夫婦岩

 高尾山、標高277.8メートル。というと、もっと高いはずだと首を傾げるだろうか。599メートルあって登山客の多さで有名なのは、東京の高尾山。じつは、大阪にも「高尾山」がある。「たかおやま」と読み、生駒山系の南端に位置する低山だ。そもそも大阪にはあまり高い山がなく、その中でも低いこの山は、大阪の人にもあまり知られていない。

 私にとっては、家からもっとも近く気軽に登りやすい山だ。最近あまり外に出ていないなって時にふらりとよく行く。

 さっと山頂まで上り、中腹の南デッキに腰を下ろし、山麓の自販機で買った缶コーヒーを飲みながら文庫本を開く。木々の中に設けられた南デッキは「なぜこんな場所にデッキを?」と思うくらい眺望ゼロで、わざわざ足を止める人も少ない。一冊読み終えたら帰るのだが、たいていは日が傾いてからの下山となる。気軽さゆえそもそも出発が遅いからだ。昼過ぎから山に入ったりする。兄が聞いたら叱るだろうな。「あっという間に暗くなるから十五時までには山を下りていること」、幼い頃からくどく言われたものだ。

 兄とは一回り離れている。幼少時はよく兄にくっついて山を登った。だが、それも小学生の頃までで、中学に上がってのちは山からは離れていた。しかし、数年前「山ガール」が流行した時期に再び山に登り始めた。あちこち足を伸ばした時期もあったけれど、登山仲間のいない私は早々に本格的な高山登山は諦め、最近はめっきり低山ばかり。

「あの、すみません」

 背後から声を掛けられ、振り返ると、木の陰に年配の女性が立っている。ワンピースにカジュアルシューズ、トートバッグを肩に掛けている。あまり登山客っぽい格好ではない。

「あの、夫婦岩へはどう行けばいいのかしら」

 おろおろと尋ねる。迷子のようだ。すでに日も傾きかけている。

「案内しますよ」

 文庫本を閉じて立ち上がると、老婦人は恐縮しつつもほっとした表情を見せる。

 こっちです、と引返して歩く。ペースを合わせてゆっくり進む。

 登山口から間もない分岐地点に夫婦岩への案内板が立っている。

「あらあ」

 老婦人が目を丸くする。

「ちゃんと看板を確認しながら来たつもりだったのに。どうして見落としたのかしら」

 口を尖らせる。かわいらしい人だ。

 二人で分岐を曲がる。彼女はふうふう息をつきながら進む。

「今日は、もともと山に登るつもりだったんですか?」

 さり気なく尋ねたつもりだったけど、彼女は自らの服装を顧みて肩を竦めた。

「いいえ、今日はお出掛けのついでに思い立って寄ってみたの。夫がここの夫婦岩の話をしていたものだから……」

「今日は旦那さんは一緒に来られなかったんですか」

「……夫はね、今入院しているの。半月前に脳溢血で倒れて、まだ意識が戻らなくて。今日もお見舞いの帰りなのよ」

「ああ、それは……」

 いらぬことを訊いてしまったと反省するとともに、妙な共感を覚える。

 私が山登りをはじめたのは兄の影響だ。兄は幼い私をよく山登りに連れて行ってくれた。

 兄は幼少期からずっと優秀で、両親の期待を一身に背負って育った。中学受験で地元で一番の進学校に入学し、中高と成績トップを維持して、国立大学にストレートで合格した。かたや、一回り離れた私は恐らく図らずして生まれた子で、何事においてもみそっかすで、両親からは相手にもされない。

 学校で山岳部に入った兄は、部活以外でも休日に山へ出掛けるようになり、小学校へ上がった頃からは私を誘ってくれることもしばしばあった。私は嬉々として兄の背を追った。兄にとっては勉強の息抜きであったろうし、家に居場所のない私を連れ出す口実でもあったかもしれない。

 しかし、それも私が小学校を卒業するまでの間だ。中学生になって私は山へ行くことはなくなった。兄がいなくなったから。

 冬山に単独で登ると言い残したきり、二度と兄は帰ってこなかった。

 それ以来ずっと遠のいていた登山を再開したのは、いなくなった兄の年齢を超えてからだ。

 そんなことを思い出している間に、だんだん緑が深くなる。老婦人は躓きそうになりながら慎重に足を運ぶ。

 鬱蒼と茂る木々に囲まれた空間に、注連縄を巻いた岩が鎮座する。

「これが……」

「はい、これが夫婦岩です」

 倒木を越えて、老婦人が岩に近付く。感慨深そうにそっと触れる。

「ちょうど神社の真上になるのね」

 山麓の鐸比古鐸比賣神社は、もとは鐸比古神社と鐸比賣神社の別々の神社だったが、現在は当地でともに祀られている。両神は夫婦といわれる。

「下からじゃ気付かなかったわ」

「木陰に隠れるように鎮座してますもんね」

「……まるで私達みたい」

 老婦人が溜息をこぼす。

 夫婦岩の正面に横たわる倒木に並んで腰を下ろす。

「私達はね、籍は入れていないの。いわゆる事実婚ね」

 ぽつりと老婦人が語り出す。

 当時水商売をしていたこともあり、夫の家族は結婚に猛反対し、若い二人は駆け落ち同然で大阪へやってきた。以来、夫は家族と連絡を取り合うこともなく、ずっと夫婦二人で慎ましく暮らしてきた。

