぶしい。寄せては返す波の音が聴こえた。気持ちのいい朝だ。

 軽い足音が聴こえてきて、部屋の扉が開いた。メアリーが着替えもお化粧も済ませた、きっちりとした姿で立っている。

「おはよう。昨夜ゆうべはよく眠れたわ」

 リリィがにこやかに言う。

「そう、それならよかった。ずいぶんお寝坊ですもの。朝食を知らせにきたの。早く降りてきてくださいな。アレックスとジョンはもう起きてるわ」

 メアリーは早口で言いたいことだけ言うと、また階下へと去っていった。

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