ビスケットを割れるのか

18世紀の弟子

第1話 ビスケットを割れ



          1


「やっぱり気が進みません」

 背後から聞こえる女の声は自信のなさよりも苛立ちが含まれている。

「そうだろうな」

 返す言葉はこれしか思いつかない。必要以上に甘やかせる必要もない。信号が青になりアクセルを踏む。

 時間軸の間にいたのだけは確かなようだ。進むべき時間と並行して、これから任務をやり遂げねばならない。バックミラーをしきりに確認しながら腕時計をみる。刻一刻と時刻が迫りつつあり、一方で難色を示されることで緊張感が増す。そう考えてみると、話は簡単だな。森下はまずそう思ったのだ。とにかく、一つずつ出来ることからしなければならない。焦る必要は何もない。ただ話を理解させる。もし、そこで正しく伝えなければ、事態は思わしくない方向へ進むだろうと。そう考えて、ミラーに映る女に伝えてみたのだ。「昨日までは暗い日常があったはずだ。これから君は変わるのだよ」それは効果的であった。無言の彼女が視線を上げた。「わかりました。では、私はこれから向かってみます」そう返事が返ってきた。物分かりの良さに喜んだのは言うまでもない。

 悪いケースだと、反対されることもあっただろう。それにより、問題は複雑化した恐れもあった。だが、了承を得たのだ。これは大きな第一歩である。第一、森下は変化を誰よりも毛嫌いしていたのだ。他人事やフィクションであれば、想定の中にある話ほどつまらないものはないが、今の自分に起こりうる展開に関しては、想定の中で起こることを極力望む。順調こそが全て。変化は望まない。あらゆるトラブルを未然に防ぐことに尽力を注ぐべきである。何しろわからないことが多すぎだ。そもそも、森下という人間が何者なのか、本人もわかっていない。つまり、自分すらもわかっていないのに、後部座席のこの人間、確か杉田と名乗ったこの女のことなど知る由もない。だからこそ、彼女の同意を得られたのは途方も無い安心感を覚えるのだ。

 ガタンガタン。

 また中古のマニュアル車が揺れた。森下はどうしてもこの乗り物が嫌いである。好き嫌いかで聞かれれば嫌いと即答できるのはもちろん、聞かれなくとも嫌いだと他の人に宣言したいほどであった。

(これはマズイな)

 ふと、森下はあることを察した。思いがけないことが起こることがある。それは自分の中で完ぺきだと思ったときに得てして起こりがちである。万事が都合よく進もうとしたときに不都合なことが生じると、途方もない不安に苛まれるのだ。そのあることは腹痛であった。この状態だけなら問題はないのだが、そこから派生する事象が懸念なのである。

 気掛かりなのは便意である。どうやら先ほどの揺れが刺激を与えたらしい。だからこの乗り物は嫌いなのだ、と拳を握るが、これ以上の腸に負担を与えることはよろしくない。森下は一度リラックスしてみた。そのための努力をした。お腹を触ったりの刺激は良くないので、ふっと口もとを緩めたり、息を吸ったりした。それを繰り返す中でも、直ぐ近くの女はその様子を見ることはない。恐らくは気がついてはいるのだ。何となく女は「変だな」と考えているのは森下にはわかる。この女は恐ろしいほどに反応が早い。反射神経なのか勘が働くのかはわからないが、ともかく状況の異変には敏感なのは間違いないのだ。だからこそ、女は森下の行動の変化に気がつき、それどころか便意にも気がついている恐れもある。

 そうなると話はやはり問題だ。要は先ほどのことだ。あれだけ講釈を垂れて説得したのに、時を経たずして便意に苛まれているのを知られれば、どうしても格好がつかないし、信用も失いかねない。となれば、彼女が心のどこかで自分に対して便意の推察をして僅かでも疑いを持っているのなら「知る必要のない忘れるべき話なのだ」と説得せねばならない。この女の目的はカネということだけははっきりとしている。そのことに気がつかせる。余計な詮索は取引の失敗になり、報酬も与えられない。プロの仕事とはそういうものだ。なによりも人を心の中で軽んじるのは我慢ならない。だからこそ「そうそう」と笑いながら切り出してみたのだ。えっと女は顔を上げた。

