すっぱい葡萄

 駅を降りると家族連れが多い。

 十月初旬、ぶどう狩りの最終日であるせいだろう。ここ柏原市のぶどう栽培は明治時代に遡り、現在も約90軒のぶどう農家がある。

 横目に私はいつも通り高尾山へ向かう。私はぶどう狩りの経験はない。そういう家族ではなかったし、連れ立って行くような仲のいい友人もいない。それに、どうせスーパーで買った方が安いんでしょう? なんて、まるでイソップ童話の「すっぱい葡萄」だ。どれだけ伸ばしたって手が届かない。

 まったく最近の気候はどうなっているのだか、先週までの酷暑はようやく落ち着いたものの、十月に入ってもなお三十度近い気温だ。山道を歩いていると汗が流れる。

 途上、あとから追いついてきた大学生の青年に「山頂へはどう行けばいいか?」と訊かれる。しかし、彼はTシャツ、ジーンズにビーチサンダル……、ラフな私が言うのもなんだが、全然山登りの格好ではない。しかし、ここはいうても低山だし、彼はスポーツでもしているのだろう逞しい体躯をしているので、まあ大丈夫だろう。足元に気をつけるようにとだけ言って、案内することにした。

 道すがら話を聞くと、友だちとぶどう狩りの約束をしていたのに、ドタキャンされたらしい。で、やけくそで山登りだそうだ。ぶどう狩りにしたってビーチサンダルはないと思うんだけど。へんな奴。だが、道案内の礼にとキットカットを一つくれたのでまあ悪い子ではない。チョコ溶けてるけども。

 体の大きな彼だけれど、私のペースに合わせてゆっくりついてくる。暑さのせいか山道にはまだまだ夏の名残が強い。草とか虫とか虫とか虫とか。

「あっ」

 ガサガサと音がした方を見遣ると、脇の斜面で蛇の尾がピクンピクンと揺れている。なんだろうと見ていると、ザッと茂みから蛇が顔を出した。口にヤモリの首根っこを咥えている。蛇と頭の大きさが変らないくらいのヤモリはジタバタと手足を動かしている。わ、わ、どうしよう。助ける? でも、自然の食物連鎖を邪魔しない方がいいよね。でも。と、私が目を逸らそうとしたところ、青年の太い腕がさっと動いた。コンッと青年の投げた小石が蛇の近くの地面に落ちる。驚いた蛇が口を離し、瞬間ヤモリが逃げていく。蛇もそのあとを追いかけて茂みの中へ消えていった。

 姿が見えなくなってなお呆然とその行方を見送る私を、青年は怪訝そうに見る。

「えっと、よかったんかな。せっかく蛇が捕まえた獲物を逃がして……」

「なんだ、蛇の味方か?」

「いや、そうやないけど。自然の食物連鎖を人間が邪魔していいんかな、と」

 ぼそぼそ言うと、青年は平然と答える。

「あのヤモリはまだ元気そうだったからな。運命だというなら、蛇が俺に出くわしたのもまた運命だ」

 そうはっきり言うから、私はなんだかんだとただ自分が蛇を恐れて哀れなヤモリを見捨てようとしただけであることを恥じた。

 ふたたび山道を登る。こっちのルートの方が緩やかだし歩きやすいよと言うのに、青年は山頂への最短ルートがいいとわざわざ険しい道を進む。ビーチサンダルのくせに。

 もうしばらくで山頂へ繋がる道に出る。というところで、「ブーン」と目の前を一匹の虫が飛んだ。大きくて、黄色に黒が混じったくびれた胴をして、ブンブン前方を旋回している。ス、スズメバチだ!

 なぜこんな所に? 先月来た時に「スズメバチの巣あり、注意!」の看板を見たのはもっと奥の方のルートだったのに。どうやら一匹だけのようだし、たまたまエサを探しに来ているのかもしれない。

 時間を置いてやり過ごすか、それとも青年は一心に登頂を目指しているようだし一気に進んでしまうだろうか。と思っていたら、青年は振り返りあっさり言った。

「引き返そう」

「え、いいの?」

 命が大事だと、きっぱり言い切った青年は、そのまま本当に下りていく。その堂々とした背中を私は追いかける。下りるのはあっという間だ。

 南パノラマ展望台まで引き返して、いったんベンチに腰を下ろす。 

「そうや、別のルートからも山頂を目指せるよ」

 青年に提案する。せっかく山に登ったのなら、登頂したいだろう。

 なのに、青年は「いや、今日はもうやめておく」と即答した。登山口の近くでも一匹見たから、恐らく活動時期なのだろう。ルートを変えてもまたスズメバチに遭遇するリスクはあるから、今日はもう無理しない。身の安全が一番だと、言い切った。

