第3話 お兄さま方

 道すがら、兵士たちの色めきたった声が聴こえてきた。リリィは振り返らず、仲違いした親友の方も見ない。松明をもって足速に歩いた。夜道を一人で歩くのは怖い。本当はどんな場合でも皇女が一人で行動するのは禁物きんもつだった。だが、メアリーが侍女としての仕事を放棄して、海岸に出てしまった以上仕方がない。


 〈風と波の宿〉からイリヤ城に帰るのには、二つの道がある。一つは〈兵舎〉や演習場の脇を通って崖を迂回うかいする道だ。時間がかかるし、城壁の大仰おおぎょうな正門から出入りしなければならないが、緩やかな坂道を上がってゆくだけなので安全だ。リリィとメアリーが普段使っているのはこの道だった。もう一方の道は、城壁から崖、崖から海岸へと手作業であつらえられた階段だ。階段は曲がりくねっていて、雪や嵐の日はとても滑りやすい。崖だけで高さ百二十メートルはあった。階段の一番上ではあまりの高さにめまいがするだろう。危険な道だった。


 館から出て、〈兵舎〉の近くを歩いていると、崖の上の階段に松明の明かりが揺れているのが見えた。足を止めて目を凝らす。人影は二つあった。二つの人影はみるみる階段を下ってくる。身軽な動きだ。リリィは思わず頬をゆるめて、崖の方へ駆けていった。


「お兄さま、来てくれたのね!」

 リリィが崖のふもとに立って鈴の音のような声を出す。


「それにジョンも!」

 アレックスが階段を降りながら言った。義兄の後ろを見ると、松明を持った若い男が鷹揚おうような顔で笑いかけてきた。


「ジョンまでも!二人に会えて嬉しいわ。久しぶりね。ちょうど今メアリーと喧嘩しちゃって困ってたところなの」

 リリィが夢中になって喋りかけた。暗闇で怖がっていたリリィには、二人が救世主のように思えたのだ。


 アレックスもその友達のジョン・トルナドーレもリリィにいつも優しい。アレックスはジョンとマティアスのトルナドーレ兄弟とは成長を共にしてきた。遊学に出るまでずっと遊び仲間であり、勉強仲間だった。二人の兄弟は幼い頃に貴族の父親をなくしている。その教育を亡き父親の旧友だったリチャードが引き受けたのだ。


「最近よく喧嘩するな。メアリーはどこに行ったんだ?」

 ジョンがたずねる。


「どうせ〈崖の家〉だろ。俺たちもちょうど行くところだった。今夜はあそこで夜を明かすつもりさ」

 アレックスがリリィにウィンクして言った。〈風と波の宿〉をアレックスは〈崖の家〉と呼ぶのだ。


「なんだか素敵ね。私も一緒に泊まりたいわ。お兄さまたちがいるのなら。でもメアリーは今あの館にいないわ。海辺に行っちゃった」

 リリィはすっかり舞い上がっていた。アレックスと一緒ならお城の外に泊まれるかもしれない。一晩中起きていて、怪談話をするのもいい。真夜中の誰もいない海で泳ぐのだって……。


「メアリーが海にいるって?変なだなぁ。またなんで、そんな気を起こしたんだ?」

 ジョンがメアリーの奇行を愉快がる。


「じゃあ迎えに行こう。一人で海にいたら危ない」

 アレックスはジョンとは違って、メアリーの家出を面白がらなかった。 

 皇子たるもの、イリヤの海の横暴さを知っていたのだ。「浮気な人魚の手のひらの中」と形容されるほどである。断崖にいつ嵐がやってくるのか、岸辺にいつ荒れた波が押し寄せてくるか、誰にも予測できない。しかも、嵐はきまって突然やってくるのだ。


 メアリーは案の定、海には入らず、三人の兵士の若者と話していた。彼女の致命的な魅力あってか、会話はずいぶんと盛り上がっている。一人の兵士がしきりに名前を教えてくれるように頼みこんでいた。メアリーもさすがにその兵士の頼みにはうんと言わない。


「メアリー」

 アレックスが少し離れたところから名前を呼んだ。メアリーがゆっくりと振り返る。陰になって顔がよく見えなかった。兵士たちが一斉にアレックスの方を見る。


「あら、アレックス。ご機嫌よう」

 他人行儀な口調だ。まだリリィとの喧嘩で怒っているのだ。いや、もしかしたら兵士たちの楽しい時間を邪魔されてうんざりしているのかもしれない。


「ご機嫌よう、メアリー嬢。リリィに聞いてきたんだ。〈崖の家〉に戻ろう」

 アレックスは穏やかだけれど、有無を言わせない口調で喋った。内心ではメアリーの不用心さに怒っていた。だが、知らない兵士達の前で怒りを見せても、ことが厄介になるだけだ。


 メアリーは大人しくアレックスの差し出した腕をとって、若者たちにおいとまを告げる。兵士たちは不満そうだったが、アレックスは気にもかけず、メアリーはと言えば、別れの挨拶をするやいなや、もう兵士たちは眼中にないのだった。

 

 アレックスは〈風と波の宿〉へメアリーをエスコートして行った。館の中に入っても、ズンズンと進んでゆくので、メアリーが半ば引きずられるような見た目になる。


 皇子は居間に入ると、腕を離し、メアリーの側から離れていった。リリィはジョンと目を合わせて、不穏な空気を伝え合う。二人は口論が起こる前に、部屋を出て行きたかったのだが、時すでに遅し。メアリーが仏頂面を引っ込めるなり、あだっぽい調子で話しかけてきたのだ。

「ねぇ、ジョンお兄さま、砂浜で、兵士たちを見たでしょう。どうお思いになって?」

 

 ジョンはメアリーの腹黒さに度肝を抜かれた。そりゃあ、メアリーがわがままだってことは知っていた。幼い頃から一緒に遊んでやった仲だ。だが、それも今の今までは子どもの利かん気と同じだったのだ。妹のようなものだった。幼く、強情で傲慢。からかう方も、跳ねっ返りが強いから面白いというもの。ところが今日のメアリーときたら、カエサルを誘惑するクレオパトラさながら。サムソンの長髪を断髪するデリラのよう。まるで悪女だった。


 だから戸惑って、一瞬返答が遅れてしまったのだ。すぐ後に、いつもの調子で軽口でも叩いてやろうと思ったのだが。

 リリィはジョンが一瞬、憤怒ふんぬに駆られたアレックスとは正反対の表情をしたのを見逃さなかった。口元がゆるみ、笑いをこらえている。


 リリィは笑うどころではなく、理由がなんであれ、アレックスが怒らないでくれたらいいのに、と思った。怒鳴り声も喧嘩も嫌いだった。小心者なのだ。


「メアリー、あんな奴ら、城の外の者とは口をきくな。不用心が過ぎるぞ。君はもう社交界に出入りする立場だからわかるはずだ」

 アレックスが大股でメアリーに近寄ってゆく。メアリーはあごをそびやかし、上目遣いにアレックスを睨んだ。


「皇子様、あなた何が言いたいんだか。社交界にお披露目されてるんですもの。ていうことは私もう大人なのよ。今更お兄さま面したって駄目。私に執着しないでくださる?」

 メアリーがすっとぼける。


「兵士と一夜を過ごしたって噂が立ったら、一生台無しだぞ。それに奴らがどんな連中か分かってるのか?」

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