第2話 二枚目のビスケット

         7


 少年はコーラを受け取った。そしてとぼとぼと席に戻った。塞ぎ込むようにテーブルに顔を突っ伏していた。先ほどの屈辱が未だに尾を引いている。人生でここまで悔しいことはあっただろうか。今まではどちらかといえば、目に見える世界全てを嘲笑して、誰かを馬鹿にすることが人生のスタンスだった。それがなんだ、あのザマは。あれだけ多くの人達にコケにされたのは生まれて初めてのことだ。その上、奴らに勝ち逃げを許してしまった。

 このままおめおめと帰宅できるわけがない。なけなしのお小遣いでコーラをおかわりしたのも、ある種の決意表明である。しかしリベンジチャンスを求め、誰かの来店を待てども客はやってこない。仕方なく身を起こして、退屈しのぎに軽く腕を振ってみる。肩を使って投球フォームを繰り返す。しっくりしてない。そのときである。外国人がカメラを回しながら来店してきた。

「みんなに紹介しよう。これが日本のファストフードだ。おっと、あそこにいるジャパニーズ・ボーイは水泳のトレーニングをしているようだ。さてハンバーガーの味を確かめてみよう!」

 陽気にコメントしながら彼が椅子に座った瞬間だ。

「フォーク!」

 リアルタイム配信をしている外国人の動きが止まった。物凄い形相の少年から叱られたのである。予想外の状況に外国人男性は戸惑った。どうやら何か作法を間違ったようだ。聞き間違えでなければ「フォーク」と彼は叫んでいた。

(なるほど。日本ではハンバーガーを食べるときはフォークが必要なのか)

 直ぐに彼は笑顔を少年に向けると、カウンターに戻り、眼鏡をかけた女性店員にジェスチャーを交えて要求して、ナイフとフォークを手に持ってきた。

 陽気にリズムを取りながら、彼はハンバーガーをナイフで刻もうとする。それを見た少年はまた激怒した。これまでこんなに怒り狂ったことはあるだろうか。自己最高傑作のフォーク遊びを勘違いされる屈辱。

 日本語を理解できない外国人も言われっぱなしではない。両手を広げて「WHY?」と困惑と苛立ちを示す。

「ボーク!」

 野球用語しか知らない少年は間違いを指摘する上でその言葉を発した。白人男性は両目を見開いた。ベースボールには国境はないのか、言わんとする意味は伝わったのである。が、これが良くなかった。

「ハンバーガーはアメリカの文化だ!」

 それこそがアメリカ人の自負であった。彼は店内に入った瞬間から、認めたくない部分があっても我慢はしていたのだ。決して亜流を認めないわけではない。ただルーツの本流である国に対しての最低限の敬意は持ってしかるべきであろう。例えば日本人が海外の寿司店に入る。そのとき独特に文化発展したその店から傲慢に作法を押し付けられると腹立たしい気持ちになるに決まっている。


 ファストフード店の店員は騒ぎを聞きつけて走っていた。トラブルは早期解決せねばならない。何しろバイトの研修期間(三ヶ月)がこの日で完了する。今まで信頼を得るためにどれだけ頑張ってきたことか。大雨の日でもびしょ濡れになりながらも出勤した。コールの練習も河川敷や医大の通学中に人目に晒されながらも何度もやった。その努力を客同士のトラブルでぶち壊されてたまるものか。走りながら涙が眼に浮かぶ。何よりも今日は特別な日だった。何しろ研修が終わる節目の日に多くの客が自分に握手を求めてくれたのだ。もしかして自分が研修三ヶ月目であることを知っていたのか。ファンの期待に応える上でも絶対に負けるものか。

 現場に到着したとき、目の前に広がる光景は明らかに修羅場であった。長く店に居着いていた少年と大柄の白人が言い争っているのだ。何がきっかけでここまでの修羅場になるのだろうか。ふと外国人の手にフォークが握られていることを知る。数分前に凶器を手渡したことに青ざめる。そもそもファストフード店でフォークを欲しがるなんておかしいとは思っていた。これは万が一のことが起これば責任重大である。

 そのとき言い争う二人の間をハエが飛んでいた。それは少年も気がついていた。すでに彼はフォークを諦めかけており、千載一遇のチャンスとばかりに「ツーシーム」の態勢を取っている。同時に店員は思い出していた。多くの客が握手を求めてきたあの至福の時間を。そうだ。あのときも目の前を飛ぶハエを叩き落したのだ。恐らくはハエを叩き落すことで場の空気を変えることができる。そう信じたのだ。

 まさにハエが飛行する軌道に対して店員はトレイを振りかぶっていた。が、その瞬間にハエは方向転換をした。即座に反応した少年は絶叫した。

「ツーシームウウウ!」

 ハエの姿を見失い、完全にタイミングを外された店員。ところが少年の声の後押しを受けるや、「はあああい」と叫び体勢を立て直し、彼が叫ぶ方向に渾身のフルスイングをする。トレイは風を切りながら振り上げられる。捉えたかに見えたが、ハエは間一髪でかわし、空振りしたトレイが外国人の顔面に当たった。