「一つ面白いことに気がついたんだ。まあ、難しい話ではない。ここに二つのピーナッツがあるとする。一つは塩があり、もう一つは無塩だ。どちらに魅力を感じるかな。普通であれば塩があるピーナッツだろう。ミネラルの摂取は大事だからね。だが、この状況では水という問題もある。塩を舐めて喉を乾かせてしまうのも良くない。どちらにしても、良い面と悪い面の双方があるということだ」

 女は頷いた。少し合点がいかない表情ではあるが、直ぐに言葉を並べて押し切る。ここから本題を伝えねばならない。

「この状況には正しい解答がないのだよ。今の状況をみればわかるはずだ。仮に何か予期せぬことが起こったとしても悪い話ではないのかもしれない。それを常に心に仕舞っておくのが、今のこの場所では重要なのだ」

「なるほど、わかります」

 女が理解して頷いたときに、目的地についた。それでは、と彼女はそのまま立ち上がった。

「二分後に私は行ってみます。何か問題が起こった場合はサポートをお願いします」

「安心したまえ。それはさっきも何度も繰り返し確認したからな」

 いよいよ待ち望んだ一つの計画に着手できる。森下は胸を躍らせていた。かねてよりどうにか世界を足掛かりにして、自分が後世に何かを残せないものかと妄想することがあったが、今日に限ってついにその絶好の機会がやってきたのだ、との実感から武者震いをしてしまう。

 真っ直ぐ歩けるか、と聞きながら念を押す。

「危ない時は右手をあげるんだぞ」

 彼女は口を閉じたまま頷くが、横顔を向けるだけで、目を合わせようとしない。気持ちが集中している証拠であり、森下もまた気持ちが高揚していた。

 時刻が迫ろうとした時だ。「あの、ビスケットについて……」と女は急に後ろを向いた。そこで森下は「ん」と間の抜けた返事をした。そう言えば解説をしていなかった、と慌てて森下は相手の前に近づいて語る。「ビスケットは一枚目を割るんだ。二枚目は割るんじゃない」肝心なことを言い忘れて声が甲高くなった。

 二枚目を割るとどうなるのか、更に質問が続く。森下はいいか、と小声で伝える。すでに限界なのだ。

「二枚目は割れない」

 女は身体を震わせた。森下はその反応に驚いて後ずさりした。


          2


 薄暗いトンネルの向こうにあるファストフード店。客達はまばらにいる。一人の野球帽をかぶった球児は俯いているが、彼には実は狙いがあったのだ。一人遊びである。誰かが椅子に座るたびに目の前のハンバーガーを掴み小さくつぶやく。

「フォーク」

 これか彼にとっては面白いのだ。やがて他の客は初めは聞き流していたが段々としつこさに苛立ち初めて、その仕組みに気がついてから邪魔をする。

 例えば立ち上がってトイレにいく。そして席に座ろうとして「フォーク」を言わせるが、実は座らない。また座ったあとも、もう一度立ち上がったり、このようにフェイントを入れるようになった。やがて腹を立てた少年は別の遊びを考える。

 読書をしている老紳士が本を伏せるときに「ブック・オフ」と囁く。他の客はそれに気がつくが止めようがない。少年は満面の笑みでブック・オフを囁き、あるいは来店した誰かが座れば「フォーク」と呟く。それから紳士が本を再び伏せたとき「ブック・オフ」と少年は少し大きな声で言った。それが老人の耳にも届いた。老紳士は少年と目を合わせる。少年は焦った。この遊びに気がつかれてしまう。慌てて目を逸らしたがそのとき異変に気がつく。視線が向かうのは老人の前にあるテーブル。その上には伏せられた本があるが、隣にいつのまにか新聞が置かれている。これはどういう魂胆なのか、恐らくは他の客の差し金だ。沈黙が続く。老紳士も今更ながら、テーブルに置かれた新聞に気がつく。そこからの判断は意外にも速い。手を伸ばす。開いたのは新聞だ。店の中は歓喜に包まれる。無言のガッツポーズで立ち上がる人々。そして席に座る直前に「フォーク」のフェイントも入れる徹底ぶりは抜かりがない。少年はいよいよ追い込まれていた。平穏を取り戻した店内。

 だが再び謎の言葉が響いた。

「ツーシーム」

 少年は不敵な表情で発していた。人々は訝しげに様子を伺う。ただ何を基準にしてその言葉が述べられているのかわからない。不定期に呟かれる言葉。商談の時間が迫っているサラリーマンなどはイライラが隠せない。