 すぐそこに頂上があるのに、青年はきっぱりと引き返す選択をした。また登りに来ればいいからと。

 それに、この南パノラマ展望台からの景色も十分に素晴らしい。

 冬には水仙が咲き誇るのだと教えてあげると、青年は「ありがとう」と笑った。

 もう少し展望台からの景色を堪能してから下りるという青年を残し、私は一足先に下山することにした。

 山道をゆっくり下りながら、兄のことを思った。彼みたいに強ければよかったのに。兄も、私も。

 兄も彼みたいに引き返せなかったのだろうか。生きていれば何度だってチャンスはあるのに。

 兄が冬山でどのように消息を絶ったのか。想像する時、いつも一面真っ白な雪景色の中に兄が一人立っている。目も眩むばかりの猛吹雪が視界を遮り、あっという間に兄の姿を隠してしまう。視界を取り戻した時、そこにもう兄はいない。――何度そんな夢を見ただろう。なのに、私は一歩踏み出して降り積もる雪の中に兄の姿を探しもせず、ただその場でわんわん泣くばかり。見捨てられたのだと泣いている。

 考え事をしながら歩いていると、もう登山口まで下りてきてしまった。

 そういえば登山口の近くでもスズメバチを見たと言っていたな、と警戒してきょろきょろ見回すがさいわいブンブン飛ぶものはいなかった。

 あれ?

 代わりに、登山道の隣に目を遣ると、フェンスで隔てられた向こうにはぶどう畑が広がっている。なんだ、すぐ隣にぶどう園があったんだ。知らなかった。いつも真っ直ぐ山に入っていくから、全然気付かなかった。

 なんだかんだ毎度せっかく来たのだからととりあえず山頂まで登るから、こんなにあっさり下山するのははじめて。まだ昼前だ。

 地図を見ると、山裾に沿って進むと「ぶどう棚の小道」があるらしい。散策してみることにする。

 登山口横からぶどう園がずっと続いている。少し進むとわいわいにぎやかな声がする。どうやらぶどう狩りもやっているらしい。

 とはいえ、一人でぶどう狩りはないな。と思いながら、ちらちらとぶどう園の様子に視線を送っていると、受付の女性と目が合った。にっこり笑って手を振っている。まるで甘い蜜に誘われるミツバチみたいに、ふらふらと私は入園料を払い、水の入ったバケツとハサミとトレイを受取った。

 受取ったからには仕方ない。思い切って一人ぶどう狩りに参戦。

 腰を屈めて斜面を進む。目の高さの葡萄の房を鋏で切る。実際にやってみると、全然手は届くし、とても甘い。

 しかし、家族連れや恋人連れでにぎわう中、一人。

 こそこそと人々から距離をとってぶどう園の隅っこで、捥いだぶどうを一粒ずつちぎって、バケツの水で洗って食べて、種を吐き出す。まるで妖怪である。

 早々にいたたまれなくなり、もう帰りたいが、ぶどうの持ち帰りは不可だし、かといって捨てて帰るわけにもいかない。この一房を食べきるまでここから脱出することあたわぬ。小ぶりのものを選んだつもりだが、それでもたわわに実っていて、食べても食べても減らない。もう感極まって泣きそうだ。

「うおーい!」

 どこからか咆哮が聞こえて、見ると、先程の青年が入口で料金を払ってこちらへ一直線に向かってくる。

「俺がぶどう狩りしたいと知っていたのに、ひとりで抜け駆けとは!」

 早速大きな房を獲ってきて、隣に腰を下ろす。

 青年はトレイの上で房を振って実を落とすと、器用に片手で次々粒を口に放り込み、まとめてぷぷぷっと種を出す。

「きれいに食べるねえ」

 私は種と果汁でべちゃべちゃだ。

「ははは」

 青年も楽しそうに笑う。

 私がなんとか一房食べ終える間に、彼はもう三房目だ。余ったら俺が食うという青年に甘えて、私も二房目のぶどうに手を伸ばす。

 いつの間にか安心している私がいる。

 一人で山登りして、誰かとぶどう狩りをして、毎日出勤して、四半世紀以上生きている。ずっとそんな気がしながらも、そんな風に考えることが悪いことのような気がしていた。繊細な兄に申し訳ないと、勝手に意味の分からない罪悪感を抱いていた。

 ――たぶん、私は兄より強い。

 いかなる場合でも、生きる方の選択肢を選ぶ自信がある。兄に会いたいと思った。

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