第一章 第5話 幸せ

夜の港は静かで綺麗な場所だ。

ここに要はない。

綺麗だが、匂いがきつい。その上、様々な船を見張る門番もいて、ゆっくりができない。

車いすに座る彼女を押しながら、違う方向に向かってゆっくりと坂を下っていく。

やがて森に入り、道と言える道もやがてなくなる。

「…」

彼女は興味深そうに木々を見ている。

お互いには言葉がない。

彼女は奇跡的に脳にある言葉関する部分を綺麗に保っているが、もうすでに限界に近い状態にいる。

正気と意識の限界。

認知症と違って、彼女は自分に関する全ての記憶を手放す可能性がある。

その上、笑い狂う…笑いで狂う。

これほどたちの悪い病気が他に存在しうるだろうか?

「わ〜綺麗ね〜!」

「そうだな」

しかし、今のこの海に対する感情は不気味だとしか栖都は持ち合わせていなかった。

丸くて大きな月の下に映るのは波打つ真っ赤な海だ。

色はこの何年でいつの間にか赤になっていた。

研究者の間も一時騒ぎを起こしたが、特に実害はなかったためそのまま放置にした。

これも「150の卵事件」によって引き起こされたのか?

関係ないと思っていることが、このように知らず知らずと生活に影響を与えるものだ。

「もしお婆ちゃんまで生きれたら、虹色の海が見れるっすかね?」

「別にどんな色になっても、海は海だろう」

「もう、夢がないんだから!」

「夢は掴めるものの方がいい、プレシャーがないからな」

「別にやりたいことのためなら、プレシャーぐらい」

「やりたいことがないからなー」

「ええー夢がないな…まじでないな」

「僕はこれでいいよ」

「いや!お主にはやってもらうことがある!まずは金を稼ぐのだ!」

「そうそう…ええ?!はっ?!」

「その後ね、いい嫁さんをもらって〜子供を作って〜そして幸せの人生を過ごす夢があるのだ!仕事はですね、軍隊さんでパイロット…」

「おいおい!何勝手に人の人生を決めるのよ!って言うか、仕事がコアすぎるだろうが!」

「いいじゃないっすか、夢がないなら普通の幸せでも目指せば?」

「よくねぇよ!別に俺は…」

いかん、何でしいなにカッとするのだよ、オ…僕は。

「いや、いるっしょ」

彼女はまるで子供を宥めるような慈しさと真面目さに満ちった目でこちらに真っ直ぐに見つめている。

「生きている限り、幸せを目指しなさい…私の分もよろ」

「あ…え…お、おお」

そんな不吉なこと言うな!と返そうとした。

言えなかった。

喉が詰まったようだ。

彼女の言葉には彼女らしくない力強さがこもっている。

どうすればいいのかわからず、ただ間抜けな声しか出てこなかった。

胸の中から湧き出てくる温もり…暖かすぎて、火傷しそうだ。

「もう、いい年なのに、泣き虫なんっすから」

「うるせっ…あんたは絶対治るんだからな、悟教授がぜぇったい何とかするだから!」

「うん!信じてみるさ!減るもんもないっし」

「親父のことをもっと信じなさいよ!」

ったく、最初から信じてないみたいことを…

大きな月が街灯より明るく、周りを照らし尽くせている。

真っ赤な海が光を反射し、カーニバルのような情熱さを感じさせる。

海の街はそんな価値観を形成しつつある。

僕はやはりあおい海が好きだった。


今年の年末ぐらいで、永遠の別れを迎えた。

彼女は死んでいない。

気絶と不気味笑いを繰り返しながら、ただベッドの上でもがいている。

もうここからの介護は栖都の手に余り、まるでこのタイミングを測ったように、専門の介護職がこの家にやってきた。

栖都は彼女と連なるように、起きている時は彼女を呼びかけて、力を使い果たして気絶のように眠った。

1日中にギャグシーンでも見ているような誇張で過剰的なまでのものだ。

彼が泣いていなければ。

そう時間が必要ない、栖都は悟った。

もう彼女は帰ってこない。

そこには彼女がもういなかった。

脳が空っぽになって、何も考えられなくなかった。

それに気づいた時、僕もその家から出ていた。

誰一人止める人がいなく、誰一人追い出す人もいない。

ただ耐えきれなくなって、逃げ出しただけだ。

そこで再び気づいた、僕はその家の異物であることを。

悲しみ、惨めさ、やるせ無さ…何一ついいプレゼントを抱えられずに、僕は3年半ぶりに帰宅した。

埃だらけのベッドに潜り込んで、ただぼーとしてた。

すぐに寝落ちしたいのに、こう言う時に限って寝れない。

そしてつい先まで寝てたことを思い出した。

蛇口から錆がついた水が出てシンクに流し込む。

「3年だし、こんなもんか」

しばらく待っていれても、なかなか普通の水だ出てこない。