 再び「ツーシーム」と呟かれる。そのとき女子高生が来店してきた。「フォーク」のチャンスだ。更にいつのまにか老紳士も新聞を見終わり本を手に取っている。「ブック・オフ」チャンスも到来。トリプルプレーのチャンス。少年は全てをモノにするつもりだ。苦々しい気持ちで人々は推移を見守るしか無い。

 すると少年は気を緩ませたのか「あっ……。ツーシーム」彼は床を見ていた。飛んでいたのはハエだ。それが軌道を変えたときに彼はその言葉を発したのだ。謎が解けた人々は固唾を飲んで飛行する蝿を見守る。天井をくるくる回り、旋回して再びハエがやってくる。

 緊張が走る。軌道を変えようとした瞬間「バシン!」通りかかった眼鏡をかけた女性店員がハエを叩き落す。少年は唖然とする、同時に女子高生は席に座る。フォークの機会を逃す。慌てて首を振ると、紳士は本を伏せて珈琲を飲んでいる。ブック・オフも失敗。

 店員は他の客達に握手をされて戸惑う。そのまま笑顔で店から出て行く客達。取り残された少年は一人悲しげにパサパサになったハンバーガーを口にする。


          3


 杉田は通りを歩きながら考えていた。どうにかして、インド旅行に行ければと。引き受けた動機はただの旅行資金だ。何やら重大な仕事らしいがどうでもいい。この女にとっては仕事に関しては緊張することはない。取り柄のない自分にとって冷静沈着こそが唯一の長所だと思っていた。かねてより度胸だけは座っていて物怖じした試しがない。ところが、そのおかげで幼少期より何か自分が類い稀な洞察力があると勝手に思い込まれ、または心の裏で何かを企んでいるなど疑われることがあった。例えば先ほども森下という男は、会ったばかりの自分に対して異様なほど買いかぶり、内に秘める真意に対して警戒心を示していた。


 角を曲がると、いよいよ目的地が見えてきた。仕事の内容はざっとこういうことだ。ある喫茶店に入る。窓際の席に座り、ビスケットを一枚割る。それだけのことらしい。最後までビスケットの詳細を明かさなかったところを見ると、極秘の何かが行われるのは間違いない。しかしながら、それだけで9000円の報酬が手に入る。都内一人暮らしの杉田にとっては悪い話ではなく、むしろ美味しい。


 立ち止まる。シャッター街にある店だ。なんてことはない、ナポリタンがメニューにありそうな典型の喫茶店。古びたレトロなドアを押して中に入る。ヒゲをたくわえたマスターと目が合う。

「今度は君かね」

 いきなり話しかけられて多少戸惑う。しかもまるで顔見知りであるような口ぶりだ。もちろん顔には出さないが。

「初対面でしょう……ね」

 声を張って言ってみて、何か日本語がおかしいことに気がつく。マスターも何やらしっくりこないご様子。本当は「初対面でしょうが」と言うつもりだったが、語尾の直前でタメ語で馴れ馴れしいと感じた。どうにかして敬語に近くできないかと苦心した結果があれである。しかも若干強調をしたものだから「初対面でしょう、ねっ!」という響きもあり、よく言えば人懐っこい、悪く言えば人の懐に簡単に入るような馴れ馴れしさを感じさせる。店内の人達の視線もどことなく不審げだ。まあ終わったことを気にしても仕方がない。窓際の席に座る。

 オーダーを取りにウェイトレスがやってきた。

「ブラックコーヒー」

「ご注文をお願いします」

「ブラックコーヒー」

「コーヒーのブラックでよろしいですか」

「はい」

 少し太り気味のポニーテールの彼女の後ろ姿を見つめ、奥に消えるとため息をついた。

 数分後にウェイトレスはブラックコーヒーを運んできた。付け合わせのおやつでビスケットが出てくるのかと思えば、そうではなかった。メニュー表を良く見るとビスケットが単品で載っている。慌てて立ち去ろうとする後ろ姿に「あのう」と声をかける。

「はい」

「ビスケットをお一つお願いします」

「ビスケットは六枚組ですが、こちらでよろしいですか」

「はい」

「今からですと、お時間掛かりますが、よろしいですか」

「ビスケットを出すだけで時間が掛かるの。……かなあと思いましたけど」

 またタメ語になりかけて修正した。ただウェイトレスは他人に興味がないタイプなのか無反応である。

「自家製のこだわりビスケットですので。生地を焼くまで時間が掛かるんです」

 舌打ちをしてしまった。簡単な仕事だと思っていたが、結構面倒くさい上に神経に障ることが多い。

 ハッとした。いつのまにか、向かいの二つ先の席に森下が座っている。しかもこちらに向いて広げた新聞から目から上だけを出している。果たしてこの男は何をしているのだろうか。疑問に抱いたら直ぐに口に出すのは親譲りだ。

