第3話 海と断崖

 皇帝の住まうイリヤ城は、海に面した断崖だんがいの上に立っている。断崖の下にはこじんまりとした〈風と波の宿〉という皇室所有の館があり、皇子や皇女たちの遊び場でもあった。イリヤ城の城壁の外で、唯一リリィがおとがめを受けずに行ける場所だ。〈風と波の宿〉の横には〈兵舎〉が並んで建っていた。かなり大きく、皇帝直属の兵士たちを数千人ほど収容できる。

 

 〈兵舎〉の向こうには演習場がある。地方からやってきた若者たちを一人前の兵士として鍛え上げるための場所である。訓練は苛烈かれつを極め、決して楽なものではない。それでも近衛兵の志願が後を絶たないのは、この国で厳しい遠征と侵略が長く続いているためである。戦時ともなれば皇民への略奪も暴力も頻発する。家業を継いだり、領主様の下で土地を耕したりするよりは、兵隊として武器を取った方がましだった。それに近衛兵として活躍することは一攫千金いっかくせんきんのチャンスでもあるのだ。

 

 皇女の一番の話し相手はメアリーだった。メアリーは控えめな性格のリリィとは対照的に、強気の野心家である。二人の友情に首をかしげる者もいた。リリィは内気で臆病、人目にさらされるのは苦痛でしかない。一方、メアリーは社交的で、どのように人を魅了したらよいかわかっていた。正反対の二人だが、テレパシーのようなもので通じあっているのだ。


 季節は春。黄昏たそがれ時、皇女と侍女は〈風と波の宿〉の一室で思いにふけっていた。小さな窓からは夕日と海と、兵士たちが見える。訓練ではなく、遊びで泳いでいるのだ。

「海で泳ぎたいわ」

 リリィが頬杖ほおづえついて言う。

「泳ぎに行けばいいのに」

 メアリーが眠たげなまぶたで言った。


「行けないわ。お母様にもターナー先生にも禁止されているもの。兵隊たちと鉢合わせでもしたら、一生お父様に顔向けできないでしょ」

 リリィはそう言いながらも、母や家庭教師の言いつけを守るのが、アホらしくなるのだった。特にこういう暖かい部屋でまどろんでいる時は……。そういう時、規則も秩序も人生さえも無意味に思えてくる。発作のようなものだ。わずかに残った自制心で、館の外に出ないようにしている。


「行けないなんてことないわ」メアリーが食い下がった。「今すぐにだって、ここから抜け出して泳ぎに行けるのに。外を見てごらんなさい。なんて美しい情景かしら。水平線の向こうに沈みゆく夕日と、茜色の海。広い広い海岸には、精悍せいかんな顔の、美しい肉体をした兵隊たち……。こんなにことってないわ」

「きれいね。本当にきれいな眺め。こんなに切実な想いってないわ。でも誘惑しないでちょうだい」

 リリィはあまりの美しさジンと胸が熱くなって、湿った声を出した。メアリーが隣を見ると、皇女は夢見心地の目をして、遥か遠くを見つめている。

「あら、私は乗り気なのに」

 メアリーは相方が消極的なのにうずうずした。リリィったら、いつでもなのだ。人の言いなりになってばかりで。行動しない理由をあれこれ考えているうちに、おばあちゃんになってしまうに違いない。こうなったらリリィを無理やりにでも海岸に連れ出さなければ気が済まなくなった。

「乗り気ですって。ねえ、あなただって海に入ったらいけないわ。まだ春で寒いし、『美しい体つきのなんとかさん達』と一緒に遊ぶわけにはいかないもの。ちょっと向こうみずが過ぎることはないかしら」

 リリィが皮肉を込めて言う。おませな親友に水をさしてやろう、と意地悪な考えが頭をもたげたのだ。

「たかが兵士よ。こちらと話す権利だってないのよ。そんな子たちが私達に何かできると思う?怖がってないで泳ぎに行きましょうよ。ドレントじゃ、花嫁に結婚前に川の上流から下流までひと泳ぎさせるそうよ。泳がなきゃ持参金を倍支払わないといけないの。イリヤの皇女の花婿候補はまずドレントから、じゃなかったかしら」

出鱈目でたらめ言わないでよ。ドレントには私の花婿候補なんかいないわ。王ならもう妃がいるし、王子は幼過ぎて結婚にはむかないし。それにね、花嫁が溺死するような慣習を続けるほど、ドレント人は馬鹿じゃないわ」

「あら、あたし嘘なんて言ってないわ」メアリーがムキになって言い返す。「王子だって十年後には成人してる。花嫁が泳ぐって、アレックスがそう言ってたのよ。あなたのお兄様が間違ったことを言うと思う?」


 リリィはメアリーが強気なので言い返す気が失せてしまった。

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