水仙郷
ふだんは人気の多くない神社だが、初詣となるとさすがに賑わっている。
山を登る前に参拝すると、足元に猫が一匹寄ってきた。見ない顔、真っ白な美しい毛並みだ。
登山口まで進み、振り返って青い瞳をじっと向ける。私が登山口の方へ進むのを確認すると、さっと山道に入っていく。この辺りで猫はよく見るものの、今まで山の中で猫を見かけたことはなかったのだけれど。
山道をしばらく進むと、またさっきの白猫が立ち止まってこちらを見ている。私が近付くと先へ進む。まるで私が追いつくのを待っているみたいに。
なんだか猫に道案内されているような感じであとを追いかけていると、いつの間にか見慣れない道を進んでいた。高尾山に登ってもうずいぶんになるから、整備された山道で通ったことのない道はないはずなのだけど。
道を外れたわけではなく、あくまで足元は下生えのない登山道だ。だから、私は臆せずそのまま猫のあとを追った。
進む。猫が待っている。私の姿を確認するとまた進む。私はそれを追いかける。それを繰り返して。いつの間にか町の声が聞こえなくなっていた。年明け早々とはいえ、町から近いこの低山で人の声も車の音も何も聞こえないなんてありえない。鳥の鳴き声も、虫の音、木々のさわめきさえ聞こえない。
気付けば私一人。周囲には何もない。足が動かない。視界がホワイトアウトしていく。雪。粉雪がびゅうびゅうと吹いている。白い。一面真っ白だ。
白い景色に紛れてしまったのか、猫も見つからない。
見失っちゃいけないのに。あの猫についていかなきゃいけないのに。
どこ? どこ?
私は声を上げて呼んだ。
「お兄ちゃーん!」
ちりん。
かすかに鈴の音が聞こえた。兄だ。兄がリュックにつけていた熊避けの鈴の音だ。
音の方へ手を伸ばすと、温かな体に触れた。
触れたのは猫の毛皮だと思ったが、なんだか大きな掌に包まれて手を引かれているような心地がした。必死に目を凝らしたけれど、猛吹雪の中その姿は見えなくて、私は泣きそうになりながらその背中を追いかけた。
お兄ちゃん。私、道に迷った人を案内してあげられるんだよ。知らない道も一人で歩ける。ぶどう狩りもしたし、登山仲間だってできた。ちゃんと実家にも帰って、父さんと母さんと少しだけど話もした。それにね、私、もうお兄ちゃんの年齢を超えたんだよ。
兄の背中に話し掛ける。
だから、お兄ちゃん……。
温かい掌がふわりと私の頭を撫でた。
その瞬間、強い光を浴びて、こんどこそ真っ白に私の視界も意識も落ちていった。
甘い香りに目を覚ますと、高尾山の中腹のベンチの上に私は仰向けに寝ていた。ゆっくりと体を起こすと、辺りが白い。一面に水仙の花が満開に咲いている。白い猫の姿はどこにもない。
ベンチに座ってぼーっとしていると、「どうも」と声を掛けられた。
ぶどう狩りの青年だ。さすがに今日はビーチサンダルではなくスニーカーを履いている。
「新年あけましておめでとうございます」
と挨拶しながら、すごい寝癖だとくくくっと笑っている。
寝癖どころか葉っぱやらなんやらひどいようで、青年がぽんぽんと頭を払ってくれる。大きな手だけれど、さっき頭を撫でてくれた手とは違う。
と、青年の掌が私の頭を包んだまま止まる。
「冷たい……。まさか、ここで寝ていたのか?!」
へんな奴だと言ってどん引きしている。が、リュックから温かいコーヒーを出して渡してくれるあたり、やはりいい子だ。
温かいコーヒーで体を温めながら、先程の光景を思い出す。まるで夢みたいで、気を抜くとあっという間に掌から零れ落ちてしまいそうな記憶の欠片。白い光の中、一瞬だけ見えた。振り返ったのはやはり兄だった。笑っていた。妹の成長を喜ぶ兄の表情だった。それは、最後に出発した日に兄が私に向けた笑顔だった。
スマホに一件着信がある。メッセージを開くと、登山仲間の少女からだ。新年の挨拶とともに、写真が添えてある。祖父母宅の長寿で眠ってばかりだという白い猫。
ああ、大事な家族の登山仲間のために、遠路はるばる頑張ってここまで来てくれたのか。
なんてたくさんの人に守られているのだろうか。
スマホ画面を見ながらにやにやしていると、また青年が「へんな奴だ」と笑った。
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