第2話 海と断崖
皇帝の住まうイリヤ城は、海に面した
〈兵舎〉の向こうには演習場があった。地方からやってきた若者たちを一人前の兵士として鍛え上げるための場所である。訓練は
皇女の一番の話し相手はメアリーだ。控えめな性格のリリィとは対照的に、強気の野心家である。二人の友情に首を
季節は春。
「海で泳ぎたいわ」
リリィが
「泳ぎに行けばいいのに」
メアリーが眠たげな
「行けないわ。お母様にもターナー先生にも禁止されているもの。兵隊たちと鉢合わせでもしたら、一生お父様に顔向けできないでしょ」
リリィはそう言いながらも、母や家庭教師の言いつけを守るのが、アホらしくなるのだった。特にこういう暖かい部屋でまどろんでいる時は……。
「行けないなんてことないわ」メアリーが食い下がった。「今すぐにだって、ここから抜け出して泳ぎに行けるのに。外を見てごらんなさい。なんて美しい情景かしら。水平線の向こうに沈みゆく夕日と、茜色の海。広い広い海岸には、
「きれいね。本当にきれいな眺め。こんなに切実な想いってないわ。でも誘惑しないでちょうだい」
リリィはあまりの美しさジンと胸が熱くなって、湿った声を出した。メアリーが隣を見ると、皇女は夢見心地の目をして、遥か遠くを見つめている。
「あら、私は乗り気なのに」
メアリーは相方が消極的なのにうずうずした。リリィったら、いつでも慎重派なのだ。人の言いなりになってばかりで。行動しない理由をあれこれ考えているうちに、おばあちゃんになってしまうに違いない。
「乗り気ですって。ねえ、あなただって海に入ったらいけないわ。まだ春で寒いし、『美しい体つきのなんとかさん達』と一緒に遊ぶわけにはいかないもの。ちょっと向こうみずが過ぎることはないかしら」
リリィが皮肉を込めて言う。おませな親友に水をさしてやろう、と意地悪な考えが頭をもたげたのだ。
メアリーはすぐさま反撃した。
「たかが兵士よ。こちらと話す権利だってないのよ。そんな子たちが私達に何かできると思う?怖がってないで泳ぎに行きましょうよ。ドレントじゃ、花嫁に結婚前に川の上流から下流までひと泳ぎさせるそうよ。泳がなきゃ持参金を倍支払わないといけないの。イリヤの皇女の花婿候補はまずドレントから、じゃなかったかしら」
「
リリィもやり返す。
「あら、あたし嘘なんて言ってないわ」メアリーがムキになって言い返した。「王子だって十年後には成人してる。花嫁が泳ぐって、アレックスがそう言ってたのよ。あなたのお兄様が間違ったことを言うと思う?」
リリィはメアリーが強気なので言い返す気が失せてしまった。
メアリーはしつこかったけれど、リリィはてこでも動かなかった。今となってはもう海に入りたくもない。
夕空はどんどん暗くなり、あっという間に日が暮れた。まばらではあるが、海辺には兵士たちがまだ残っている。リリィは相方の不機嫌そうな顔を見て、
「いいわ。誰かさんが意地でも外に出ないっていうなら、私一人で行くもの」
メアリーがいきなりそう言うと、立ち上がって出ていこうとした。リリィは慌てて引き止めようとする。気が変わって兵隊たちを館の中に引き入れようとするかもしれない。一度など、寝室に庭師の息子を入れられたことがあった。あの時の恐怖と恥ずかしさときたら、もう思い出したくもないほどだ。
「あなたが父の兵隊たちと口を聞くのなら、私お城に帰るわよ。アビゲイルにも言う。まったく、恥を知りなさいよ」
リリィが怒ってメアリーの腕をつかんだ。
「痛いわよ!」
メアリーは叫ぶと、軽蔑しきったような表情を浮かべて、リリィの手を振りほどいた。
リリィは親友の怒りに燃える瞳を見るなり、一気に疲れが押し寄せてくるのを感じた。
この人は皇女が泣こうが
喧嘩する度にメアリーの魅力と美しさを思い知る。そしてメアリーには敵わない、と悲しい思いをするのだ。
リリィだってメアリーに負けず劣らず美しかった。月夜の森に現れたら妖精の女王と
問題は容姿の美醜ではなかった。色気があったのだ。その上、メアリーの魅力は官能以上のものでもあった。黒い瞳は暗いユーモアと気概を備えており、一度見たら生涯忘れることはない。明るい金髪。豊かな胸に見事なくびれ。姿勢はよく、歩き方も美しい。メアリーだって、あまりに色っぽい自分の体が嫌になることもあった。しかし、魅惑的な体を修道女か罪人のように、覆い隠すのはもっと我慢のならないことである。派手好きなメアリーらしく、体の曲線を際立たせるようなドレスを着るのが常だった。
リリィにだってメアリーに嫉妬せずにいるのは難しい。メアリーには
メアリーは皇女を置いて館の外へ出て行ってしまった。外はもうすっかり夜である。侍女の帰りを待つつもりはなかった。崖の上のお城に帰るのだ。
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