三角点

 両親の期待を一身に背負っていた兄は、冬山へ単独行で出たきり戻ってこなかった。一年経っても二年経っても両親は兄の帰りを待ち続けた。行方不明から七年目に兄のための仏壇が置かれた。毎日仏壇に向かって語りかける両親を、私は部屋の隅からただ眺めていた。兄がいなくなってもなお、彼らの寵愛が私に向けられることはなかった。


 改札を出て早くも後悔する。日射しが強い、くらくらする。

 ここしばらく休日も家に籠ってばかりいたから、たまにはちょっと出掛けますかと重い腰を上げたのが昼過ぎ。JR柏原駅に着いた現在の時刻は十三時。とにかく暑い。すでに汗をかいているのに、今から山を登るなんてあほですか。よし、登山は中止だ、帰ろう。

「すみません、高尾山ってどっちですか」

 再び改札に向かおうとしたところ、声を掛けられた。振り返ると、リュックを背負った女の子が大きな目でこちらを見つめている。

 案内するのは構わないけれど、よその小学生を勝手に山へ連れて行っていいものか。

「全然大丈夫です! 親にも出掛けることちゃんと言ったし」

 少女はあっけらかんとしているが、本当に小学生の女の子を一人で山へ送り出す親がいるだろうか。

「一応、親御さんに連絡するから、電話番号教えてくれる?」

 尋ねると、素直に母親の携帯番号を教えてくれる。電話を掛けると、少女によく似た声が電話口に出る。

「え、山ぁ?! あらまあまあ! 一緒に行ってもらえるんですかぁ。助かるぅ! ぜひぜひ! よろしくお願いしまぁす。……あ、もう出番だ、じゃあ失礼しますねぇ!」

 最後は慌しい早口で通話は切られた。スマホ画面を閉じて、溜息をつく。まあ親の許可は得たということで、出発するか。

 駅を出て東へ進む。遠くにこんもりと山が見える。登山をはじめた頃には、ずいぶん遠く高く見えたものだが、いくらか経験するうちに、改めて小さい山だなと思う。とはいえ、連なる生駒山系を縦走するならなかなかのものだけれど。そこまでのガッツはない。

 途中で自販機に寄る。「頂上で飲む用におごってあげる」と言うと、少女は目を輝かせた。どうせ行くなら少しでも山登りは楽しいと思ってほしい。私はいつも通り缶コーヒー、少女はつぶつぶオレンジを選んだ。内側に保冷のアルミ箔を貼ったペットボトルケースに缶を二つ詰める。

 登山口に着くと、しばらく来ないうちにすっかり夏草が生い茂っている。この様子では緑の深い場所だと少女の姿を隠すくらい鬱蒼としているかもしれない。なので、途中でいったん車道に出るものの比較的下生えの少ないルートを取ることにした。

 私も大人になったものだ。幼少時に兄に連れられて登山した時分には、ぐんぐん変な道を進もうとしてよく兄に止められた。今でも道を逸れて引き返すことしばしば。もう引き止める人がいないから。一緒に山を登る時、兄はけっして変なルートは取らなかった。歩く人の多いいちばん安全な道を必ず選んだ。そんな兄が山で遭難するなんて考えられない。兄がいつもと違う道を進んだとすれば、やはり前日に私が兄の誘いを断ったせいではないか。あの窮屈な家で兄が発したSOSを私は知らず振り払ってしまったのではないか。

 ふいにぶり返しそうになった暗鬱を振り切るために、少女に矢継ぎ早に話し掛ける。

「すごいなあ、ばっちり登山スタイルやね」

 えへへ、と少女はまんざらでもなさそうにはにかむ。ママに買ってもらったのだと。専門店で買ったであろう登山靴にリュックサック、靴下、キャップ。虫除けスプレー、救急セット、雨具までしっかり持ってきたという。対する私は、ユニクロのTシャツにジーンズ、しまむらのトレッキングシューズ、無印良品のお出掛けリュック。中身はハンカチ・はなかみ、飲み物、お菓子、文庫本。反省しつつも、先輩風を吹かせる。

「でも、そのシャツ。登山の時はあんまり黒い服は着ん方がいいよ」

「なんで?」

 少女が自らの黒いTシャツをついと引っ張ってみて大きな瞳を上げる。

「蜂に襲われるかもしれへんから。黒い格好してたら熊と間違って刺されるかもしれへんよ」

「まじ? うわー、こわ」

 顔を引き攣らせる少女に、「でもそのシャツ格好いいね」と声を掛けると、「やろ!」と屈託なく笑う。「めっちゃ安かってんで」と鼻を高くしているので、けど暑そう、という余計な一言は口の中に留めておいた。

 木陰のない道を進むとじりじりと頭も肌も焼けるようでだらだら汗が止まらない。

「こんにちは」

「こんにちはー」

 すれ違う下山客に道を譲る。やっぱりこんな時間から上るもんじゃない。下りてくる人ばかりだ。

「……なあなあ」

 擦れ違った人の後姿を見送って、少女がひそひそと声を掛けてくる。

「今の人ら、おねえさんの知り合い?」

「ふふ。ちゃうよ」

 でも挨拶してたやん。と不思議そうな顔をする。

「山で会ったら知らん人でも挨拶するのがマナーやねんで」

 へんなの、と言いながらも、次から擦れ違う人に声を掛けられるともじもじ返事をして、じきに自ら「こんにちはー!」と元気に挨拶するようになった。成長著しく微笑ましい限り。

