道
家に帰ると、「お兄ちゃんにどこ連れて行ってもらったの?」と訊かれる。両親と話す時、いつだって主語は兄だった。
早朝から高尾山に登り、コンビニで買ったおにぎりを山頂で食べた。普段ならこれから家を出ようかという時間に、もう下山してしまった。
近くに寄り道できそうなところはないかスマホで検索すると、一駅隣で「高井田横穴古墳群」がちょうど年二回の内部公開の日だ。
歩いて小一時間程ということで、ルートを検索する。
「業平道」を辿るコースがある。平安時代の貴公子・在原業平が、高安の河内姫のもとへ行く時に通った道といわれる。
町家のような石畳の町並みを通る。古い建造物が大切に残されているのは、安心する。
歩く。歩く、ひたすら歩く。
在原業平は一人の女のために歩いた。実際にはもっと長い距離を。奈良県天理の業平の居住地があったといわれる在原神社付近から、河内高安の女のもとまで。地図アプリで検索してみると徒歩五時間程も掛かる。業平はその距離を女を求めて通ったのだ。
私は何のために歩いているのだろう。兄は、何のために歩いていたのだろう。
私は、ずっといなくなった兄の背中を探し続けていた。私だけが兄の喪失を受入れられていなかった。
兄の失踪から七年経って、両親は兄のために大きな仏壇を置いた。父母は毎日仏壇に手を合わせ、齢を取らない兄の写真にあれこれと語りかける。私はその背中をぼんやり眺めていた。
私は彼らのように仏壇に手を合わせることをしなかった。――私だけが兄の死を受入れられていなかったから。
兄の失踪直後、両親は兄が最後に登っていたはずの山に何度となく足を運んだ。その間、まだ小学生だった私だけが空っぽの家で一人留守番をしていた。「一緒に山に連れて行って、お前まで何かあったらどうするんだ」、そういうことだったのかもしれない。
当時小学生とはいえ、もう高学年だったし、それから数年間探し続けたわけだし、望めば一緒に兄を探しに行くこともできたはずだ。なのに、私はそうしなかった。
そんな所に兄はいないのに。山に登ると嘘をついて、兄はこの家から逃げ出したんだ。
どういう思いでその考えに固執していたのか、今となってはもう分からない。それが希望だったのか、絶望だったのか。
ただ、兄は私のヒーローだった。
だから。
家で、学校で、会社で。つらいことがある度に、いつかひょっこり帰ってきた兄が私をここから助け出してくれる。そんな、夢みたいなことを。
一時間程の距離にも関わらず、知らない道は果てが見えなくて不安になる。本当にこの道でいいのだろうか。標となってくれる人はもういない。
ある日突如として業平の寵愛を失った河内姫。井戸水に映った業平の影を追いかけて、自ら水の底に沈み儚くなってしまった。自分の足で歩くことができなかったから。
私は、生きている。
兄が歩いたことのない道を歩く。
いつかまた兄に会えるだろうか。分からない。けれど、いてもいなくても、私はこの先も歩き続けていく。
どれだけ不安でも。迷ったらまた引き返せばいい。何度だって挑戦できる。生きている限り。
町家を過ぎ、樹齢800年のクスノキを横切り、道を進む。
山道と違い、日射しを遮るものがなくて、快晴の太陽にくらくらする。
じきにダウンロードしたウォーキングマップ上の現在地を見失う。地図を読むのは苦手。だから新しい道を行くのはいつも不安だ。
歩道脇で立ち止まり、スマホで地図アプリを開く。目的地を入力して検索すると、案の定道を外れている。慎重に方向を確認してまた歩き出す。この十数年でずいぶん便利になった。兄が見たら驚くだろう。もう幼い私が迷子にならぬよう気を揉む必要もないのだと。
その後は迷うことなく、高井田横穴公園に到着した。
公開時間にも十分間に合い、ガイドツアーに参加する。
推定200基ある横穴のうちから、公開されているいくつかを巡る。
薄暗い横穴の内部を除く。何も見えない。古墳なのだから、ここに眠る人がいたのだろう。真っ暗闇の、深淵。ぐらりと吸い込まれそうになる。
内部の玄室に足を踏み入れる。暗い。暗くて、とても静か。何も見えない。ずいぶん心許なくて不安だ。けれど。
そっと振り返る。横穴の入口から眩いばかりの日光が射す。
そこに、私がいる。
真剣に横穴古墳の説明を聞いている。
ガイドさんがさっとライトで横穴内部を照らす。真っ暗だった壁面にさまざまな線刻壁画が現れる。こんな風に、人の内側も簡単に覗くことができたらいいのに。
壁画のタッチを見ると、複数人によって刻まれたものらしい。動植物、蓮華、踊るような女性、ゴンドラを漕いでいく人、飛んでいく鳥……。それは誰かの祈り。手を伸ばしてももうけっして届くことのないものへの、祈り。
兄はここにいない。
いつか会えるかどうか、分からない。けど、今、ここにはいない。兄はいないのだ。
先日、実家に帰った私が仏壇に手を合わせた時、両親はどこかほっとした表情をしていた。私の辿った道も真実ではある。けれど、暗い瞳ではきっと見落としてきたものも多かっただろう。
寄り道しながらも、自分の足でしっかり見ていこう。時間はまだ十分にある。
私が生きている限り。
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