「ファ⚪︎ク! ユー!」


         8


 床の上には砕けたビスケットが転がっていた。カーテンが遮光する陰と日の当たる境目である。断片はあるいは以前より昔からそこに存在していたかのように毅然とした姿を見せつける。店内に配置されたテーブルや椅子は年代物のアンティークであり、やや燻んだ原色の床だからこそ、ビスケットの断片は絵になるのかもしれない。例えばパリの街に捨てられた新聞紙もまた味と風格を与えるものである。印象派さながらの絵画的な光景だ。店内にいる人々は床に散らばるビスケットの見事な構図にため息を漏らしていた。だがそれらの温和な表情とは異なる顔でいる人間がいた。遠い席から睨みつけるような眼差しで凝視していたのはオールバックのヘアスタイルの秘書だ。

(これは判断に迷う。ただ奴はナイフとフォークで割ろうとしていた。つまり割れたということでも良いのか)

 眉間にしわを寄せる。

(ダメだ。この世界は結果が全てなのだ。ビスケットが割れなければ意味がない。女も任務を遂行せねばならない)

 ところが窓際の女は口に手を当てたまま動かない。思考停止中なのである。

(なぜ、次のビスケットを割らない?)

(まさかだが、買収されたのか。別の組織に)

(あり得る話だ。ビスケットを割らないことで巨額の株操作が失敗したように見せかける。我々が撤退したところで一気に買い占める)

 確かめてみるか、と彼は立ち上がる。そうして落ちていたビスケットの欠片をスマートに拾い上げて、彼女の元に向かう。一方で芸術的な空間を壊された人々はしかめ顔をしていた。窓際で頬杖をつく杉田はというと、涙目で見上げていた。彼女は報酬が手に入らないであろうことに絶望していたのだ。

(なぜ、泣いている? やはり裏で手が回されていたということか。しかし泣いて許されることではない。まずはプロジェクトを成し遂げたのかどうかを聞き出さねば)

 その思いが彼を強気にさせた。

「どうしたんです? ビスケットをナイフとフォークで切るのは別に珍しくありませんよ。恥ずかしがることは何もない。失敗することも世界の上流では当たり前のことです」

 言いながらも同情した。裏切りに手をかけることに心を痛めているこの女もまた組織の使い捨てなのだ。プレッシャーをかけるのは本意ではないが、さながら訪問販売の営業マンのごとく、和やかな口ぶりで語りかけていた。

 そして気さくに提案するのだ。

「ほら、どうです。もう一度、チャレンジしてみれば良いではないですか」

 だが杉田は全く動じない。それどころか、鼻で笑うのだ。

「二枚目は切れません」

 意外な言葉に驚く。この期に及んでは、もはや言い訳などする必要はないのに、まだこんな白々しい嘘をつくのか。ため息をついて首を振る。

「やってみないとわからないのではないですか」

「は、切れません。無理なものは無理です。一枚目を切れない者に二枚目が切れるわけがないでしょう」

 最もらしい言い分のようで実は全く釈明になっていない。つまりこの女にとって上からの命令は絶対であり、八方塞がりなのを察せないことに対し、挑発的な態度を示しているのか。

(なるほど、この使い走りの女は諦めて完全にシャッターを下ろしている)

 秘書はいよいよ怒りに任せて胸ぐらを掴み掛かりたい思いだったが、努めて平静を装った。

「あなたはただ逃げているだけだ。それとも切りたくない理由が何かあるとでも?」

 真意に対して追求する口調であったが、杉田は腹を立てて言い返す。

「あはは。私が切りたくないだと? 冗談じゃない」

(見ず知らずのお前にはわからないだろう。でも森下は二枚目は割れないとハッキリ言ったのだ)

「割れるものなら割りたいよ、こっちが」

「では切ればいいじゃないですか。あなたの気持ちもわかりますが」

「わかるものか!」

 杉田はろくに事情も知らずにわかった振りをするインテリ男にうんざりしていた。こんな奴に説明したところで金が手に入るわけじゃない、と苦々しさを隠し切れない。自分だってビスケットを切れるものなら切りたいのは山々だ。だが森下が二枚目は切れないと断言したのだ。

「待てよ。……奴は、あいつはどこに行った?」

 思わずつぶやいたのだ。彼女は知る由も無いのだが、まだ森下は下痢のため喫茶店にはたどり着いていない。

 杉田はこんなときにフォローもなく助け舟一つも出さない森下に対して、段々と怒りがこみ上げてきた。そもそも聞いていた話と違う。これで報酬が得られないのは逆にふざけるなという気持ちになるのだ。

(あくまで二枚目が切れないというのはあの信用できない男の言った戯言だ……)

 一方、杉田の近くに立つ秘書はすでに心が折れていた。というのも目の前の女は覚悟を決めており、どんな説得にも応じる気配を見せない。別の組織から買収されたこの女は割ることはない。これは早急にこの場を去るのが賢明だと悟り「失敗」の報告をするため、彼は彼女に背を向けてドアの方に歩き始めた。そこに声が掛かった。

「切りましょう」

 皿の上にある二枚目のビスケットにフォークとナイフを当てて、杉田は不敵に笑っていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ビスケットを割れるのか 18世紀の弟子 @guyery65gte7i

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