水道が復旧しても、停められてないことが唯一の救いと言える。

電気はもうないのか…発電機がないからな。

どうやって時間を潰すのだろう。

ただ暗くなるまでボーと座ってた。

そして、また泣いた。

1年半が過ぎた。

結局、私は毎日のようにしいなの側へ行くしかやることがなかった。

ゆっくりと彼女の家から生活の匂いが消えて、代わりにいろんな薬品とよくわからない機械があっちこっちに充満している。

全部彼女を治すと言うより、ただ死なせないだけの道具だ。

それもこの日まで。

路傍のベンチに座り、高く聳える寺を囲む壁を見つめる。

少し離れる場所にある入り口に、沢山の黒い服を着用する人が行き交っている。

しいなの葬式はここで行なっている。

僕は入れなかった。

それもそうだ、表では親戚じゃないし、親しい友人でもない。

街の人にとって、僕は路傍の小石ぐらい影の薄い存在だ。

ずっと彼女の側にいる僕にとっては、葬式より遥か前に彼女との離別はもう済んでいた。

それでも最後の離別をさせても、いいじゃないか…

「兄ちゃん、こんなところで何してるんじゃ?彼女に最後に会いにくるじゃなかったのか?」

彼女の介護を3年勤めていた婆さんだ。

海の横で僕に声を掛けてくる人でもあった。

おっ節介焼きで、とてもいい人だ。

「ああ、婆さん…今までありがと」

彼女はしいな葬式に参加するわけではないので、介護の仕事が終わったらもう会うことはないのだろう。

「兄ちゃんに感謝されるほどのことはやっとらんよ」

「僕は別に彼女の家に関わってないよ、親しい余所者ぐらいだから、リストにもないのだろう」

「はっ、随分とつまらないことしでかすじゃないか、深井の小僧」

「小僧?」

小僧は誰のこと何だろう?まさか悟教授なのか?でしたら、なぜ…

「兄ちゃんは考えすぎるな!大したことじゃない、家名に重んじる古い大人たちの悪い癖だ、今会えなくても、墓参りはいつかやってあげてくれ」

婆さんは、励ましの言葉を残してゆっくりと歩き去った。

しばらくして、僕も離れた。

行きたい場所も、やりたいこともなくただまっすぐに帰宅した。

気にしないと言ってたくせに、栖都はこの何日間での生活が混乱を極めた。

理由もなく外を出ると、気づいたら真夜中で、帰ったら自宅と深井家と間違えた。

風呂を入ろうとしたら、風呂の水を飲んでベッドで寝始めた。

何かが、ズレた気がした。

栖都はじーっと、霜が降り始めた窓ガラスを見つめる。

寒い季節になった。

そんな感想を残して、今日は海に行った。

行くあてもないので、家以外の場所をお求めて徘徊するだけ。

彼女が今の僕を見たら、何を思うのだろう?

心の中でずれたパーツはどこにあるのかは知ってる。

いつの間にか、またこの海辺に座ることになった。

今更何をしたって…いや、僕は待っている。

ずっと夜を待っている。

この時間でしか見れないこの眺めを。

瞼にベタついている“思い出”という名のモヤを振り払い。

この懐かしい景色を目に収めることをした。

最後にしよう、もう見たくない。

見るたびに、心の何ある大きな穴から風を通した気分になる。

月の下に静かに揺らいている青い海、海の下にはすでに海藻やフジツボなどがこびり付いているけど、美しき過去に生きる建物たち、水面の下に静かに立っている。

本当に驚いた…海が青く光っている。

あの夜の海のまんまだ。

「きれい…」

心に余裕がないのに、あの日と同じ感想だ。

ずっとこのまま、ここで眺めたい気分だ。

この5年は自分の人生の中では素敵で、悲しくて、忘れることのない時間になった。

『幸せになれ』

ありがとう、しいな、さよなら。

僕は、幸せを探してみるよ。

彼女には墓が別にあるが…これをしたら、喜ぶのかな?

形のいい木に彼女の名前を刻んだ。

刃物がないから、苦労した。

できた。

縛りであり、約束でもある。

また、いつかで。

その日を境に、栖都人々の目に映るようになった。

明るく挨拶をし、困っている人を自ら助けの手伸ばす。

少しづつだけど、彼は人々に認識し始め、好かれ始めるようになった。

彼自身にとって、これはかなり大変なことだ。

それでも、彼は挑戦をしている。

彼女ができなかったことをして、彼女の分も生き抜くことを心から貫ぬこうとしている。

そして、いつかこのプレシャーを忘れ、彼女を縛りを忘れ…彼女をただ自分の記憶に住回せる一人となって。

僕はやがて幸せになるのだろうか。

そう信じて、時間がすぎた……しかし

2週間を過ぎたところに、唐突に終わりを迎えた。

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