 しんどいしんどいと口では文句を言いながらも、軽い体はさくさくと山道を登っていく。突然駆け出したりするからひやひやものだ。

 いったん車道に出るため、少女の手を取る。繋いだ手はまだまだ小さく華奢で、怪我させぬよう私がしっかりせねばと気合いを入れ直す。

 50メートル程車道を進んでから、ふたたび山道に戻り、小さな鳥居をくぐる。先達が設営したロープを手繰って岩場を登る。高尾山は生駒山系で唯一登頂までに岩登りのコースを有する。

 山頂277.8メートルの三角点、を抜けて少し岩場を下りたところに絶景ポイントがある。

「うわあ! すごっ!」

 少女が声を上げる。絶壁に立つと眼下に大阪平野の街並みが広がる。すうっと両腕を広げて大きく息を吸い込み、その手を顔の横に持ってくる。と、

「やぁぁぁっほぉーーー!」

 少女が声を張り上げる。黙ってそれを見守っていると、さ、おねえさんも! ときらきらした瞳で促される。えええ。少し迷ったがなかばやけくその気持ちで少女の隣に立ち、

「やっほー!」

 と声を張る。隣で少女が満足そうに頷く。よかった、声が小さいもう一度などと言われなくて。山に向かって叫ばないとやまびこは返ってこないと、いつか正してあげねばならんなと思ったが、今日それを言うのは野暮だと思った。とはいえ、私達のやっほーが届いた町の人達はあほちゃうかと思っているであろう。

 青い空と眼下に広がる街並みを背景に記念撮影した。両手を広げた少女の後姿、自由に空を舞う鳥のようだ。

 木陰で腰を下ろし休憩。つぶつぶオレンジを飲みながら、現代っ子はスマホを操作している。

「なにしてんの」

「ママに写真送信してる」

 画面から目を離さずに少女が答える。

「ふうん。……ママと仲良いんやね」

 なのに今日は一緒じゃないの? というニュアンスを敏感に察知したのか、メッセージの送信を終えた少女が顔を上げる。

「うん、ママのこと好きやで。うち母子家庭やし。苦労掛けてるし」

 ちらとこちらを窺う。納得してなさそうな大人の表情を読み取り、ズズズとつぶつぶを吸い込んで続ける。

「ママはピアノの先生で、今日は教室の発表会やってん。だから、ほんまはうちが発表会見に行ったらなあかんねんけど……、ちょっと魔が差したっていうか」

 自分のために今日を使いたくなったのだと、少女は言った。

 一応駅まで来たけど、たまたまお姉さんに会えへんかったら、そのまま諦めて帰ってたと思う。もう一人で山登りに来たりはせえへん。そう言いながら、ちゃっかり私と連絡先交換してる。

「ほな、帰ろか」

 底を叩いてもつぶつぶの出ない缶をゴミ袋に詰めて立ち上がる。

 下りは別のコースから行きたいと藪の中を進もうとする少女の腕を引く。

「腰くらいまで草がぼうぼうに生えてるから危ないよ」

 と言っても、「めっちゃおもしろそう」と聞かない。おねえさん冒険心ないなあと、ぶうぶう言う。「虫だらけやし、大きい蜘蛛もおるし、獣のウンコも落ちてるし、ウンコにはめっちゃ蠅たかってるでっ」と脅すと、「うげっ」とようやく諦めて、来た道を引き返す。

 道々、この木は欅だとか、この花はドクダミなど教えると、へえ物知りやなあと素直に感心する。

 黒い服のことも、挨拶も、木や花の名前も、全部兄が教えてくれたことだ。

 あの頃の私は、目の前の少女と同じくらい幼かった。兄は危険な道は選ばなかった、私と一緒の時にはけっして。きっとそれは私のため。妹の知らない兄の一面もあったろう。私が同行しない時には兄も自由に変な道を散策していたかもしれないのだ。

 下山し、駅まで少女を見送って別れる。いつの間に付いたのか、服もズボンもひっつきむしだらけで、お互い全部取るのに電車を一本見送った。またね、と小さな冒険を終えた少女は精悍な笑顔を向ける。またね、とこちらも渾身の笑みを返す。 

 アパートに着いてスマホを確認すると、電話番号宛にショートメッセージが届いていた。知らない番号、少女の母親からだ。ずいぶん丁寧な文面で本日のお礼が述べられている。発表会が重なり来月一緒に山へ行こうと約束していたのに、少女が待ちきれなかったのだという。「昂ぶると大声を上げたりしがちなので、ヤッホーと叫びまくってご迷惑をお掛けしたりしたのではないでしょうか」と書かれていて、笑ってしまう。分かってらっしゃる。母親がこんな気遣いをしていること、少女はきっと知らないだろう。

 また母親も知らないだろう。指を守らねばならない仕事をする母を気遣い、一人で登る決断をした小さな娘の大きな成長を。

 夕食を終えてから、久々に実家に電話した。仏壇に手を合わせに、来週帰ると告げると、母は一瞬驚いたように息を詰めたあと、ただ「待ってるわ」と答えた。なんとなく、電話の向こうで母が微笑んでいるような気がした。

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