 しかし、夫が倒れた今、彼女は迷っているのだという。

「万が一ということもあるし、夫の家族に連絡を取るべきかしら……」

 かれこれ数十年間断絶しており、彼女は顔を合わせたこともない。常識的には連絡すべきだろう。これが最期になるかもしれないのだ。けれど、彼女は迷っている。

「連絡先は分かってるのよ。夫はけっして教えてくれなかったからね、興信所を使って調べたの。……けど、本当にいいのかなって」

 彼女が悩んでいるのは、自分自身のためではない。

「もしかしたら、夫が家族と縁を絶ったのは、私のためじゃなくて自分自身のためだったんじゃないかって思ってね」

 夫の家は旧家で厳しく育てられたという。次男坊だった夫は、なにかと長男と比較された。できる兄と支える弟、それが与えられた役割で、自由はなかったし褒められることもなかった。例えば、彼は勉強ができたけれど、兄より良い学校へ進学することは認められなかった。画家になるという夢には挑戦することさえ許されなかった。

 そんな彼にとって「妻のため」というのは、ちょうどいい理由だったのではないか。逃げるのではない、愛する人を守るために家との縁を切るのだと。

「そう考えると、果たして家族に連絡を取ることが、本当に彼のためになるのかって悩んでしまうのよね……」

 そう呟いて、老婦人は溜息を吐いた。

 私はいい加減な相槌を返しながら、ぼんやりと兄のことを考えていた。

 兄も、そうだったのだろうか。

 あの家で居心地の悪さを感じていたのは私だけではなく、兄もまたそうだったのではないか。大学を卒業後、父のコネクションを発揮して一流企業に就職した。将来を期待されて。社会人になってなお、兄は両親のプレッシャーの下にいた。

 兄がたびたび私を連れて山を登ったのは、幼い私を守るためではなく、兄自身のためだったのではないか。兄もまた、家の中に自分の居場所を見つけられずにいたのかもしれない。

 なのに私は。

 今度の休みに山へ行こうと誘われて、友達と約束があるからと断った。そうか、なら一人で遠征でもするかと、兄は笑っていた。そして冬山へ遠征に出たきり、帰ってこなかった。もしもあの時断らなければ――。

 子供の歓声や自動車のクラクションの音など、麓の町からここまで聞こえる。なのに、木々に囲まれたこの場所はあまりにも静かで、ひんやりとしている。

 どうすればよかったのだろう。どうすればいいのだろう。

 ふわり、と目の前に桃色の影が舞う。一枚の小さな花弁がひらひらと夫婦岩の上に落ちる。

「……桜?」

 老婦人が呟く。

「上の方で咲いているんですよ。風に乗ってきたんですね。満開には少し遅いですけど、山道がピンクの絨毯を敷いたみたいになっていてきれいですよ」

 この時間からではさすがに見に行こうとも言えないが。

「桜かあ。毎年夫と一緒に造幣局の桜の通り抜けに行っていたんだけれど、今年はだめね」

「通り抜けならまだやってるんじゃないですか」

 造幣局の桜は開花が遅いためちょうど今が見頃のはずだ。

「でも。……いや、そうね」

 山登りにだって来ているんだものね、と今気付いたように彼女はころころ笑った。私が決めなくちゃならないのよね、と。

 微かな風に花弁が岩から離れてまた宙を舞う。木々の間を抜けて、ひらひらと町に向かって飛んでいく。行方を見届けないまま、私達は腰を上げる。空の色が濃くなっている。もうそろそろ山を下りなければ。

「夫の家族に連絡してみることにするわ。でないと私が後悔するから。もしもそれで夫が傷つくようなら、今度は私が彼を守ればいいのよね」

 そう言って力強く笑った。白い靴は土だらけになってしまっていたけれど、気にも留めていないようだった。

 登山口まで下りると、神社にお参りして帰るという彼女と別れた。

「本当にありがとう。話を聞いてもらえてすっきりしたわ」

 彼女はそう言ったけれど、私はただ道案内しただけで、進む道を決めたのは彼女自身にほかならない。

 後ろ姿を見送りながら、旦那さんが目を覚まして彼女の強さを見てくれればいいなと思う。

 私の後悔はきっともう取り戻せないけれど。

 数年前に山登りとともに始めた一人暮らしのアパートに帰る。リュックを下ろすと、山からついてきたのだろう、薄桃色の花弁がひらりと揺れた。

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