「何をしているのでしょうか」

 すっと新聞が上に上がる。そしてワナワナ震えている。このままではただの独り言である。とりあえず杉田は森下がやってきた理由を考えてみた。

 作戦が実行されているか視察にきたのか、あるいは手順を何か間違ったのか。時折新聞が下がりこちらを睨みつけてくる。

(ははーん)

 やはり事が運んでいないことに彼が苛立っているのは歴然であろう。しかし文句を言われる筋合いはない。杉田はコーヒーをゆっくりと口に含む。その後におしぼりで陶器のカップに垂れた雫を拭いながら言う。

「ビスケットは注文受けてから調理するので、時間が掛かるんですよ。ご存知ありませんでしたか」

 やや責めるような口調だったからか、新聞の動きは一層激しくなる。やがて森下は咳払いを二度して立ち上がると店から出て行った。


          4


 グランドヒルの最上階から東京の街を一望して男は呟く。

「歴史が今日変わる」

 インサイダー取引きを内密に行った。

「一体、どれだけのお金が今夜動くか、想像もできない」

 あとは事が全て運んだかどうかは、喫茶店でわかる。秘書の河村が再度説明する。

「窓際にいる女がビスケットを割ったら、作業は完了したということです。私が見届けたらご連絡致します」

「ふん。徹底ぶりだな。とにかく任せたぞ」

 秘書は頭を下げて部屋を後にし、エレベーターを降り、エントランスからタクシーで商店街に向かう。そこから徒歩でアーケードにある喫茶店に辿り着いた。

 ドアを開けると目を合わせたマスターは申し訳無さげに頭を下げ、いまいましそうに窓際の女を見ている。というのもマスターは秘書の命令を受けた部下であった。事前の話では女は常連の設定のはずだったが、あろうことか初対面であると台無しにされ、不要な会話をして事を起こされた。あいつはバカだ、と彼は憎々しい気持ちを隠せない。

 そんな彼の横顔をウェイトレスはジロジロと見つめている。彼女は疑問だった。マスターは今朝から緊張した面持ちでいて、今日に限ってはビスケットを注文されても許可を出すまでは提供するな、と念を押されていた。その上、ビスケットは巷で売られている市販品なのに手作りだと嘘をつくことまで命令された。こんな話を信じるバカはいないだろうと思っていたが、窓際の変な女は見事に信じていた。思い出すと、笑いがこみ上げてきた。堪え切れず声に出して笑うと、

「ビスケットを出せ」

 ついにマスターから指示が出た。



          5


 森下は商業施設にいた。本来は喫茶店内で推移を見守るべきであったが、腹痛がいよいよ収まらず、やむなくトイレに駆け込んだのである。また潔癖症の彼はシャワー付きの便器に異様なこだわりがあり、駅に隣接したデパートに行かざるを得ない。勢いよくトイレットペーパーが回る音を響かせながら彼は気を揉んでいる。

 よもや。あそこまでとは。アクシデントが起こることは想定はしていたが、次元が違っていた。厚めに巻いたペーパーを引きちぎり舌打ちをした。

(あの杉田という女。恐らくは馬鹿だ)

 見た目こそキャリアウーマン風で騙されたが、途方も無いポンコツだった。まさか現場視察に行った自分に話しかけてくるほどの間抜けとは、本当に信じられない。目を閉じて頭を抱える。しかしひどい悪臭だ。何を食べたらこんな臭いを出せるのだ。この腹痛の原因は何だったのか。いや、そんなことはどうでも良い。まずは任務が無事に完了するかが主要課題だ。

(ど素人のアイツに重大な仕事を任せたのが大間違いだった。いくら簡単な仕事とはいえ、バイトではなく専門のプロフェッショナルを雇うべきだった)

 再度手順を確認するために、メモ帳を取り出す。最初のページを見つめて時間が止まった。設定の項目に喫茶店の常連であることが記されている。マスターとの台詞まで細かく記載されていた。

「しまった……台本を伝え忘れた」

 彼は設定に関して、彼女に説明しなかったのは自らの落ち度だと認めつつ、あの女とマスターが交わした会話を想像するのも恐ろしいことだと震える。あの融通の一切効かない女のことだ。どんな会話をしたのか、僅かにでも思い浮かべるとお腹が痛くなる。再び催す便意を沈めるために歯をくいしばる。考えてみれば店の中の様子もどこかおかしいと思っていたのだ。カランカランとトイレットペーパーの音は一層激しくなる。それが突然止まる。

(待てよ)

 後ろを向きながら気がつく。いつまで経っても拭ききれない。

「先にシャワーで洗うべきだった」


          6


 杉田は悩んでいた。ビスケットが手前にある。これを割れば仕事は終わる。ただそれだけのことだが、今更ながら躊躇してしまう。直感だが思うのだ。それと言うのも、目の前のビスケットはあろうことか、クリームを挟んだビスケットだ。

(これは割れるのか?)

 ジロリと眺める。これを割れないとなると、報酬はなしという展開にもなりかねない。せっかくの高収入の仕事なのに。これでは念願のインド行きも危ぶまれる。

 ついに杉田は腕を組んだ。熟考している。果たして割るというのはどういう事か。そこから考えねばならない。つまり指の力で無理矢理でも破砕粉砕することはできるかもしれない。だが想像してみよう。ボロボロと崩れていくお菓子。これを果たして割れるというのか。

 なによりも問題なのはワンチャンスということだ。確かに六枚のビスケットが手前にはある。だが森下は二枚目のビスケットは割れないと断言していた。つまりチャンスは一度きりしかない。割るという作業を的確に遂行するには、慎重にならざるを得ないのだ。

 そのときウェイトレスは眉間にしわを寄せて杉田の様子を伺っていた。気になるのは彼女の目つき、神妙な表情でビスケットを見つめる様子はどこかおかしい。まさか手作りのビスケットではないと、見抜いたのか。確かに、どう見ても市販品であるのは明らかであり、気がつかない方がありえない。すると杉田は何か思いついたように顔を上げて、手招きをしてきた。すぐさま駆け寄る。クレームのピンチだと、断念しながらも平静を装いながら伺う。

「何かご用でしょうか」

「ナイフとフォークが必要です」

 ウェイトレスは聞き間違えなのかと復唱して問い返すと、相手はそうだと頷く。

「ご用意しますのでお待ちください」

 そう告げて足早に相手から去った。普段は客のことなんて無関心の自分がどうしてこんなにワクワクしているのだろう。ウェイトレスはこの仕事に就いて初めて喜びを抱いていた。

(あの女め。ナイフとフォークで何をするつもりなのか!)

 すぐさま厨房にあるトレイに入ったステンレス製のフォークの一つを手に取り、反射する輝かしい光を見つめる。ウェイトレスは状況から一つの想像は抱いていた。今のところ提供したのはビスケットのみだ。まさかと思っていた。

 杉田は想像したより早くウェイトレスがナイフとフォークを持ってきたことに閉口した。なるほど、確かにビスケットに対してナイフとフォークを頼む客がいれば、他人に無関心の人間でも興味が生まれるのだろう。

「お客様。こちらになります」

 笑顔でナイフとフォークの入ったカトラリーケースを差し出された。ふん、と受け取る。先ほどの血の気のない対応とは嘘のような変わりようである。ウェイトレスはその場に居座り、若干の見られてるプレッシャーを覚えつつ杉田は直ぐに銀食器を両手に取った。やれやれ。この女のせいで目に見えぬ圧力は明らかに倍増している。

「あら美味しそうねぇ」

 あえて声を出して主導権をまずは握る。そして迷いなく皿にあるビスケットをフォークで抑え、ナイフを突きつけた。だが、中々切れない。というより刃がビスケット生地に食い込み、ノコギリのように削っていく必要があるのだ。上下に引いていく度に粉が出て確かに作業は進行しているものの、段々と苛立ってきた。三十秒ほど経過した頃であろうか。杉田は生真面目ではあるが、せっかちな性質なのが仇となった。つい力が入りすぎたのか、勢い余ってフォークからビスケットは横滑りして飛び出したのである。宙を浮いたクリーム入りのビスケット。そのまま床に落ちて、砕け散った。

「ああっ」と杉田は悲鳴をあげた。

 一部始終を見守っていたウェイトレスは、事が起こる前から両手で口を抑えていたが、ついに堪えきれず抱腹絶倒してしまった。

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